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旧制の学校 ウィキペディアから
旧制広島高等学校(きゅうせいひろしまこうとうがっこう)は、官立の旧制高等学校。略称は「広高」(ひろこう)。
1923年(大正12年)12月に設立され、国内の官立高等学校としては姫路とともに最後(25番目)に設立された(広島高等師範学校・広島高等工業学校が既に設立されていたことが広高設立が遅れた理由といわれる)。創設経費80万円のうち40万円は広島県が負担した[1]。現在の広島大学総合科学部(旧教養部)の構成母体である。卒業生により「広島高等学校同窓会」が結成されている。
修業年限は3年で、文科および理科からなる高等科が設置された。隣接県にはいずれも高等学校が設立されていた(山口の山高、岡山の六高、島根の松江高、愛媛の松山高など)ため、広高は地元からの進学者がつねに半数以上を占め、広島が軍都・文教都市であった関係から教員・軍人の子弟が多かったことも特色といわれる。卒業生の大学進学率は高く(ほとんどが東大・京大進学者で、かつ法・経を志望した)、1930年(昭和5年)には全国一となった[1]。蛮カラ色はそれほど強くなく、概して温和で学究的・紳士的と評価されていた[1]。寄宿舎として「薫風寮」(1924年築)が設置されたが入寮志望者は少なかった。
現在、「広島高等学校」を校名としている学校としては広島県立広島高等学校があり、また、かつては広島工業大学付属校としての「広島高等学校」(現・広島なぎさ中学校・高等学校)が存在していたが、これらは旧制広島高校とは無関係である。
画像外部リンク | |
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広島県立文書館所有の絵葉書。 | |
[絵葉書]((広島名所)右 高等工業学校,左 高等学校,下 文理科大学校舎) 上左が広島高等学校正面。この時点ではまだ講堂の左右に校舎は築造されていない。 |
1945年(昭和20年)8月6日原爆被災時に大部分の広高生は勤労動員先におり、皆実町の校地では運動場の一角に航空輸送隊、寮の一部には数人の通信兵が駐屯していた。そして教官2名ずつが交代で寮で防衛宿直に従事していた。学生は文科の二年生のみが進級後に断続的な講義を受けていたが、次々に徴兵されたため、当日の朝礼には20人足らずの者しかいなかった(このことが、結果的にみて原爆による被害を抑えることとなった)。
原爆炸裂により校内の建物は大きく損傷、鉄筋コンクリート造の講堂・図書館・化学教室は窓などの損傷に止まったが、木造校舎・雨天体操場・銃器庫・食堂などは半壊し使用不能、寮はほとんど全壊という状況であった(しかし火災は発生しなかった)。日本製鋼所での動員作業に従事していた一年生は、6日当日がちょうど休電日だったこともあって外出許可が認められていたため、市内の自宅や外出先で被爆した。原爆による死亡者は即死または数ヶ月以内に死亡した者だけで教職員が3名、一年生が22名、二年生が2名、学年不明者が4名、計27名である。
新制広島大学移行後の1972年3月には広島大学原爆死没者慰霊行事委員会が発足して広高を含む広島大の旧制包括校の原爆犠牲者の慰霊事業が行われることとなり、その主要事業として1974年8月「広島大学原爆死没者追悼之碑」が建立された。この碑は広大本部が東広島キャンパスに移転したのちも東千田キャンパス内に残され、大学関係者によって毎年慰霊式典が行われている。
設立時以来、校地は広島市皆実町三丁目(現在は同市南区翠一丁目内)に位置していた。第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)7月には1年生が日本製鋼所広島製作所に動員されたため寄宿舎である薫風寮も同所内の寄宿舎に移転され、広高内の両者は陸軍に接収された。翌8月6日の原爆被災に際しては、校舎は全焼は免れたものの、全半壊あるいは大破して使用不能となり、また市内が全滅したため1946年(昭和21年)2月までに薫風寮も含め広島県佐伯郡大竹町(現在の大竹市)の海軍潜水学校校舎に移転した(大竹校舎)。生徒たちは街頭に立って旧校地移転のための募金運動を展開し、1947年(昭和22年)10月には主要校舎が復旧したため皆実町校地への復帰が開始され、1948年(昭和23年)3月までには完了した。
新制移行後は広島大学皆実分校(教養部)の校地として継承されたが、1961年(昭和36年)、教養部が東千田町(当時の本部キャンパス)に移転するのと入れ替わりに、本部キャンパスからは広島大学附属中学校・高等学校が移転(さらに64年には同附属小学校が移転)、現在に至っている。
また、寄宿舎だった薫風寮は、新制移行後の広島大学の学生寮の1つとして名称が継承され、旧制広高所在地に近い広島市南区出汐の広島陸軍被服支廠跡地に所在したが、広島大学キャンパスの東広島市移転で廃寮となった(寮となっていた建物自体はその後国に移管され、2020年8月時点で現存している)。
広高を記念するモニュメントとしては、広島城南西の中央公園に「広高の森」の碑、また被爆死した広高教授で歌人・国文学者でもあった中島光風の歌碑が建てられている。
広高の講堂(冒頭画像参照)は、1927年1月に竣工したRC造平屋建(一部2階建)の建造物である。原爆被災時には爆心地から2.69㎞の位置にあり、講堂自体の被害は軽微であった。戦後、新制広島大学への移行に際しては、同校が母体となった広大教養部(現・総合科学部)の施設としてそのまま使用された。その後1961年、教養部との校地交換によりそれまで本部(東千田)キャンパス(当時)に立地していた広大教育学部附属中・高校が移転してくると同校の講堂となり、2014年現在に至るまで現役の施設として使用されている。1998年には登録有形文化財に登録され、広大キャンパス内の多くの被爆建造物が取り壊し、あるいは(旧理学部1号館のような)放置の運命をたどるなか、例外的な存在となっている[2]。
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