姶良町
日本の鹿児島県姶良郡にあった町 ウィキペディアから
日本の鹿児島県姶良郡にあった町 ウィキペディアから
姶良町(あいらちょう)は、鹿児島県(離島以外の地域)の中部にあった町である。姶良郡に属していた。
あいらちょう 姶良町 | |||
---|---|---|---|
布引の滝 | |||
| |||
廃止日 | 2010年3月23日 | ||
廃止理由 |
新設合併 姶良町、加治木町、蒲生町→姶良市 | ||
現在の自治体 | 姶良市 | ||
廃止時点のデータ | |||
国 | 日本 | ||
地方 | 九州地方 | ||
都道府県 | 鹿児島県 | ||
郡 | 姶良郡 | ||
市町村コード | 46442-2 | ||
面積 | 102.52 km2 | ||
総人口 |
45,115人 (推計人口、2010年2月1日) | ||
隣接自治体 |
鹿児島市・加治木町・蒲生町・ 霧島市・薩摩川内市 | ||
町の木 | やまざくら | ||
町の花 | さざんか | ||
姶良町役場 | |||
所在地 |
〒899-5432 鹿児島県姶良郡姶良町宮島町25番地 | ||
外部リンク | 姶良町 - ウェイバックマシン(2006年1月3日アーカイブ分) | ||
座標 | 北緯31度43分42秒 東経130度37分40秒 | ||
ウィキプロジェクト |
県内の町村で最も人口が多い町であり、九州の町村では福岡県筑紫郡那珂川町(現・那珂川市)に次いで2番目に人口が多かった[いつ?]。2010年3月23日付けで同じ姶良郡の蒲生町・加治木町と合併して姶良市となった。
南北に細長い形をしており、南側を鹿児島湾に面している。南部は別府川や思川によって形成された姶良平野が広がっているのに対し、北部は北薩火山群に囲まれた山がちな地形となっている。最高峰は霧島市との境界にある烏帽子岳 (702.9m) で、おおむね東側の霧島市との境界、西側の薩摩川内市との境界に山が並んでおり、その間は別府川の支流が南へ流れている。また、旧蒲生町、鹿児島市側から標高100m程度の台地が町中央部に西から延びている。鹿児島市との境界は500m前後の牟礼ヶ丘連山となっている。牟礼ヶ丘連山の海岸側は急峻な崖となっており、崖下を国道10号、JR日豊本線が通って鹿児島市と連絡している。
鹿児島市に隣接しており、近年は東隣の加治木町とともに鹿児島市のベッドタウンとして発展。南部平野部にある国道・駅の周辺が開発され、住宅地が広がっている一方、北部山間地帯は1988年(昭和63年)に北山中学校が閉校となるなど過疎が進んでおり、同じ町内での差が大きい。山間部と平野部の中間の別府川中流部には水田地帯が広がっている。
住所として使われている地名の一覧。
旧石器時代の遺跡は、姶良町内では発見されていない。縄文時代の遺跡はいくらかあるが、縄文海進により低地の大部分は海の中であったため台地の上に集中している。弥生時代以降になると低地にも遺跡が出現する。
713年(和銅6年)4月、日向国の一部を割いて大隅国が設置された。朝廷による支配に対して隼人族は抵抗したため、豊前国から住民を移住させ、桑原郡を建てた。これが現在の姶良郡に相当する。この頃の地名として答西(たふせ)というものがあり、これがなまって長くこの地域の郷の名前になり、現代に残る帖佐(ちょうさ)という地名になったと考えられている。
奈良時代には、福岡志賀島から鈴木三郎政氏、四郎政良の兄弟が摂津国の住吉明神(住吉大社)を勧請してこの地にやってきて、住吉地区に神社を築いた。現在でもその子孫とされる人が居住しており、また住吉池という名前の由来でもある。弟の政良は山田地区の開拓を行い、黒島神社を築いている。
