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日本の戦国時代の女性、武将・飯尾連龍の妻 ウィキペディアから
お田鶴の方(おたづのかた)は、戦国時代の女性。飯尾連龍の妻。椿姫とも呼ばれる。
この記事に雑多な内容を羅列した節があります。 |
夫の死後、夫の代わりに城を守り城兵や侍女とともに徳川家康と戦い討死した[注釈 3]。この逸話から吉田松陰の雑記である『辛亥歳雜抄』では烈婦の一人として扱われ、明治や大正時代の本である『東海道五十三次:附・名数雑談』では女武者、『皇朝金鑑』では烈女の一人として称されている。
江戸中期に編纂された「鵜殿家史」の家系図には三河国宝飯郡上ノ郷城(現在の愛知県蒲郡市)主である鵜殿長持の娘が「飯尾豊前守致実室」と記されており、現在の愛知県の蒲郡市で生まれた[3](『蛇塚由来記:落城秘怨史』では父は小笠原鎮実とも)、母は今川氏親の娘で今川義元の妹[3]または義妹である[1]。母方の祖父は今川氏親、母方の祖母は「尼御台」といわれた寿桂尼で、今川義元は伯父、北条氏康の正室である瑞渓院は伯母、徳川家康の側室西郡局は実の姉妹にあたるという説があるが、近年の研究で西郡局は鵜殿の分家であるとされ、田鶴の方との姉妹関係は否定されている。正室築山殿とは今川氏の同族で母同士が義理の姉妹にあたる[1]。また、今川氏親の子女の出生順を研究した黒田基樹によれば、今川氏親の娘(義元の姉妹)の中で鵜殿長持室・関口氏広室の実在は共に確認できないために後世の誤認もしくは創作が高いとされ[5]、築山殿との血縁関係にも疑問が持たれる。
夫の飯尾連龍は、徳川家康への内通を今川氏真に疑われて殺された。連龍の死に関しては諸説存在する。
『井伊家伝記』には1566年の連龍の死が原因で遠州引馬の家人は大いに騒動になり、これによって連龍の家老の江間泰顕と弟の江間時成の流浪は目前になった。時成は徳川氏に、泰顕は兄の一徳を頼り武田氏に内通しようとしたが、泰顕が時成を殺害、泰顕は時成の家来の小野田小次郎に殺害された。『遠江』には家老の時成、泰顕が城を守るも徳川派と武田派に分裂したため二人は争い共に討死したと記されている。『浜松御在城記』には連龍の死後、家臣の時成、泰顕が曳馬城を守るも泰顕は秋山信友を頼り武田氏に、時成は徳川家康に内通しようとした。やがて泰顕が時成を殺害、泰顕は時成の家来の小野田彦右衛門に殺害された。『武家事紀』『国別城郭』にはお田鶴の方は曳馬城に立てこもり飯尾の別心なきことを駿府に訴えていたが、連龍の家臣の時成、泰顕はなお岡崎に内通していたと記されている。しかし『改正三河後風土記』にはお田鶴の方は夫が氏真によって謀殺されたことに対して憤り、堅固に籠城を決意、城兵を指揮して、小国の武藤刑部丞を頼り武田氏に内通したともある。
連龍の死後、お田鶴の方が曳馬城を守っていたとされる。やがて、永禄11年(1568年)12月に徳川家康が城を攻めた。この時の様子に関しては諸説存在する。
お田鶴の方が防戦の指揮をとり、しばしば突出して、ついには侍女郎従もしたがって奮闘するも討死にした。(『遠江』)
時成、泰顕とともに城を守っていたが、永禄11年(1568年)12月に落城。お田鶴の方は侍女18人とともに出て力戦するも討死にした。(『武家事紀』)
「浜松合戦、井伊後室敗死」という題で飯尾豊前守後室ではなく井伊豊前守後室となっており(しかし『井伊家伝記』では、これは井伊直平が年老いていたため、出陣の際に連龍が代理人として出陣していたので、井伊豊前守と聞き伝えられていたのだと記されている)、永禄10年(1567年)に家康が松下常慶、後藤太郎左衛門を使者として送り、城を明け渡せば妻子共々面倒を見ると言ったが、お田鶴の方は「女と雖(いえど)も弓馬の家の者」と城を明け渡すのを拒否したため、家康は12月24日に城を攻めたが城兵が突出したため家康軍は敗北、翌未明に家康軍は再度攻め二、三の丸を破るも、家康の兵は300人討死し、城兵も200余り討死した。最期は緋威の鎧を着て長髪が乱れたお田鶴の方と長刀を持った侍女17人が左右に並び門を開けて突戦するも全員討死した。(『徳川伝記』)
