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俊藤 浩滋(しゅんどう こうじ、1916年11月27日 - 2001年10月12日)は、日本の映画・テレビドラマのプロデューサー。本名:俊藤 博(しゅんどう ひろし)。神戸市長田区出身。
夜間の神戸市立第二神港商業学校卒業。山口組最高幹部であった菅谷政雄とは同郷の幼馴染で、親友であった。太平洋戦争時には徴兵や軍需工場への動員で過ごすが、御影町の五島組(ごしまくみ)の賭場に通うなかで、大野福次郎(1900年 - 1953年)と出会った。大野は旧姓を五島といい大野家に養子となったが、兄弟は男だけの9人兄弟で長男の五島清吉を含め4人がヤクザとなった家系である。大野は、御影町の旧家の出身で全国の博徒や右翼と交際した旦那やくざの嘉納健治の子分となり、山形の下に「丁」のヤマチョウの代紋を継承した五島組を興し沿岸荷役のほとんどを独占した。戦時中は嘉納と親交のあった岩田愛之助の紹介で上海に進出した。戦後は山口組、本多会と並ぶ神戸の御三家としてあらゆる資金源を開拓した[1]。俊藤は五島組の興行を手伝っていたとされる[2]。このため東映内部においても「あのひとは玄人上がり」という声が残っている。
結婚していたが別居し、1948年、当時松竹の経営人の一人である白井信夫に身受けされていた上羽秀(後にバー「おそめ」のママとなり、小説・映画『夜の蝶』のモデル)と出会い、同居するようになった[3]。大佛次郎・川端康成・小津安二郎・白洲次郎・川口松太郎などが贔屓して集まる「おそめ」にも顔を出すことで、この夜の社会からマキノ雅弘の映画撮影の手伝いや、巨人監督を辞めた水原茂の東映フライヤーズ監督招聘などで、東映社長の大川博や岡田茂と縁を深めていった[4][5][6]。1960年には、京都の御池に320坪の「おそめ会館」を開業し、ダンスホールやナイトクラブを経営した[7]。
同年、実質東映のゼネラルマネージャー的立場にあった岡田茂に[8][9]「俺をプロデューサーにしてくれないか」と頼み[10][11][12]岡田からの依頼で鶴田浩二の東宝からの引き抜きに成功したことで[6][11][13]東映で鶴田のマネージャー兼プロデューサー見習いを始めることとなる[6]。1962年、まだ名前はクレジットされていないが、『アイ・ジョージ物語 太陽の子』を初プロデュース。1964年の『大笑い殿さま道中』より企画者の一人として名前が記されるようになった。同年、東映京都撮影所所長に復帰した岡田が任侠映画路線に本腰を入れるための先兵として本格的に任侠映画のプロデューサーとなる[5][14]。それまでプロデュースした映画で分かるように、俊藤には任侠映画という発想は全くなかった。岡田が時代劇から容易に転用できる任侠映画の制作を着想し、岡田「あんたの体験を写真にしてもらいたい」、俊藤「馬鹿言え。わしはヤクザやないで」、岡田「不良性感度の強いもの、濃いいもんを作って欲しいんや。テレビの中に絶対出てこんもんや。博打場、鉄火場、いつもドスを懐に忍ばせているような世界や」、俊藤「やれいうんなら、ほんなもんすぐでけるで。責任は取らへんど」、岡田「責任はわしが取る。あんた作るだけや」というようなやりとりがなされた[15]。東映任侠映画路線の生みの親は岡田であり俊藤ではない[16]。映画のことをろくに知らない俊藤に岡田が腹心の吉田達プロデューサーに「俊藤が映画をやりてえっていうから、教えてやれ」と命令し、俊藤は東映で仕事を始めた[17]。俊藤も岡田にプロデューサーとしての才能を見出された人物である[17]。鶴田浩二主演の『博徒』や高倉健主演『日本侠客伝』が大ヒットしたことで頭角を現す[18]。1965年以降も『昭和残侠伝シリーズ』、『極道シリーズ』、『緋牡丹博徒シリーズ』などを次々ヒットさせ、岡田と俊藤は天下無敵のコンビ(俊藤曰く)を組み、任侠映画で一時代を築いた[19][20][21]。任侠映画は「実録映画」が登場するまで約10年隆盛を迎える[9][14][22]。俊藤は「仁侠映画が隆盛のころ、岡田所長と新しい企画を相談するときは、いつも15分から20分ほどで決まった。二人で話すうち、『こんなのはどうや』『おもろいな。それいこうか』といった調子で、会議といえるほどのものではなく、彼は私を信頼してくれた。企画を東京本社での会議に出すのは岡田所長の役割で、今度はこんなシャシンを撮る、そのつぎはこれ、と、スケジュールを立てていく。反対する者なんかいない。そうやってつくる映画がどんどん当たった。岡田所長はワンマンな私を随分バックアップしてくれた。その意味で、岡田茂と私は持ちつ持たれつな仲でやってきた。二人が組まなかったら、あれだけの任侠映画の一時代は生み出せなかったと思う」などと述べている[19]。
