岩菅山スキー場
ウィキペディアから
ウィキペディアから
岩菅山スキー場は、日本が1998年冬季オリンピックの自国開催を目指すのにあたり、開催都市として立候補した長野市が、アルペンスキー競技の会場としてJOCに提案したスキー場計画[1]である。自然保護などの理由から、二度に亘る計画変更にもかかわらず本スキー場構想が実現するには至らなかった。
本スキー場は、志賀高原の最高峰である裏岩菅山(標高2341m)と3番目の高峰である岩菅山(同2295.3m)の各々の頂上付近から西向き斜面に展開する二つのエリアによって構成され、各エリアの麓地点と最高地点との間を、それぞれゴンドラリフト等の高速リフトで結ぶ計画であった。
主要なコースは、冬季オリンピックのアルペンスキー高速系競技[注釈 1]を念頭に計画され、高標高域を中心に急斜面で構成された上級者向けのレイアウトとなっている。斜度がやや緩やかになる中盤付近にはゴンドラリフトの中間駅やリフト降車場が設けられ、中級者が急斜面を避けて滑走できる工夫がなされているが、緩斜面は麓付近の一部に限られ、初級者が楽しめるコースは殆ど存在しない。
最高地点となる裏岩菅山頂上付近の標高(2329m(修正案では2340m))は、本スキー場構想が実現していれば横手山・渋峠スキー場の最高標高地点2305mを24m(同35m)上回り、索道が常設されている日本国内のスキー場としての最高地点[2]となる予定であった。
1960年、第10回冬季オリンピック招致に向けて長野県内の開催都市候補に山ノ内町が名乗りを上げたことを受け、1962年に国際スキー連盟が初めて志賀高原を視察した[3]。同じ頃、国土計画興業(後の国土計画)は、自社が群馬県、長野県および新潟県に所有あるいは運営する上信越高原国立公園内とその周辺に点在する複数のスキー場[注釈 2]を互いに索道で連結して、イタリアのコルチナ・ダンペッツォに並ぶ一大ウィンターリゾートネットワーク構想(後のSuper Ski Network[4])を描き始め[5]、岩菅山スキー場を構想の地理的中心に位置付けていた。オリンピック招致活動が本格化してきた1961年、国土計画興業の取締役であった堤義明は、町長や町議長等と会談すると[5]、翌年の1962年には熟平(奥志賀高原)、焼額山、岩菅山の3地区におけるスキー場開発が浮上し、各地区の土地所有者である町(熟平)、共益会(焼額山および岩菅山[共有])、和合会(岩菅山[共有])による懇談が行われた[5]。その当時は、高度経済成長という社会環境のもと、自然の保護に対する世間一般の関心が比較的薄かったことや、札幌オリンピック滑降コース設営による自然破壊問題が顕在化(1966年)する以前であったこともあり、岩菅山を滑降競技コースとしてオリンピックを開催すべしとする記事が地元のローカル紙に掲載される[6]など、岩菅山スキー場構想に対して好意的と受け止められる一面もあった。1963年、焼額山の開発について土地所有者である共益会と国土計画との間で合意が成立[5]して、1983年に焼額山スキー場が開業すると、国土計画は、自社が運営する各スキー場の間をロープウェイでつなぐ壮大な構想『Super Ski Network』を、岩菅山スキー場のリフト配置とともに公表[4]し、1987年に制定されたリゾート法、1990年前後のバブル景気およびスキーブームの追い風の中、構想は具体性を増していった。