大隅国の国分寺に使われた瓦は、姶良町船津地区にある窯跡のものと特徴が一致しており、ここで焼かれたものであると考えられている。
薩摩国・大隅国へは班田収授法の適用が遅れていたが、800年(延暦19年)になってようやく施行された。しかし次第に律令制は崩壊に向かい、貴族や寺社による私有地化が進み、当時の帖佐郷は藤原忠実により1136年(保延2年)、大隅正八幡宮(鹿児島神宮)へ寄進された。
1276年(弘安5年)の大隅国在庁石築地役配符によれば、この頃鍋倉地区は加治木郷に属しており、脇元地区は蒲生院であった。それ以外のほぼ現在の姶良町に相当する地域は帖佐郷であったとされる。
1282年(弘安5年)、山城国から平山了清が下ってきて、大隅正八幡宮領の帖佐郷を治めることになった。了清は、姶良町の海岸部である松原地区(現在の大字では東餅田)に一旦上陸し、その後別府川を遡って船津で船を係留して一晩を明かし、翌朝東側の三拾町に上陸したという故事がある。大隅正八幡に対して新正八幡と称する神社を山の上に作り、また平山城を造営して居城とした。この新正八幡宮は現在も存在しており(現八幡神社)、社殿の前には了清が植えたといわれる樹齢700年あまりの大銀杏がある。平山氏はその後現在の姶良町内各所に城を築いて一族で支配を行った。
南北朝時代から室町時代にかけては、この地域の各豪族の間で争いが繰り返された。姶良町内にある各城も何度も攻防戦が繰り広げられている。1458年(長禄2年)、島津季久が平山氏に代わって帖佐郷を支配するようになり、瓜生野城(後に建昌城と呼ばれるようになる)を築いた。1459年(長禄3年)には平山氏は島津忠国に敗れて指宿に移されている。
季久の子島津守興(起宗和尚)は、薬師如来を信奉し、この頃越後国米山薬師を参詣した時に得た薬師如来像を持ち帰り、平山城南端の山が米山に似ていることからこの地に堂を建てて安置した。これが帖佐の米山薬師の由来である。
1495年(明応4年)加治木の加治木久平が平山城を襲うが、島津方の守備が堅く撃退された。この時に守備していた川上忠直は戦功により帖佐の地頭を任じられ、領地の名から辺川忠直と改名した。
その後、帖佐の地頭は繰り返し替わり、また平安城も祁答院氏によって1529年(享禄2年)に陥落している。島津氏の家中は一時期混乱し、帖佐郷の支配権は反島津勢力の手に渡った。
1554年(天文23年)、岩剣城の戦いがおこり、島津氏が日本で初めて鉄砲を実戦で使用したと言われる(異説もある)。島津貴久が蒲生範清を1557年(弘治3年)に降伏させて、最終的に帖佐郷は島津氏の支配がほぼ確立した。
1594年(文禄3年)、太閤検地が行われ、帖佐郷は7864石あまりの土地が記録されている。文禄の役から帰国した島津義弘は、1595年(文禄4年)、鍋倉地区に新築した御屋地(おやじ)と呼ばれる館に入り居住した。これ以来この地域は帖佐郷の中心として発展した。義弘が朝鮮半島から連れ帰った陶工により、古帖佐焼などの窯が開かれている。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いにおいて島津義弘は敵中突破の退却を行い、帖佐郷に引き上げてきた。その後しばらくの間、徳川氏に対する抗戦のため建昌城などの修築が行われている。義弘は桜島にて一時謹慎するが、隠居して再び帖佐に住んだ。1606年(慶長11年)、義弘は平松城(現在の重富小学校の位置)に館を移し、さらに1607年(慶長12年)、加治木城(現在の加治木高校の位置)に館を移した。
1615年(元和元年)、大坂の陣に敗れた長宗我部氏の家臣らが逃れてきて、木津志に住み着いた。1664年(寛文4年)、触田(ふれだ)に井堰が造られて、現在も使用されている用水路、中溝が建設されている。この当時の触田はまだ吉田郷であった。
