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中国の唐-宋時代に書かれた短編小説 ウィキペディアから
伝奇小説(でんきしょうせつ)は、六朝時代の志怪小説が発展し、主に中世中国の唐-宋時代に成立した古典中国文学の短編小説で[1]、唐代伝奇、唐宋伝奇とも呼ぶ。晩唐の作品集である裴鉶 『伝奇』三巻の題名が一般化して、唐の小説を伝奇と総称するようになったといわれる[2]。また、これらを元にした後代の作品を呼ぶこともある(芥川龍之介「杜子春」など)。また中国の古典的な歌舞演劇である戯曲の形式の1つを伝奇と呼び、明・清時代に隆盛した。
六朝時代(222-589年)の志怪小説では超自然的な怪異譚や逸話を記録として梗概程度に記していた。もともと「小説(とるにたらないものがたり)」的なものだったものが、唐代(618-907年)になると作者の創作した複雑な物語となり、文章も修辞に凝ったものになった。その過程で、志怪小説のころの「怪」を描くことが必ずしも必須の条件ではなく、現実に根ざした、「怪」の登場しない作品群(山中遊郭で妓女と誼を通じるなどの「才子佳人小説」という範疇)もあらわれるようになった。その点で、唐のこれらの伝奇小説は、その後の中国文学における白話小説等のさきがけになった。
古来、論語に「子不語怪力乱神」と述べられた影響が長く残っていたが、唐代にはこの教説への拘泥は薄くなり、詩人の顧況は「不」字を「示」字の見誤りだと主張して「孔子の意は(子不語ではなく)子示語である」と述べ[3]、怪異譚の創作に共感を示した。
安史の乱以後の中唐期(766-835年)の頃には、陳玄祐[7]、沈既済、蒋防(中国語版)[8]、李公佐、陳鴻[9]、白行簡 、元稹などによって多くの伝奇小説が書かれた。
また、この時代には志怪小説の流れから脱却した作品が書かれるようになった。
これらの作品[19] は、明末清初の才子佳人小説や戯曲に広く影響を及ぼした。
晩唐期(836-907年)には 牛僧孺 編の『玄怪録』、李復言 『続玄怪録』、裴鉶 『伝奇[20]』、 薛漁思 『河東記』、皇甫枚[21]『三水小牘』などの作品集が編まれるようになった。
次の裴鉶の『伝奇』に収録された2編は現在も人気のある作品で、一説に武侠小説の原型とも言われる作品である。
宋代には口承文芸に近い口語文章語で書かれた説話や白話小説が出現し伝奇小説は衰微し始める。また商業の発展にともなって商人の生活も多く描かれるようになった。
明代には唐代に倣った文言短篇小説集『剪燈新話』が現れて、その模倣も続出し、さらに『太平広記』がしばしば流用されるなど、伝奇的な嗜好が再流行し、清代には『聊斎志異』が書かれた。
日本や新羅から唐への使節は、伝奇小説を好んで買い込んだという[39]。『遊仙窟』『長恨歌伝』は日本にも大きな影響を与え、特に『遊仙窟』は中国では逸失してしまったにもかかわらず日本に伝えられ続け、その文章の華麗さから『和名類聚抄』『万葉集』や『佳人之奇遇』にまで影響が残されている[40][41]。
中国では近代になって様々な研究が行われたが、成果として、1927年(民国16年)の魯迅『唐宋伝奇集[42]』、1929年(民国18年)の汪辟疆(中国語版)『唐人小説』などが知られている。
中国や日本などの古典的な伝承や説話等にある怪奇な事件や作者独自の想像による、史実とは異なる事柄を題材にした小説。「封印されていた古文書」「呪われた旧家の血筋」「某地方に伝わる風習」「歴史の裏舞台で暗躍した秘密組織」などに、時には超常現象や超能力なども加味されて物語が展開する。
大正時代に芥川龍之介は『今昔物語』などに題材を取った王朝物や、中国の説話を元にした『酒虫』(1916年)や『杜子春』(1920年)などを書き、谷崎潤一郎も中国を舞台にした『人魚の嘆き』(1917年)や、後に伝奇時代小説『武州公秘話』(1931-32年)などを書いていた。明治時代から冒険小説などで活躍した江見水蔭も伝奇の時代小説を執筆した。
『講談雑誌』編集長の生田調介に見いだされて、白井喬二が1920年から『忍術己来也』、1922年に『神変呉越草紙』を連載すると、芥川龍之介は「あれだけのものを空想で書いたとしたら、たいしたもの」と評し、1922年にはやはり生田に誘われた国枝史郎が『蔦葛木曽桟』を連載する。これらは荒唐無稽とも言える空想力による作品ながら、それまでの立川文庫のような作品に比べれば大人の読物として成り立っていた。1924年には吉川英治が、新雑誌『キング』で『剣難女難』、1926年には『鳴門秘帖』と絢爛たる作品で人気を得た。野村胡堂は捕物帖の他に『美男狩り』(1929年)、『隠密縁起』(1941年)といった伝奇作品を残している。
三上於菟吉は謎とサスペンスを凝らした作風で、『雪之丞変化』などの時代小説も残した。三上が高く評価した角田喜久雄は、探偵小説的手法を駆使した作品、1935年に『妖棋伝』で伝奇小説作家として認められ、次いで『風雲将棋谷』『髑髏銭』『鍔鳴浪人』などを立て続けに発表して、人気作家となった。
戦後になって山田風太郎が数々の忍者小説に加えて、『妖異金瓶梅』(1954年)など奇抜な伝奇小説を書いた。また歴史作家の早乙女貢も『死神は黒衣をまとう』(1971年)、『猫魔岳伝奇』(1974年)など多くの伝奇小説がある。晩年の石川淳は、『至福千年』(1967年)、『狂風記』(1980年)など奔放な伝奇小説を世に問い支持を集めた。
1968年に国枝史郎『神州纐纈城』(1925年 - 1926年)が復刊されると、これを三島由紀夫が高く評価し、この分野の作品の再評価の機運が高まった。その中で半村良が『石の血脈』(1971年)、『産霊山秘録』(1973年)などの伝奇ロマン[43](または伝奇SF、SF伝奇ロマン)と呼ばれるスケールの大きな作品を生み出す。次いで谷恒生『魍魎伝説』(1982-88年)、荒俣宏『帝都物語』(1985-87年)、高橋克彦『総門谷』(1985年)、夢枕獏『陰陽師』(1988年)といった伝奇ロマン・伝奇バイオレンスの作品群が人気を博し、以後同種の作品のブームとなった。
東雅夫は日本の伝奇小説を以下の3つのタイプに分類し、またそれぞれの代表作を挙げている[44]。
また個々の作品が特に強く持つ特徴により、「伝奇SF」(または「SF伝奇ロマン」)、「伝奇ホラー」、「伝奇ファンタジー」、「伝奇ミステリー」、「伝奇サスペンス」、「伝奇アクション」などさまざまな呼称が使われる。
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