一方、長野県知事の吉村午良(当時)には、長野県におけるスキーを中心とするウィンタースポーツが、高速道路や新幹線が既に整備されていた新潟県や群馬県の関越沿いのスキー場に遅れをとっているという危機感から、オリンピック招致をきっかけとして北陸新幹線(開通当時の通称は長野新幹線、JRの呼称は長野行新幹線)および上信越自動車道の首都圏とを結ぶ二つの交通インフラを県庁がある長野県北部にまで整備させたいという強い思惑があった[7]。そして1985年3月の県議会決議を経て、オリンピックを長野県に招致する運動が本格化していった。県はこれまで、第5回大会(戦争により札幌が開催都市を返上しコルチナ・ダンペッツォでの開催となるが中止。)、第10回大会(国内選考で落選。札幌はグルノーブルに敗れるが第11回の開催都市を勝ち取る。)での2回の招致失敗の苦い経験があり、3回目の挑戦となる第17回大会の招致活動は、吉村午良が自らの知事の椅子をかけた排水の陣での戦いとなった。
国土計画の社長となった堤義明は、焼額山スキー場が開業した3年後の1986年に全日本スキー連盟(SAJ)の会長[8]、1989年に日本オリンピック委員会(JOC)の会長[9]、長野冬季オリンピック招致委員会の名誉会長に就任し、国土計画と長野オリンピックとの関係がおのずと強化されていった。長野県は、岩菅山スキー場開発を目論む国土計画に協力する形で関係を深めることにより、国際オリンピック委員会のメンバーに人脈のある堤義明の影響力という強力な武器を手に入れ、長野へのオリンピック招致に向けて大きく前進していったのである。
長野県と国土計画は、岩菅山スキー場を具体化するにあたり、森林法に基づく林地開発の規制強化[10]の中、自然環境の保全への配慮として森林伐採面積を減らすべくコース幅を極力せばめた計画とした。また、近接する既存スキー場関係者の理解を得るべく、オリンピック終了後の利用方針については、あくまで一般のスキーヤーには解放せずに競技者専用コースとして選手の強化・育成を図るためのトレーニングコースに利用するとともに国際、国内の各種大会を開催していく[1]ことを開催計画書に明記した。
しかし、スキー場の具体案には、多くのスキーヤーの利用を想定したレストランが山頂部や山麓部に複数計画されているなど、利用方針との矛盾を疑われかねない施設が盛り込まれていたこと、長野オリンピックの会場として本スキー場の具体的計画が示されるまで、岩菅山の土地所有権者(共有者)である和合会への根回しがなかった[11]こと、並びに、国土計画による焼額山スキー場開発の際には地元が賛否でおおきな対立に発展[12]したことなど、大手企業の資本による志賀高原の開発に対する地元関係者や自然保護団体に根深い不信感が募っていた[13][注釈 3]。
1988年、JOCは長野市をオリンピックの国内候補都市に決定したものの、おりしも自然保護への意識の高まり[14]と、国土計画の資本による志賀高原開発への反発により、開催者側が自然環境への配慮として2回に亘る規模縮小や開発エリア、コースレイアウトの変更案を提示し、あるいは、大手資本への不信感払拭のために山ノ内町が県に対して自らが岩菅山の開発主体となる提案を行った[15]ものの、その甲斐なく、1990年4月、長野県は国土計画(当時)とともに岩菅山系のスキー場構想を断念し[注釈 4]、岩菅山スキー場計画は完全に白紙となった[注釈 5]。
コースの殆どが尾根線を利用しているためコース幅は狭い割には比較的開放感は味わえ、雑魚川を挟んで正面に焼額山とその斜面を利用した焼額山スキー場および奥志賀高原スキー場を視界に収めることが可能であるが、急斜面が多いことから景色を堪能しながらスキー滑走を楽しむことは難しい。
コース | 難易度 | 滑走延長 | 斜度 | 備考 | ||
---|---|---|---|---|---|---|
平均 | 最大 | |||||
裏岩菅山 | 男子滑降コース | 上級 | 3117m | 16° | 34° | コース名称、滑走延長および斜度は『1998年オリンピック冬季競技大会開催概要計画書(長野市)』に記載された値。 |
トレーニングコース | 上級 | 2700m | 16° | 34° | ||
連絡コースA[注釈 6] | 中級 | 420m | 15° | 18° | 滑走距離および斜度は、国土地理院『1:25000地形図(岩菅山)』に基づく概算値。 | |