1737年(元文2年)3月27日、島津忠紀が越前島津家を再興し、その領地とするために1739年(元文4年)帖佐郷より分割して重富郷が成立した。帖佐郷のうち平松村、脇元村、船津村、春花(はるげ)村、吉田郷東佐多浦村の一部(触田村)が重富郷となった。また帖佐郷を補うために山田郷から寺師村が編入され、これを補うために蒲生郷から木津志村が山田郷に編入されて、姶良町合併前の帖佐・重富・山田の町村の形がほぼ成立した。重富の名は、越前島津家初代の島津忠綱の領地であった越前国重留に由来し、後に重富に改めたとされるが、現在の福井県にはそのような地名はないとされる。
1752年(宝暦2年)、水口ゆきえが中津野用水路を完成させたが、その知恵を恐れて暗殺された。1810年(文化7年)と1812年(文化9年)の2回にわたり、伊能忠敬によりこの地域の測量が行われている。
江戸時代の薩摩藩では、外城制と呼ばれる領内支配体制が敷かれ、姶良町内では重富、帖佐、山田の外城(後に郷)が置かれた。それぞれに麓と呼ばれる支配階層の武士が住む集落が作られ、そこから領民の過酷な支配が行われた。
江戸末期の1863年(文久3年)、重富に学問所として振業館が設置され、重富小学校の基となった。また1869年(明治2年)、相次いで山田郷と帖佐郷に学問所が設置され、それぞれ山田小学校、帖佐小学校の前身となっている。
1871年(明治4年)、廃藩置県が行われ、帖佐、山田、重富の3郷は一旦鹿児島県に属したが、11月に都城県となった。1873年(明治6年)、都城県が廃止され鹿児島県に戻っている。なお、桑原郡の西部は中世始めに帖佐郡として独立したが、近世始め頃から始羅(しら)郡の呼称が使われるようになり、これが律令の昔に設置された姶羅(あいら)郡(現在の鹿屋市付近)と混同されてこの地域が姶良郡と称されるようになった。鹿屋市の合併前の町に吾平町(あいらちょう)という同じ読みの町があったのはこのためである。1871年11月4日の鹿児島県庁布告により正式に姶良郡となり、1896年(明治29年)に残りの桑原郡と西囎唹郡を合併して今の姶良郡が成立した。1889年4月1日には町村制度施行により、現在の町域にあたる姶良郡帖佐村・重富村・山田村が発足している。
学制公布により、1872年(明治5年)、米山小学(帖佐小学校)、平松小学、脇本小学、上水流(かみずる)小学、触田小学(以上が後の重富小学校)が設置された。1875年(明治8年)北山小学校創立、1876年(明治9年)山田小学、日枝小学、稲荷小学、鎮守小学、宮脇小学(後の山田小学校)が設立された。1878年(明治11年)木津志城野小学、船津小学、寺師小学、住吉小学、1884年(明治17年)菅原小学校、松原小学校、若宮小学校と続々と学校が設置されている。このうち寺師小学と住吉小学はすぐに合併して三叉小学校となった。菅原小学校と松原小学校は後に建昌小学校となっている(1910年)。
1874年(明治7年)、重富郵便局が設置された。1901年(明治34年)、鉄道が開通し、重富駅が設置されるが、帖佐駅設置は1926年まで待つことになる。1910年(明治43年)、帖佐に電灯がつき、1914年(大正3年)初めての自動車が帖佐を走った。1916年(大正5年)電話が開通した。この頃、帖佐町の松原海岸付近は松原塩田が開発され、帖佐町の財政を支えていた。また木炭やかます(わらを編んで作った袋)が生産されて鹿児島県において大きなシェアを占めていた。
1942年(昭和17年)4月1日帖佐村が町制を施行して帖佐町となった。1945年(昭和20年)7月27日山田橋付近、8月5日松原、8月6日脇元と相次いでアメリカ海軍艦載機に空襲を受けて多数の建物が焼失、死傷者が出た。