俊藤がプロデュースしたヤクザ映画は、義理・人情・男の怒りといった主題が主体であり、脚本家たちも俊藤の意向に沿って執筆してきたものの、笠原和夫・高田宏治らは人間の持つ弱さ・卑怯さといったドラマツルギーを無視し、ヤクザを美化しすぎた俊藤スタイルに不満を募らせていた[23]。しかし興行として成功していたため、東映はこのようなヤクザ映画を中心に1972年まで量産し続けた。岡田は東映のゼネラルマネージャー的立場にあって全体を統括しなければならず[9][14][24]、この頃、映画製作よりも困難を極めた京撮のリストラという大きなミッションがあった[9][25][26][27][28]。このため俳優にしっかり付くことはできなくなり、俳優の売り出しに実績を挙げ始めた俊藤が俳優を抱えだした[29]。勿論、面倒見がよかったということもあるが、裏社会に顔の利く俊藤は、スターたちがトラブルに巻き込まれた時に恩を売る、あるいはギャラ交渉や配役の変更などスターに代わって会社と交渉してやることで恩義を売り彼らを傘下に置いた[23]。岡田が任侠路線と平行して、エログロ映画や喜劇などにも路線を拡げ、特に1967年の『大奥(秘)物語』あたりから、東映ポルノが本格化し、これらを俊藤の手掛ける任侠映画と二本立てで組合せることで両方が際立つ効果をもたらし、高い興行成績を挙げた[30]。岡田がプロデュースした1968年の『徳川女系図』ではピンク映画の女優が全裸で東映京都撮影所を走り回って恐慌をきたし、若山富三郎や鶴田浩二らが強く反撥した[31]。しかし『徳川女系図』は菅原文太主演の『網走番外地 吹雪の斗争』を上回る大ヒットとなった[31]。1972年の藤純子(富司純子)引退を境に、任侠映画は成績に翳りが見えて1973年『仁義なき戦い』が大ヒットすると岡田は「任侠路線」から「実録路線」に転換しようとした[30]。このため任侠映画のスターを抱えていた俊藤と後に確執が生まれた[32][33]。有名な「鶴田浩二も高倉健もしばらく止めや」は、岡田が直接俊藤に言い放ったセリフであった、と俊藤は語っている[34]。ただ高倉は任侠映画に飽きていたといわれる[23]。俊藤は東映に居場所を失いつつあった[35]。俊藤は東映と縁を切り、抱えていたスターと会社に不満を持つスタッフを引き連れて「オスカープロダクション」を作ったが[注 1]その情報をつかんだ岡田は高岩淡と翁長孝雄に命じてこの阻止にかかり、スター一人一人を説得してまわり、結果、俊藤の下には誰も集まらなかった[35]。またスポーツニッポンに岡田との確執の記事がデカデカと載った[30]。岡田と俊藤の仲違いを憂いた高岩が岡田を説得し[35]結局、五島昇を仲介に立て和解をし、俊藤は参与のゼネラルマネージャーに就任した[30][35]。岡田と俊藤の手打ち作品として企画されたのが『山口組三代目』となる[30][35]。しかし、1974年12月、前売券不正事件で参与の肩書を外され、東映本社から京都撮影所に戻る[37]。
これ以降、俊藤はアメリカ映画の『ザ・ヤクザ』(1974年、Warner Bros.)、香港との合作作品である『ゴルゴ13 九竜の首』(1977年、東映/嘉倫電影)、『ダイナマイトどんどん』(1978年、大映)など、東映以外の作品も手掛ける転機にもなった。1980年代に入ると個人事務所・藤映像コーポレーション名義で、時代劇『悪党狩り』(1980年 - 1981年、東京12チャンネル/松竹)と刑事ドラマ『警視庁殺人課』(1981年、テレビ朝日/東映)の製作にも携わるなどテレビドラマへの進出を図り、以降はかつてほどの本数ではないが、再びヤクザ映画を中心に制作した。
2001年10月12日午前0時25分、肝不全のため死去[38]。84歳没。『修羅の群れ』(2002年)が遺作となったが、最後までヤクザ映画の製作に意欲を燃やしていた。マキノ雅弘は「俊藤の牛耳り方があまり感心できなかった。プロデューサーの範囲を越えて、企業家みたいな気になっちゃったんだな。金を出すのは会社なのに、人のフンドシで小遣いやって『兄弟の盃しよう』とか『お前、俺の若い者になれ』というやり方だからね。俊藤より前にいた奴がみんな子分みたいになっちゃって、他のプロデューサーもみんなあいつに頭が上がらなくなったんだ。しまいには『今度はマキノを使おうか』てなもんでしたな。プロデューサーが監督より偉いなんてことないのに、あいつはそう思い込んじゃった。やくざ映画ブームをつくったといっても、殺されたら仇討ちに行くという同じパターンのものばかりだ。『忠臣蔵』の小物みたいなものしか作ってなくて、題名が違っていただけだから。やくざの世界を勧善懲悪に置き換えたという点が新しかっただけでしょ。ワシらでさえ撮って行き詰ったんだから。マンネリになったらおしまいだということを知らなかったんじゃないかな。同じ方向を向いてた岡田茂とも、やくざ映画が下火のころには意見が合わなくなって、岡田が社長になるとき俊藤は対立する立場だった。岡田にしても東映でポルノを始めた元祖だからね。ハッキリいえば二人とも、映画人としてはゲテモノなんです」と述べている[39]。
俊藤の葬儀には葬儀委員長を務めた岡田茂東映会長(当時)[20]以外の東映の関係者はほとんど参列せず[40]。富司ら親族以外の俳優では、弔辞を読んだ菅原文太と長門裕之、里見浩太朗、品川隆二の4人だけだったという[40]。
若いころに賭場に出入りしたことで、多くのヤクザとの知己を生かし本物の所作を取り入れることができ、他社のヤクザ映画とは一線を画す作品を送り出した。体に文身を入れているとも噂が立ったが、本人は尋ねた人に「見てみますか?」と笑って流した[41]。
※括弧内は日本国内での封切日と制作会社。京都は東映京都撮影所、東京は東映東京撮影所。但し書きが無い項目は企画した作品。
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