連絡コースB[注釈 6] | 中級 | 1060m | 14° | 17° | ||
岩菅山 | 裏岩菅山連絡コース[注釈 6] | 中級 | 850m | 10° | 17° | |
岩菅山頂ゲレンデ[注釈 6] | 上級 | 430m | 21° | 28° | ||
女子滑降コース | 上級 | 2255m | 16° | 26° | コース名称、滑走延長および斜度は『1998年オリンピック冬季競技大会開催概要計画書(長野市)』に記載された値。 | |
男子スーパーGコース | 上級 | 2211m | 16° | 30° | ||
女子スーパーGコース | 上級 | 1892m | 15° | 30° |
初案から約1.5km北側のエリアにおいて初案とは全く異なるコースレイアウトが計画された。エリアは裏岩菅山の西斜面に限定され、岩菅山西斜面の計画は白紙となっている。初案の開発エリア(約87.4ha)に比べて、コースの数などが大幅に減った(約71ha)という意味では、初案よりも自然保護に配慮した案として提示されたが、自然保護団体の理解は得られなかった。
コース | 難易度 | 滑走延長 | 平均斜度 | 備考 |
---|---|---|---|---|
男子滑降コース | 上級 | 3132m | 15° | |
アップコース | 上級 | 1440m | 13° | |
女子滑降コース | 上級 | 2800m | 13° | 男女スーパーGコースと兼用。 |
トレーニングコース | 上級 | 1580m | 15° |
男子滑降コースのスタート地点は、初案で計画された男子滑降コーススタート地点の北約200mにある裏岩菅山頂上(標高2341m)脇となる標高2340mに変更され、初案で示されたスキーエリアとは逆方向の岩菅山頂部の南北に連なる尾根を北に向かって滑り始め緩やかな左カーブを描きながら裏岩菅山西斜面を下っていくコースに大きく変更された。
女子滑降コースのスタート地点は、男子滑降コースのスタート地点から更に1000m程北側にあたるニノコブと呼ばれる尾根付近の標高2150mの位置に計画された。
両コースは序盤は尾根沿いの急斜面であるが、中盤にあるやや緩やかな高原状の地点で合流し、そのままゴール地点まで同一のコースをたどる。ゴールは男女ともに初案の男子滑降コースゴール地点から北に約1000mの標高1500m地点に変更された。
男女のスーパー大回転コースは、女子滑降コースと同じコースを使用し、スタート地点の標高が女子滑降コースのそれよりもやや低い位置に設定されている。
上記二つのコースの他に、トレーニングコースが女子滑降コース上部付近から分岐して尾根沿いに直進するコースとして計画され、また男子滑降コースの中盤(女子滑降コースとの合流地点のやや上)で滑降コースと並行してアップコースが設定された。
変更案に計画されていたトレーニングコースとアップコースを断念し、かつ全てのコースを幅員50mから30mに狭めたシンプルなコースレイアウトとした。開発面積は、変更案から更に縮小され、スタート地点の標高は30m下がり、ゴール地点の標高は10m上がり、全体的にコンパクトにはなった。しかし、これによりオリンピックの高速系競技を開催するためだけのスキー場となってしまい、却って開発する意味が薄れる皮肉なプランとなった。
コース | 難易度 | 滑走延長 | 平均斜度 | 備考 |
---|---|---|---|---|
男子滑降コース | 上級 | -m | 15° | |
女子滑降コース | 上級 | -m | 13° | 男女スーパーGコースと兼用。 |
裏岩菅山山頂付近のロープトウを除き、すべてが自動循環式(デタッチャブル)、かつ、ゴンドラもしくはフード付きリフトで構成されている[1]。