戦後は行政改革のための町村合併の動きが始まった。蒲生・加治木を含めた姶良郡西部市の構想があったが実現しなかった。まず1947年(昭和22年)、山田村の飛地であった辺川地区から、不便を解消するために加治木町へ編入して欲しいという要望が出され、両町村の協議を経て1952年(昭和27年)10月10日に実施された。また、山田村の一部であった柊野(くきの)地区は、歴史的に蒲生町とのつながりが深かったため蒲生町への編入希望が出され、1955年(昭和30年)1月1日の姶良町成立と同時に蒲生町に編入された。重富村は鹿児島市との合併を考えていたが、財政問題などを理由に鹿児島市に断られ、1955年1月1日に帖佐町・重富村・山田村の1町2村による対等合併をすることになった。新町名としては錦江町、若草町、姶良町、西姶良町、別府川町などが提案され、姶良町が選択されている。
合併後しばらくの間は財政が苦しく、議会定員を法定より減らし、町職員の退職不補充などにより財政再建に努めた。姶良町役場新庁舎を南部平野地帯に建設したが、新庁舎落成式典では参加していた海上自衛隊の航空機が墜落事故を起こしている。
従来の特産であった木炭、かますが、ガスの普及やビニール袋の登場などにより廃れてきたため、新しく産業を振興すべく1960年(昭和35年)から「20万羽集団養鶏運動」が開始され、鶏卵を出荷するようになった。一時期はかなり広く実施されたものの、零細農家は競争に負けて撤退し、現在は少数の大規模業者が集中して養鶏を行っている。また帖佐町の財政を支えていた帖佐松原塩田は、1951年(昭和26年)にルース台風の直撃を受けて破壊され、放棄された。
1967年(昭和42年)上水道が一部の地域で完成、電話のダイヤル自動化、1973年(昭和48年)12月13日九州自動車道が開通、昭和50年代になると姶良ニュータウンを始めとする大規模住宅地の開発が進行した。1984年(昭和59年)5月19日第35回全国植樹祭が開かれ昭和天皇を迎えてお手まき行事が行われ、その敷地は県民の森という公園施設になった。1988年(昭和63年)姶良駅が開業、大規模ショッピングセンターのサンシティリブレ(現在の姶良サティ)が開業するが、一方で北部では北山中学校が閉校となった。1993年(平成5年)には鹿児島県内全体が平成5年8月豪雨の被害を受け、姶良町内でも国道10号や九州自動車道がしばらく不通になるなどの大きな被害を受けた。
合併当初の人口は2万7000人ほどであったが、当初は人口流出が進み年々減少していた。昭和30年代後半頃から鹿児島市内の過密により姶良町に進出してくる工場が増え住宅地の開発が始まり、人口は増加に転じた。1978年(昭和53年)11月27日に3万人を、1993年(平成5年)10月21日に4万人を突破し、なお人口は増加を続けている。単独での市制施行を可能にするため高等学校の誘致が目指され、1988年(昭和63年)には東海大学が附属高校を町内に設置する意向を示したが、1991年(平成3年)、長期的な生徒減少の傾向を理由に県私学審議会に却下された。
平成の大合併に際しては、加治木町・蒲生町との3町合併が検討された。2003年4月に当初の合併協議会が設置されたが、住民投票の不成立などにより2005年に一旦合併協議会が解散された[1]。その後2007年になり再度合併協議が始まり、新市名を姶良市とすることや新庁舎を現行の姶良町役場に置くことなどでは合意が成立したが、市議会の定員の問題などで合意ができず、2008年10月に再度決裂[2]。その後も合併を目指す住民からの要望が継続され、2009年に加治木町・蒲生町と3度目となる協議でようやく合意に達し、2010年3月に3町で合併し新市名を姶良市とすることが内定した[3]。そして2010年3月23日付けで合併して姶良市となり、姶良町の歴史を閉じた。