家老の泰顕と時成が討たれても次男・辰三郎を介抱していたお田鶴の方は降参する様子を見せなかったため、徳川家康は松下常慶、後藤太郎左衛門を使者として送り「おとなしく城を明け渡せば給与の扶持米も合力米も渡し妻子共々面倒を見る上に領地も保障する。」と降伏を勧めたが、お田鶴の方は辰三郎を大切に思いなかなか承引せず、城兵300人余りで城の守りを固め、そればかりか過言な返事をした。そのため家康は城を攻めたが城兵はこれを防ぎ、厳しい鉄砲の打ち掛けあいになった。家康の兵は300人討死し、城兵も200余り討死するも、家康の軍は大軍だったため崩れず、家康の兵は二、三の丸を攻め入ったとき、お田鶴の方と次男・辰三郎と侍女18人左右に随え城外へ討って出て粉骨を尽くすも全員討死した。(『井伊家伝記』)
飯尾が家臣・時成、泰顕両人の内意で家康が家臣・松下常慶、後藤太郎左衛門両人を使者として派遣し、城を明け渡せば妻子だけでなく家人共々面倒を見ると言って諫めようしたが、お田鶴の方がどうしても応じなかったため、家康が曳馬城を乗っ取るために酒井忠次と石川数正に攻め込ませるが、お田鶴の方が防戦の指揮をして城兵はしばしば突き出て激しく戦い、酒井・石川は大いに敗走、その翌日、酒井・石川がまた激しく攻め立て、遂に外郭に乗り込まれると、お田鶴の方が緋威の鎧と同じ毛の兜を着て薙刀をふるって敵中に切って入り、侍女7、8人(『概説静岡県史』では侍女18人)も同じ装いで出て立ち、城兵5、60人と同じく勇戦し男女一人も残らず討死にした。(『改正三河後風土記』『武家名目抄』『東海道五十三次:附・名数雑談』『概説静岡県史』)
緋威の鎧と同色の兜を着て長刀を持って侍女7、8人と同じく出て左右に立った。(『古事類苑』)
永禄11年(1568年)にお田鶴の方が曳馬城に立てこもっていたので、徳川家康は松下常慶、後藤太郎左衛門を使者として送り、「城を渡されよ、さらは扶持しまいらせ、家の子もすへてよきにはからいなむ」と説得したが、お田鶴の方が応じなかったので家康は曳馬城を攻め込んだ。やがて12月24日の夜、塩市口より切り出て戦ったが家康は数多の軍兵だったため、翌日二、三の丸を破った。しかし家康の兵は300人討死し、城兵も200余り討死、お田鶴の方は侍女18人引き連れ切って出るも一ヶ所で全員討死したと板倉家の記に記されている。しかし、これは時代の違う大河内兵庫助の合戦のことで、実際はお田鶴の方が今川氏の出身なので、二股左衛門の計らいで人質として駿河に行ったのではないかとも記されている。(『遠江国風土記伝』『卑馬拾遺』『浜松御在城記』)
家康が使者を送り「城を致さしめ其邑を全からしめんとす[6]。」と城を渡せば亡き夫の領地をそのまま渡すと説得した。しかしお田鶴の方は「妾(わらわ)婦女と雖(いえど)も己に武夫(もののふ)の家に生(はべ)るものなり、おめおめ城を開きて降参するは妾(わらわ)の志にあらず[7]。」と申したため(『修身事蹟 : 婦女必読』ではこのお田鶴の方の申し出に対し家康は怒ったとも記されている)、家康は兵を使って城を攻めた。だが城兵は大いに戦い家康の兵は300人討死、城兵も200余り討死した[8]。やがて外郭を破るとき、お田鶴の方は鎧を着て髪を垂れ薙刀をふるい侍女17人とともに左右に並び門を開けて突戦するも全員討死した。『皇朝金鑑』『民政史稿.風尚民俗篇』で少し異なり髪を被り甲を擐き眉尖刀をふるい縦横に突戦し、向かうところ披き靡いたがみな戦死したと記されている。(『皇朝金鑑』『民政史稿.風尚民俗篇』『修身事蹟 : 婦女必読』)(『修身事蹟 : 婦女必読』では、後に家康は大いにこのことを惜しんだという。)
家康が永禄11年(1568年)12月24日に使者を使って「先さに吾に降り今又今川に属す故に攻むと云へとも城を致さは飯尾豊前守の後室を扶助すへし」と城を渡せばお田鶴の方を扶助するといったが、お田鶴の方が承引しなかったため、12月25日に家康は城を攻めた。この時お田鶴の方は甲冑を着て300人余りしたがえていたがお田鶴の方含むみな戦死、家康の兵も300人死傷した。(『尾参宝鑑』)
椿姫観音に関する伝説ではこうも書かれている。
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