リフト名称 | 距離 | 標高差 | 時間 | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|
裏岩菅山 | 6人乗りゴンドラ | 2,980m | 820m | -m--s | |
4人乗りゴンドラ | 2,140m | 470m | -m--s | ||
フード付高速トリプル | 700m | 340m | -m--s | ||
ロープトウ | 200m | 30m | -m--s | ||
フード付高速ペア | 1,210m | 280m | -m--s | 岩菅山ゾーンへの連絡リフト。 | |
岩菅山 | フード付高速ペア | 830m | 330m | -m--s | |
6人乗りゴンドラ | 2,200m | 500m | -m--s | ||
フード付高速トリプル | 460m | 150m | -m--s |
リフトの路線数は初案の8路線から4路線に半減し、ゴンドラリフトは取り止めとなった。
デタッチャブルリフト(自動循環式高速リフト)は、4人乗りリフト(クワッドリフト)が、ゴール地点と女子滑降コーススタート地点の南約300m付近とを結ぶもの、ならびに、トレーニングコースの起点・終点を結ぶものの2路線、アップコースの起点・終点を結ぶ3人乗りリフト(トリプルリフト)が1路線計画された。ゴンドラリフト山頂駅と裏岩菅山頂上との間は、裏岩菅山の稜線を通るために強風が予想されリフトの設営が困難なことからTバーリフトが計画された。
トレーニングコースとアップコースが白紙となったことから、ゴール地点と男女の各滑降スタート地点とを結ぶ2路線がV字型に計画された。これまでの支柱を多数設置する一般的なチェアリフトよりも自然環境への影響が少ないとされる複線交走式普通索道(交走式ロープウェイ)[16]に変更された。
本スキー場の構想は実現していないが、トレッキングコースは古くから整備、利用されており、岩菅山頂上には山小屋(岩菅小屋)が設置されている[17]。
岩菅山系のアライタ沢、ハシゴ沢、吉沢、中沢およびこれらの沢が流れ込む雑魚川での渓流釣りは禁止されている[17][20]。
岩菅山の麓には飲食店は存在せず、夏季に営業している最も近接した飲食店は一の瀬地区の宿泊施設内のレストランとなる(志賀高原プリンスホテルは冬季以外営業休止中[注釈 7])。
本スキー場計画においては、以下の4か所にレストランが計画されていた[1]。
聖平登山道の入口付近に普通乗用車を数台停められるスペースが設けられている(雑魚川の対岸には志賀高原プリンスホテルの駐車場が整備されているが冬季以外は営業休止中[注釈 7])。
本スキー場計画には、以下の5か所に駐車場が計画されていた。このうち3か所についてはオリンピック開催時に関係者専用駐車場と位置づけられていた[1]。
岩菅山登山道入口までのアクセスは以下のとおりである。
なお、長野県道471号線がアライタ沢を超えるために大きく山側に迂回している部分周辺は、岩菅山スキー場開発計画(初案)において、岩菅山エリアのベース基地が設けられる計画地となり、道路はアライタ沢を橋梁で跨ぐ直線的なルートに変更される予定であった。
(グレーの網掛けは「岩菅山スキー場」あるいは「長野オリンピック」に間接的に関係する事柄)
日付 | 出来事 | |||
---|---|---|---|---|
1930年 | : | 旭山スキーコースが志賀高原スキー場として開設[23]。 | ||
1935年 | 12月 | : | 志賀高原スキー場が鉄道省により「国際スキー場」に指定[24][25]。同地の冬季オリンピック誘致運動開始[26]。札幌、日光、菅平、霧ヶ峰、乗鞍と国内候補地争いを繰り広げた[15]。 | |
1936年 | 11月 | 2日: | 全日本スキー連盟、大日本体育協会等の関係者が視察団を組んで志賀高原一帯を調査するも、都市開催の条件を満たさないとして失格(札幌市が国内候補地に決定)[15]。 | |
