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日本の小説家 ウィキペディアから
白井 喬二(しらい きょうじ、1889年〈明治22年〉9月1日 - 1980年〈昭和55年〉11月9日)は、日本の時代小説作家。本名:井上 義道[1][2]。大衆文学の巨峰[3]。
横浜市に生まれる[1][5]。鳥取県士族[1]である父井上孝道(鳥取池田藩士出身[6])、同じく鳥取県士族の母タミの長男[1]。当時父は警察官として横浜市に奉職中であった[7]。
父の勤務のため青梅、甲府、浦和、弘前と小学校を転々とし、1902年(明治35年)、鳥取県米子市の角盤高等小学校に転入した[8]。その後、米子中学校へ進み、最初はボート部に所属し、後に剣道部に移った。当時中学生としては珍しかった剣道二段の段位を取っている[9]。米子中学時代から既に角磐日報という地方新聞に寄稿して連載小説まで書き、さらに鳥取新報にも連載小説を書くなど、文筆に関し非常に早熟な才能を発揮した[10]。
早稲田大学文科に一時在籍、その後父親の司法官になって欲しいという希望により日本大学政経科に転学した。日大時代に、博文館の依頼で、井原西鶴と近松門左衛門の現代語訳を多数こなした。[11]また、夏休み中に『山陰日日新聞』の臨時社員として勤務したり、面影村立面影尋常小学校(現在の鳥取市立面影小学校)の代用教員を三ヶ月務めたりした[12][13]。1913年(大正2年)に日大を卒業した後は、『家庭之友』という婦人雑誌の編集に携わった[14]。その後、『橋浦出版社』に移りそこで原稿を書くようになった。1916年(大正5年)1月に、男爵中島錫胤の嫡孫鶴子と結婚。同年4月に化粧品本舗堀越嘉太郎商店に入社し、文書課に勤め広告などを作成し二年半勤務した[15]。
堀越嘉太郎商店を退社後、『怪建築十二段返し』という百三十枚の原稿を書き上げ、友人の武田比佐がその原稿を博文館に持ち込んだ。それが白井喬二名義では初めて、『講談雑誌』の1920年(大正9年)新年特別号の新春附録として掲載され、文壇デビューを果たした。[16]このデビュー作は好評で原稿の依頼が続けて舞い込んだ。文教社の『人情倶楽部』で連載となった『忍術己来也(にんじゅつこらいや)』(1922)は芥川龍之介に激賞され[17]、再び『講談雑誌』で連載された『神変呉越草紙』(1922-23)も好評を得た。その後文芸雑誌『新小説』にいくつかの作品を発表して、新進作家としての地位を確立した。また『新撰組』(1924-25)を『サンデー毎日』の冒頭掲載という形で連載し、同誌の部数を伸ばす一方で、大衆文学(歴史・時代小説)の草分け的存在となった。さらに報知新聞に足かけ4年間合計1000回以上連載された超大作『富士に立つ影』(1924-27)は、明朗快活な主人公熊木公太郎の魅力もあって、単行本で300万部を超える大ベストセラーとなり、中里介山の『大菩薩峠』と並ぶ大衆文学の代表作となった[18]。
1925年(大正14年)、大衆作家の親睦機関として本山荻舟、長谷川伸、国枝史郎、平山蘆江、江戸川乱歩、小酒井不木、直木三十三(後の直木三十五)等を集めて二十一日会を結成、1926年(大正15年)、機関誌として『大衆文藝』を創刊した。それまで「ダイス」「ダイジュウ」と読まれていた「大衆」に「タイシュウ」という読みを付与し、今日の一般大衆の意味で初めて使ったのは白井喬二で[19]、「大衆文学」という言葉が出版社で作り出されるきっかけを作った。また、平凡社の『現代大衆文学全集』(1927)の企画に積極的に関わり、その第1回配本は『新撰組』で33万部を売上げ、この全集の成功に大きく寄与した[20]。
1935年(昭和10年)に直木賞、芥川賞が創設されると選考委員の一人となったが、同年8月の第一回選考会には欠席している[21]。 その後、第15回まで務めた[注 1]。また1938年(昭和13年)には陸海軍と内閣情報局の要請で、中国の南部戦線への戦場視察に参加した。[23]1942年(昭和17年)に日本文学報国会が発足すると、小説部会の幹事長、後に常任理事に就任した。[24]戦前の他の代表的作品としては、長編の『祖国は何処へ』(1929-1932)、戦前・戦後で合計三度映画化された人気作品で阿地川盤嶽を主人公とする短編を集めた『盤嶽の一生』(1932-1936)などがある。また1925年に『婦人公論』に連載された小説『金襴戦』は、後に太平洋戦争の半ば頃、陸軍恤兵部から前線の兵士へ送る本として、七、八回も選ばれた[25]。
戦後の作品としては、昭和20年から26年頃にかけては自ら長篇の執筆を封じ、もっぱら短篇・中篇を書いており、河出書房の『白井喬二 戦後作品集』(天の巻・地の巻・人の巻)にまとめられている。その後再び長篇も手がけるようになり、『霧隠繪巻』(発表時は『真説霧隠才蔵』)(1951-1952)、『雪麿一本刀』(1956-1957)、『国を愛すされど女も』(1958-1959)、『黒衣宰相 天海僧正』(1965-1972)などの作品がある。1961年(昭和36年)に、東京作家クラブの会長に就任した。会長として1962年(昭和37年)にかくれた芸術界文化面の人材を探し出すのが目的で、「文化人間賞」を制定した[26]。作家として活動する以外に、評論家としても積極的に活動し、代表的な評論は『大衆文学の論業・此峰録』(1967)にまとめられている。1965年(昭和40年)に紫綬褒章を、1968年(昭和43年)に勲四等旭日小綬章をそれぞれ受賞した。また、1969年(昭和44年)には、第4回長谷川伸賞を受賞した。『富士に立つ影』、『祖国は何処へ』に続けて、『世界古事記』(仮名)という作品を書く構想があり、全部で長編三部作となる筈であったが、戦争中の空襲で集めた資料が焼失したこともあり、ついに書かれないままで終わった[27]。
以下は単行本として、または全集ないし全集の一部として出版されたもの。
以下は『さらば富士に立つ影』の巻末の年表と『大衆文学の論業 此峰録』の巻末の年表他による、上記以外の雑誌掲載作品。随筆・評論は除く。
宗教は浄土宗[2]。戦前の中野朝日ヶ丘の自宅にはテニスコートがあって当初は近所の人達が自由に使えるように開放していた[31]。また、小学生の頃から野球に親しみ、白井の元に集まってくる大学生を中心に、戦前「朝日ヶ丘クラブ」という軟式野球のチームを作っていた[32][注 8]。また、子供たちには優しい父親で子供に対して手を上げたことは一度もなかった[34]。好んで書いた言葉は、「桃栗三年、文学一生」[35]。
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