合併前の帖佐町役場、重富村役場、山田村役場はそれぞれ姶良町役場の支所となり、姶良町役場は帖佐駅や国道10号に近い位置に新規に建設された。この姶良町役場は、新しい姶良市の本庁舎となっている。
過去の人口は以下の通り(出典は国勢調査)
年 | 人口 |
---|---|
1980年 | 32,085人 |
1985年 | 35,278人 |
1990年 | 37,154人 |
1995年 | 40,652人 |
2000年 | 42,969人 |
2005年 | 44,671人 |
1955年の合併元の各町村が設立した中学校が現在も引き継がれている。ただし、山田村立であった北山中学校は過疎による生徒数減少で1988年に山田中学校に統合されて閉校となった。合併前から重富村の一部が帖佐中学校に通い、また合併時に旧町村界を越えて校区の再編が行われており、現在の各学校校区は旧町村とは一致しない。山田中学校には辺川地区に鎮守分校があったが、飛地解消で辺川地区が加治木町に編入されたため、加治木中学校の分校となり、????年に??に統合され廃校になった。
町立
南部平野では人口増加が続いており、既存の学校の過密を緩和するために建昌小学校や重富小学校の校区を分割して姶良小学校や西姶良小学校が設置された。一方北部では人口が減少しているため学校の統廃合が進められており、三叉小学校と船津小学校が合併して三船小学校に、木津志小学校、堂山小学校、成美小学校が合併して北山小学校になっている。また山田小学校に飛野分校が、重富小学校に高牧分校が存在したが、いずれも閉鎖された。飛地だった辺川地区には鎮守小学校があったが、加治木町に編入され加治木町立となり、1971年に加治木町立永原小学校に統合され廃校になった[4]。
町立
加治木町にあった加治木警察署の管内で、姶良町内には姶良交番、重富交番、山田駐在所があった。加治木警察署は合併に合わせて名称を改正し、姶良警察署となった。
加治木町、姶良町、蒲生町、鹿児島市に合併した吉田町、霧島市に合併した溝辺町の5町で姶良郡西部消防組合を結成していたが、合併により吉田町と溝辺町が抜けて3町で構成されるようになった。姶良町内には分遣所があった。その後合併により姶良市消防本部となっている。姶良市消防本部ホームページ。
町南部平野地帯には町営の上水道があり、山田水源地、中津野水源地、船津浄水場の3箇所から水が供給されている。別府川からの取水も一時検討されたが、水利権の問題などから断念し、現在は全量を地下水によって給水している。白浜地区、成美地区には独立した簡易水道が存在する。
下水道は、加治木町と協力して建設する計画があったが、下水処理場の位置が決まらないなどの理由で実際に着工するには至っていない。汲み取り式便所がまだ多く見られるが、浄化槽の設置が進められている。
汲み取り作業、ごみの収集・処理、火葬場の運営などは、姶良郡西部衛生処理組合が行っている。加治木町、姶良町、蒲生町、溝辺町の4町で発足し、後に現在は鹿児島市の一部となっている吉田町が加入して運営されていた。その後平成の大合併の関係により、加治木町、姶良町、蒲生町の3町での組織となっていた。吉田町本城町で清掃工場を運営してきたが、老朽化により2007年4月に加治木町西別府に総工費25億5000万円で新施設の建設を開始し、2008年12月25日に火入れ式を行った。1日の処理能力37トンの焼却炉2基と処理能力8.5トンの灰溶融炉が設置されている。2009年4月から本運転となっている[5]。この他、加治木町にし尿処理施設とごみ最終処分場が、姶良町に火葬場が所在する。姶良市発足により、姶良市直轄に移行している。
伝統的な農林水産業は次第に衰退している。ベッドタウンであるため工業の進出はあまりないが、居住者向けの商業施設が南部平野を中心に存在する。