1947年 | 1月 | 20日: | 志賀高原スキー場丸池スキー場に日本初のスキーリフトが敷設[24][25]。 | |
1949年 | 9月 | 7日: | 厚生省は、岩菅山および裏岩菅山一帯を含む志賀高原地域を上信越高原国立公園に指定。 | |
1952年 | 10月 | 9日: | 厚生省は、岩菅山と裏岩菅山を結ぶ稜線を上信越高原国立公園の歩道施設「東館山切明縦走線」の一部として指定[22]。 | |
1956年 | 3月 | : | 国土計画興業(後の国土計画、コクド)が、後の「Super Ski Network」構想の一翼を担う万座温泉スキー場[27]を開業。 | |
1960年 | 4月 | : | 第10回冬季オリンピック招致に向けての国内開催都市の長野県内候補地として山ノ内のほか、白馬、乗鞍、軽井沢が立候補[3]。 | |
1961年 | 3月 | 29日: | 第10回冬季オリンピック招致で国土計画興業の堤義明取締役と山ノ内町関係者とが懇談[3]。 | |
4月 | : | 冬季オリンピックの国内候補地選定に向け、山ノ内町は軽井沢町との共催として立候補。 | ||
10月 | 24日: | 厚生省は、一の瀬地区旅館街および聖平と岩菅山頂上付近のノッキリとを結ぶ登山道を上信越高原国立公園の歩道施設「岩菅山登山線」として指定[22]。 | ||
12月 | : | 国土計画興業が後の「Super Ski Network」構想の核施設となる苗場国際スキー場(現苗場スキー場)を開業[27]。 | ||
1962年 | : | 岩菅山、焼額山、熟平(奥志賀高原)の開発について、山ノ内町、共益会、和合会の三者懇談会開催[5]。 | ||
2月 | : | 冬季オリンピックの国内誘致のための中央招致委員会が志賀高原を視察[3]。 | ||
3月 | : | 国際スキー連盟(IOC)が冬季オリンピックの会場候補として初めて志賀高原を視察[3]。長野県は県内候補地一本化に乗り出したものの、山ノ内・軽井沢と白馬とは最後まで譲歩せずに統一が図れず、これが一因となり落選(札幌が国内候補地となったが開催都市はグルノーブルに決定)。 | ||
1963年 | 8月 | : | 共益会が国土計画興業との間で焼額山開発に関する取り決め文書を締結。国土計画興業は焼額山スキー場開発を開始。 | |
1970年 | 12月 | : | 国土計画が後の「Super Ski Network」構想のひとつとなるみつまた高原スキー場(後の神楽・田代・みつまたスキー場。現かぐらスキー場)を開業[27]。 | |
1973年 | 12月 | : | 長野電鉄が焼額山北東麓に奥志賀高原スキー場を開業[3]。 | |
1980年 | 10月 | 26日: | 吉村午良が長野県知事に就任。[28] | |
12月 | : | 国土計画が後の「Super Ski Network」構想のひとつとなる三国スキー場を開業[27]。 | ||
1982年 | 5月 | 28日: | IOC総会にて猪谷千春のIOC委員就任を決定[9]。 | |
1983年 | 12月 | 日: | 国土計画が志賀高原焼額山スキー場を開業[27]。 | |
1985年 | 2月 | 28日: | 信濃毎日新聞社が長野県への冬季オリンピック招致キャンペーンを開始。 | |
5月 | 16日: | 長野自動車道(須坂長野東IC-信州中野IC間)の施行命令。 | ||
12月 | 18日: | 長野冬季オリンピック招致準備委員会設立。 | ||
1986年 | 6月 | 9日: | オリンピックのアルペン競技会場が山ノ内町に決定。 | |
8月 | 1日: | 国土計画社長の堤義明が全日本スキー連盟(SAJ)の会長に就任。 | ||
