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日本の元ボートレーサー ウィキペディアから
今村 豊(いまむら ゆたか、1961年6月22日[1][2] - )は、山口県小野田市(現:山陽小野田市)出身[2]の、元競艇選手。登録番号2992、48期。山口支部所属。身長162cm。体重50kg。血液型はA。愛称は「今やん」。艇界のプリンス[3]、ミスター競艇の異名を持つ。妻は元競艇選手の庄島真知子(登録番号2996)。
今村豊 | |
---|---|
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 |
山口県小野田市 (現:山陽小野田市) |
生年月日 | 1961年6月22日(63歳) |
身長 | 162cm |
体重 | 50kg |
血液型 | A型 |
選手情報 | |
所属 | 山口支部 |
登録番号 | 2992 |
登録期 | 48期 |
級別 | A1級 |
弟子 |
柳瀬興志(3661) 白井英治(3897) |
特徴 | 自在 |
選手実績 | |
デビュー日 | 1981年5月7日 |
選手引退日 | 2020年10月8日 |
SG優勝 | 7 |
GI/PGI優勝 | 48 |
GII優勝 | 2 |
GIII優勝 | 5 |
一般戦優勝 | 80 |
通算優勝 | 142 |
通算勝率 | 7.76 |
通算勝利 | 2880 |
主要獲得タイトル | |
|
1961年6月22日、山口県小野田市(現在の山陽小野田市)に生まれる[2]。
山口県立小野田工業高等学校卒業。父親自身も競艇選手への憧れを抱いていたが、下関競艇場の守衛に諭されて受験をすることすら叶わなかったため「息子を競艇選手にしたい」という願望があった[4]。今村自身は高校卒業の際、当初一般企業への就職を考えていたが、求人票に掲載されている会社員の初任給に疑問を感じ、競艇選手のパンフレットを取り寄せる。当時の選手の平均年収が決定打となり、父親も納得する形で共に競艇選手を目指した。
第48期選手養成員として、本栖研修所に入所。在所中のレース勝率は入所生の中で第2位だった。
デビュー戦で初勝利をあげると、そのまま優出まで駒を進める。(3着)デビュー期に6.20の勝率を残し、半年でC級からA級へ特進を果たす[5]。
その後も"280日"でG1初出場、"360日"でSG初出場、"1年2か月"でG1初優出・初優勝、"1年5カ月"でSG初優出、"2年11カ月"でSG初優勝というスピード出世を果たす。当時4つあったSGレースすべてにデビュー"1年半"のうちに出場し[5]、1982年最優秀新人賞を受賞。(賞金ランキングは7位)
特にSG初優勝となった笹川賞は、最短の2年11カ月・史上最年少22歳(当時)記録で優勝[注 1]。
1986年に創設された、賞金王決定戦にも最年少ながら参戦。翌1987年、「最高峰のレース」と目標にしていた全日本選手権を制覇した。1987年、1988年、1990年と全日本選手権を連覇を含めV3とするだけではなく、1986年、1990年~1993年と最高勝率選手として表彰、1992年はモーターボート記念で、5回目のSG優勝を果たした上で年間最多優勝回数を記録した。1987年の全日本選手権の優勝者表彰では、橋本龍太郎運輸大臣(当時)と一般財団法人日本船舶振興会会長の笹川良一に直接表彰された。
1990年・1992年と最優秀選手としても表彰されており、安定感のある強さからファンに支持され、バブル景気真っ只中の競艇業界の売上をけん引し、20代後半から30歳代前半にかけてはまさに全盛期であった。しかし1993年頃から特定疾患の一種であるメニエール病を患い、めまいや耳鳴りなどに悩まされることが多くなり、レースをやむを得ず欠場することも増えていった。最低体重制度の導入によってアドバンテージも少なくなってきた中、持病も相まって30歳代後半は苦しい時代が続いた。1997年・1998年と2年連続で通算5・6回目となる最高勝率選手として活躍するも、しばらくの間G1では優勝できるものの、SG優勝からは遠ざかっていた。
2004年の総理大臣杯では、恵まれた点が多かったものの11年7カ月ぶり6回目となるSG制覇を果たし、会見では涙をぬぐった。この勝利により公営競技選手として初の生涯獲得賞金20億円を突破。また、同年5月18日には史上最速で年間獲得賞金1億円を突破する。年末の賞金王決定戦で優勝することはできなかったが、年間獲得賞金は堂々の第1位となり、8回目の最高勝率選手と3回目の最優秀選手として表彰され、復活を象徴する1年となった[6]。
2007年には、通算2000勝を達成。
2010年からは名人戦の出場権を獲得しベテランの域になるが、同年8月、蒲郡競艇場で行われたモーターボート記念ではナイター開催SGでの最年長優勝記録となる49歳2か月でのSG優勝を果たした。
2011年、名人戦出場資格獲得2年目にして優勝。
2014年、52歳で出場した2014年のボートレースオールスターと53歳で出場したグランドチャンピオン決定戦では連続優出を果たし、安岐真人が持つSG最年長優勝記録にあと一歩まで迫った。なお、結果はそれぞれ2着・3着だった。
2015年、マスターズチャンピオンではパーフェクト優勝を果たしV2を達成。2017年も同競走を優勝しマスターズチャンピオンでは最多となるV3を達成した。
2020年5月、北原友次が残していた77期連続最上級(A級→A1級)という記録を更新。同年9月、ボートレース徳山で開催されたG1ダイヤモンドカップをもって選手生活のピリオドを打ち、10月8日に選手登録を抹消し40年間の現役引退を発表。引退の理由として、2020年11月から男子の最低体重が52kgに引き上げられるため、元から体重が軽い上に太らない体質の今村にとって体重管理が限界になることを挙げた[7][8]。デビューしてから一度もA2級やB級に陥落することがないどころか、勝率6点台を記録し続けた。引退セレモニーはBOATRACE六本木・SIX WAKEにて実施され、コロナ禍の中で入場制限がかかる中でも多くの報道陣が訪れ、引退を惜しんだ。絶頂期のライバルであった植木通彦から花束を受け取り、同日ボートレース平和島で開催されていたG1「第66回トーキョーベイ・カップ」に出場中だった愛弟子・白井英治や寺田祥からも惜別の動画が上映された[注 2]。
また、新たに設置されるボートレース殿堂[注 3]の第1号に内定したことが発表された[9]。
現役引退後は、JLCレジャーチャンネルのyoutubeレース配信などで解説者を務めている。
その他、ダイヤモンドカップなど通算48勝。
本栖訓練所の訓練生だった頃、教官から「全速ターン」の存在を告げられ、「恐ろしくなかったら(スロットルレバーを一杯に)握っていい」と言われた今村は、「本栖の転覆王(ドボンキング)」と周りにあだ名されるほど全速ターンの練習を繰り返した。デビュー後も試行錯誤を続け、「今村全速ターン」と呼ばれる全速ターンを身に着けるに至った[42]。今村はデビューから破竹の勢いを見せ「コーナーではスピードを落とす」が常識だった当時の競艇界の常識を塗り替え、「今村以前と以後では競艇が変わった」と称された。
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