農業は水田稲作が中心であり、別府川中流域などに耕地整理された広大な水田が広がっている。古くから灌漑設備の整備が行われてきた。近年南部では開発が進行し水田が減少している。2005年統計では、農家の戸数は1,116戸、耕地面積51,862 アールであった[6]。
林業は北部山間地帯で針葉樹中心である。水産業は重富に漁港があり、沿岸漁業とブリの養殖などを行っている。畜産業として、鶏卵の出荷を目的に昭和30年代から20万羽を目標に集団で飼育の取り組みが行われたが、零細農家は既に撤退し、少数の大規模養鶏業者が「姶良鶏卵」の名で出荷を行っている。
かつては養蚕業も広く行われていたが現在はほとんど残っていない。また木炭とかますの生産は農家の大事な副業で、鹿児島県内で大きな地位を占めていたが、これも衰退した。
かつては重富や木津志などに金山があり、また鍋倉に幕末に製鉄所が造られて薩摩藩の武器製造などに用いられたが、現在は砕石以外の鉱業に類するものはない。
工業は白金酒造、イケダパン、加治木産業(京セラの下請け)、ランドワークス(販売部門はランドアート、元南日本度器、測量機器の修理や竹ものさし、カヌーの製造など )、熊野製缶鹿児島工場、アイラメカトロニクスなど、各種の工場が立地している。
かつて東亜工業所が戦時中に兵器の生産を行っていたが、その跡地は重富中学校となった。また、重富駅南側では岩崎産業の鉄道用枕木工場が存在した。
姶良町内で古くから商業が発展していたのは、山田支所付近、帖佐支所付近(元の帖佐町役場)、帖佐駅前、重富駅前であった。その当時は個人商店が存在する程度であった。現在は国道10号バイパス沿線を中心として郊外型の商業施設が多数立地している。最大のものは姶良サティで、路線バスの発着もある。
流通業としては、コープかごしま姶良商品センターが中津野に、ヤマト運輸の配送センターが姶良インターチェンジの近くにあり、特にヤマト運輸は合併前の九州ヤマト運輸の本社所在地であった。
最寄り空港は鹿児島空港。
姶良町が鹿児島市のベッドタウンとなっており、鹿児島市内の駐車場事情、鹿児島市までの道路事情などにより、通勤・通学に鉄道を利用する人は少なくない。合併により姶良町が成立するまでは、帖佐町に帖佐駅が、重富村に重富駅が所在しており、合併後に姶良町役場の新庁舎を帖佐駅の近くに建設したことから、帖佐駅が中心駅となっている。姶良駅は、姶良町の人口増加を受けてその間に新設された駅であり、町名を名乗っているが中心駅ではない。
かつては加治木駅 - 帖佐駅 - 蒲生町 - 入来駅を結ぶジェイアール九州バス加治木線が運行されていたが、1997年4月7日に全線廃止された。
鹿児島交通といわさきバスネットワーク、南国交通は国道10号を経由して鹿児島市や姶良郡東部方面とを結ぶ路線を運営している。この他に南国交通はJR九州バスの代替の蒲生町方面との路線や、町内の路線を運営している。町北部木津志地区とのバス路線も運営していたが廃止となったため、現在はコミュニティバスとなっている。
姶良町南部を東西に横断するように九州自動車道が走っているが、インターチェンジは西端の鹿児島市との境界付近にあり、東隣の加治木インターチェンジを利用した方が便利な場合も多々ある。帖佐バスストップは、姶良町役場の少し北側に所在する。
南部を横断して国道10号が走っている。長らく片側1車線であったが、姶良バイパスが開通して町内はほぼ片側2車線に改良された。しかし重富地区から鹿児島市との境界までは依然として片側1車線であり、崖下の狭い場所を通っていることもあり改良のめどは立っていない。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.