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岩田 愛之助(いわた あいのすけ、1890年1月3日 - 1950年3月15日)は、日本の右翼活動家。兵庫県姫路市出身。
陸軍幼年学校を中退後、神戸の乾行義塾で中国語を学ぶ。1910年中国に渡り、大陸浪人として武漢革命に参加するが、後に川島浪速・佐々木安五郎と知り合い、清朝復辟運動に転じた。1913年に帰国し、頭山満・内田良平・田中弘之(舎身)らに接近し、対支外交問題を論じる。同年9月に起こった外務省政務局長・阿部守太郎暗殺事件で殺人教唆の罪に問われ、無期懲役の判決を受ける。1925年恩赦を受け釈放、再び中国に渡り1927年に帰国した。
1928年松木良勝らとともに、反共・積極的大陸政策を唱えた右翼団体・愛国社を結成する。愛国社には、のち後楽園球場(1936年設立)の社長となる田邊宗英も加わっていた[1]。
1930年11月に団員の佐郷屋留雄による濱口首相襲撃事件が起こるが、佐郷屋は愛国社の関与を否定した。後に佐郷屋は岩田の娘婿となる。その後1931年に神奈川県に愛国社生田村塾を開いて子弟の教育に当たった他、愛国学生連盟・愛国青年連盟・愛国法曹連盟・愛国労働連盟などを結成し、満洲事変を支持した[注釈 1][5]。1937年には井田磐楠・入江種矩らと国際反共連盟、葛生能久らと対支同志会を結成して暴支膺懲を叫び、さらに上海に「岩田公館」を設けて対支工作に当たった。
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