1987年 | 12月 | : | 国土計画が焼額山西側の五輪山西斜面にごりん高原スキー場を開業。 | |
8日: | 上信越自動車道(佐久IC-更埴JCT間)の施行命令。 | |||
19日: | 岩菅山に滑降競技コースを新設する開催計画書公表。 | |||
23日: | 長野市は岩菅山コース「初案」を公表。 | |||
1988年 | 3月 | 26日: | SAJが岩菅山を視察。 | |
4月 | 16日: | 日本オリンピック委員会(JOC)が岩菅山を視察。 | ||
23日: | 長野県自然保護連盟が岩菅山の自然調査を開始[29]。 | |||
5月 | 16日: | 招致委員会が長野冬季オリンピック招致自然保護専門委員会を、長野県が志賀高原岩菅山自然環境調査委員会を、それぞれ設立。 | ||
6月 | 1日: | JOC総会において長野市が1998年冬季オリンピックの国内候補都市に決定。 | ||
1989年 | 6月 | 17日: | 長野冬季オリンピック招致委員会により裏岩菅山「変更案」公表[30]。 | |
8月 | 2日: | 北陸新幹線(高崎駅-軽井沢駅間)が着工。 | ||
7日: | JOC会長に堤義明が就任[9]。 | |||
9月 | 25日: | 日本生態学会は「岩菅山コース開設」に反対する意思を長野冬季オリンピック招致委員会、長野県、長野市、山ノ内町等に提出。 | ||
26日: | 志賀高原岩菅山自然環境調査委員会は長野県に「裏岩菅山コース支持」の最終報告書を提出[5]。 | |||
10月 | 12日: | 堤義明が長野冬季オリンピック招致委員会の名誉会長に就任。 | ||
12月 | 19日: | 岩菅山開発反対意見書がIOCに届き自然環境問題が国際的になっている旨、猪谷IOC理事がJOCに報告[29]。 | ||
20日: | 日本自然保護協会が意見書「岩菅山の自然環境に手をつけず、既設のスキー場を使用を」を長野冬季オリンピック招致委員会に提出。 | |||
27日: | 長野冬季オリンピック招致自然保護専門委員会は「裏岩菅コース支持の意見多数」を報告[5]。 | |||
1990年 | 1月 | 17日: | 山ノ内町が長野県に対し「岩菅山は競技者優先コースとして山ノ内町が開発する」旨の提案を行い、県知事と招致委員会に対し協力を要請[5]。 | |
22日: | 長野冬季オリンピック招致自然保護専門委員会は「変更案」を多数とした報告書を提出。日本自然保護協会は、長野冬季オリンピック招致委員会自然保護専門委員会の答申に対するコメントを発表[31]。 | |||
26日: | 長野冬季オリンピック招致委員会はアルペンスキー競技の高速系種目の会場を裏岩菅山「変更案」とすることを決定。 | |||
2月 | 13日: | 長野市がIOCに対して正式に立候補を表明。 | ||
3月 | 22日: | SAJによる岩菅山視察の後、焼額山プリンスホテルにて会長の堤義明自らSAJ修正案を開示[5]。 | ||
4月 | 5日: | 長野県とJOCが、岩菅山開発を断念するとともにアルペンスキー競技の高速系種目を白馬・八方尾根で開催する変更案を発表。吉村知事は記者会見にて「自然保護問題をかかえたままこれ以上招致活動をすすめるのは困難と判断し、岩菅山開発は断念する。」と釈明し、またJOCの堤会長は「国民的な大会であるオリンピックは、広い国民の支持がなければ成功しない。」と説明した。 | ||
4月 | 12日: | 堤義明がJOC会長を辞任。 | ||
1991年 | 6月 | 15日: | IOCは総会において長野市を1998年冬季オリンピック会場とすることを決定。 | |
9月 | 17日: | 北陸新幹線(軽井沢駅-長野駅間)が着工。 |
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.