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呉海軍工廠(くれかいぐんこうしょう)は、広島県の呉市にあった日本の海軍工廠。戦艦大和の建造で有名だが、終戦により工廠は解散。現在はジャパン マリンユナイテッド呉工場として大型民間船舶の建造を行っている。
1889年 (明治22年) 呉鎮守府設置と同時に「造船部」が設置される。当初造船は神戸にあった小野浜造船所に頼っていたが、徐々に呉での設備を拡充、小野浜造船所は後に閉鎖された。 1903年 (明治36年)に日本海軍の組織改編で呉海軍工廠が誕生。その後は東洋一と呼ばれるほどにまで設備を充実させた。工員の総数は他の三工廠、横須賀、佐世保、舞鶴の合計を越える程で、ドイツのクルップと比肩しうる世界の二大兵器工場であった。戦艦「大和」を建造するなど多くの艦艇建造を手がけ、日本海軍艦艇建造の中心地となった。
砲熕部(砲塔(砲身を含む)の製造、開発)、製鋼部(装甲板の製造、開発)が設置され戦艦建造の主導的役割を果たしていた。三菱重工業長崎造船所で建造された戦艦武蔵の主砲塔、砲身も呉で製造されている。
1912年3月29日、1万人参加のストライキがうたれた。このストライキには、作家の宮地嘉六も参加し、第九工場の首謀者として検挙された。さらに、1918年8月の1918年米騒動には多数の工廠労働者が参加し、銃剣を持った海軍陸戦隊と対峙し死傷者が出た。
土地、設備は播磨造船所と米ナショナル・バルク・キャリア社(NBC)が引き継ぐ。呉造船所、石川島播磨重工業(現IHI)呉工場を経て現在はジャパン マリンユナイテッド呉工場。呉工場での自衛艦艇の建造は無いが、修理は行っている。なお「造船船渠(大和の建造用ドック)」は1993年に埋め立てられ、跡地は工場として再利用されている。しかし、大和の修理を行った「船渠(ドック)」は現存しており、自衛艦や米軍艦船などが現在も使用中である。
呉海軍工廠が大和建造時に採用した船体を部分ごとに造るブロック工法、部品共通化などの革新的管理システムは、後に世界に広まる効率的な日本型生産方式の源流ともいわれる[1]。
戦前
戦後
部活動は全国規模で活躍した。排球(バレーボール)部は1922年創部。全日本総合選手権では1934年優勝し、1928年・1931年・1942年と3度準優勝している。蹴球(サッカー)部は創部年不明であるが、全国規模の大会に出場していた。硬式野球部は第14回都市対抗野球大会と第16回都市対抗野球大会に出場経験がある。
広島専売男子排球部(後のJTサンダーズ広島)や東洋工業蹴球部(後のサンフレッチェ広島F.C)は、県大会で常に呉工廠の前に敗れていたという記録が残っている。また、広島鉄道局(後のJR西日本硬式野球部)と並ぶ広島県勢の強豪球団としても知られていた。
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