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三上 於菟吉(みかみ おときち、1891年2月4日 - 1944年2月7日)は、大正・昭和時代の小説家。大衆文学の流行作家となり、文壇の寵児と呼ばれた。代表作に『雪之丞変化』など。活躍期にはその作風から「日本のバルザック」とも呼ばれた。内縁の妻は作家の長谷川時雨。
埼玉県中葛飾郡[1]桜井村生まれ(現在の春日部市木崎[2])。代々儒医(漢方医)家業で、祖父はまた漢詩人大沼枕山門下の詩人でもあった。旧制粕壁中学校(現在の埼玉県立春日部高等学校)を経て田山花袋に私淑。父純太郎も於菟吉を医師に進ませようとしたが、中学校時代から文学少年となり白夜のペンネームで『文章世界』『中学世界』などに投稿していた。
1911年早稲田大学文学部英文科予科に入学し、広津和郎や谷崎精二らと交友を持ち、ロシア文学で片上伸に認められて「片門十哲」の一人とも言われた。1912年同級の宇野浩二らと同人誌『しれねえ』を創刊するが、三上の「薤露歌」が風俗壊乱として発禁になり、1号で終刊する。また神楽坂の馴染んだ芸者を連れ出したことで脅される騒ぎとなり、父により退学させられて帰郷、実家で謹慎生活を強いられる。この間、ダヌンチオやスタンダールの詩の翻訳や、短篇小説を『早稲田文学』に発表した。
1914年の夏、父が死去して家業を継いだが、これを整理して1914年に上京し、翌1915年に長篇小説『春光の下に - 又はゼ・ボヘミアン・ハウスの人々』を自費出版した。この作品は朝鮮独立運動に触れたところがあったために発禁処分となったが、この出版を機に『講談雑誌』編集長だった生田蝶介に目をつけられ、水上藻花などのペンネームで外国小説の翻案を博文館や講談社で発表するようになり、谷崎精二と『モンテ・クリスト伯』を共訳する。
1916年には『講談雑誌』に本名三上於菟吉で「悪魔の恋」を連載し、薄幸の女性を描く通俗小説の筋に西洋小説的な心理描写を織り交ぜて好評となった。また『春光の下に』を献呈された12歳年長で女流劇作家として著名であった長谷川時雨が三上に手紙を書いて知り合い、三上の熱烈な求愛により1919年に世帯を持った。
1921年に『時事新報』に虚無的な青年の遍歴を描いた「白鬼」を連載し、新進作家として注目を浴びる。1925年には『週刊朝日』で、ジョンストン・マッカレー『双生児の復讐』のプロットを下敷きにした復讐もので初の時代小説「敵討日月双紙」を連載、時代小説作家としても名を上げ、続いて『鴛鴦呪文』『妖日山海伝』『神文美少年録』『淀君』『清河八郎』などを発表、斬新な筋立てと絢爛たる文体で一躍文壇の寵児となる。1934年から東京朝日新聞に連載した『雪之丞変化』は三上の代表作となった。連載中から衣笠貞之助監督、伊藤大輔脚本によって映画化され、林長二郎(のちの長谷川一夫)が3役で主演し、「流す涙がお芝居ならば」で始まる佐藤惣之助作詞、阿部武雄作曲の切々たる主題歌「むらさき小唄」がヒット[3]、のちのちまで大衆演劇のレパートリーとなった。加藤武雄、中村武羅夫と並んで「多産流行作家の三羽烏」とも言われ、1935年には『長編三人全集』が刊行された。また同年の第1回直木三十五賞制定では選考委員となる。この年は作家の所得税額で菊池寛に次ぐ2位だった(三宅正太郎『作家の裏窓』)。赤坂檜町に自宅があったが、原稿の執筆は新潮社に近い牛込袋町の妾宅、それから待合へ移り芸者をはべらせながら、そして執筆後に本宅に帰るという生活だったと言われる[4]。
満州事変勃発直後の1931年10月に東京日日新聞に詩「日本人の歌」を発表し、文学ファッショのはしりと呼ばれ論議を巻き起こした[5]。1932年には直木三十五が「文芸院」を創設するのに参加する[6]。1935年の直木賞制定時には選考委員を務めた。
長谷川時雨は、当初は三上を世に出そうとして様々に骨折りしたが、1928年に『女人藝術』を創刊した際には三上の原稿料によって出資するなど、廃刊までの4年間の支援をした。またこれに連載した林芙美子の原稿の原題『歌日記』を『放浪記』に改題したのも三上だった。流行作家時代の三上は放蕩、浪費し、作品のほとんどを待合で書いたとも言われるが、時雨は「三上さんは、あのやり方でなくっては書けないのです」と言って認めた。また時雨は「三上さんはえらい。凄い」とも言い続け、三上の時代小説の考証でも時雨は貴重な協力者となった。
1935年にはサイレン社を興し、時雨の『近代美人伝』を刊行、また出版には原稿取りに訪れる編集者たちの意見も参考にしていた。 なお、この年は新たに創設された芥川賞、直木賞の選考委員を務めている[7]。
1936年に三上は愛人宅で倒れ、右半身麻痺となる。時雨は自宅近くに家を借りて愛人を看病に付き添わせたが、愛人は4ヶ月で郷里に帰す。当時三上が読売新聞に連載中だった「日蓮」は時雨が書き継いだが、それまでも三上が連載に穴をあけそうになると時雨が代筆していたという。
1940年には『三上於菟吉全集』全12巻が刊行。時雨は1941年に過労で倒れて急逝。戸籍上は最後まで内縁関係のままだった。三上は1943年に空襲激化のために療養を兼ねて郷里春日部に疎開し、1944年に血栓症の悪化で死去。埼玉県杉戸町大字木野川の共同墓地に葬られている。また冨士霊園「文学者の墓」には<三上於菟吉 雪之丞変化>と<長谷川時雨 さくら吹雪>の碑銘が隣り合って建てられている。
現代を舞台にした『白鬼』では、ストライキ騒動の最中にある雑誌出版社で、社長秘書に抜擢された青年が様々な女性と関係するが、最後には上海に向けて旅立つというストーリーで、ツルゲーネフの小説に登場する「性格破産者」のような、大正期独特のニヒリズムが窺われる。1926年に毎日新聞に連載した『日輪』は、貴族社会に入るために父親によって政略結婚させられそうになる女性と、真面目な書生青年との恋愛をめぐる騒動が、これも当時のニヒリズムを基調に語られる。これらの作品の本格的な心理描写に、当時エミール・ゾラの影響を受けていた写実主義の一派ゾライズムの影響があるとも言われ、また社会の各層の客観的な描写により「日本のバルザック」とも呼ばれた[8]。
原作を換骨奪胎したものとしては『敵討日月双紙』の他に、オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』を「元禄若衆」、ユゴー『エルナニ』を「戦国英雄」などがある[9]。直木三十五の死去時に『読売新聞』連載中だった『相馬大作』を引き継いで完結させている。
『雪之丞変化』は、1935年に映画化された後も、1963年に長谷川一夫300本記念として再映画化された他、1953年に東千代之介、1957年に美空ひばり、1959年に大川橋蔵の主演で映画化され、また舞台でも初代、二代目大江美智子の早変わりの得意芸にするなど、いずれも二役で演じられて、長く人気を集めた。1939年には雪之丞のその後を描く『雪之丞後日』(『オール讀物』)も書かれている。
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