京都銀行
京都市下京区にある地方銀行 ウィキペディアから
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株式会社京都銀行(きょうとぎんこう、英: The Bank of Kyoto, Ltd.)は、京都府京都市下京区に本店を置く地方銀行である。京都フィナンシャルグループの100%子会社。
本店(京都市下京区) | |
種類 | 株式会社 |
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機関設計 | 監査役会設置会社[1] |
市場情報 | |
略称 | 京銀 |
本社所在地 |
日本 〒600-8652 京都府京都市下京区烏丸通松原上る薬師前町700番地 北緯34度59分59.3秒 東経135度45分34.2秒 |
設立 |
1941年10月1日 (丹和銀行) |
業種 | 銀行業 |
法人番号 | 9130001000028 |
金融機関コード | 0158 |
SWIFTコード | BOKFJPJZ |
事業内容 | 銀行業ほか |
代表者 |
代表取締役会長 土井伸宏 代表取締役頭取 安井幹也 |
資本金 |
421億300万円 (2020年3月31日現在) |
発行済株式総数 |
3億7920万3千株 (2017年3月31日現在) |
売上高 |
連結:1138億2300万円 単独:1039億1300万円 (2020年3月期) |
営業利益 |
連結:282億6600万円 単独:254億9600万円 (2020年3月期) |
純利益 |
連結:203億8300万円 単独:191億5900万円 (2020年3月期) |
純資産 |
連結:8349億8700万円 (2020年3月31日現在) |
総資産 |
連結:10兆784億6300万円 単独:10兆658億7500万円 (2020年3月31日現在) |
従業員数 |
連結:3,521人 単体:3,345人 (2022年3月31日現在) |
決算期 | 3月31日 |
主要株主 |
日本生命保険 4.00% 東京海上日動火災保険 3.53% 明治安田生命保険 3.29% 日本トラスティ・サービス信託銀行(信託口)2.52% 日本マスタートラスト信託銀行(信託口)2.10% (2016年3月31日現在) |
主要子会社 | #関係会社参照 |
関係する人物 |
片岡久兵衛(頭取) 栗林四郎(頭取) |
外部リンク | https://www.kyotobank.co.jp/ |
特記事項:各種経営指標は2017年3月期[2] |
京都銀行のデータ | |
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法人番号 | 9130001000028 |
店舗数 |
172店 (本支店・出張所) |
貸出金残高 | 4兆9870億円 |
預金残高 | 6兆6578億円 |
特記事項: (2017年3月31日現在) 『株式会社京都銀行 有価証券報告書 ‐ 第114期』に拠る。 |
映像外部リンク | |
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【京都銀行】「大根」篇 15秒(YouTube) 京都銀行のテレビCMの一例 |
企業キャッチフレーズは「飾らない銀行」。2004年から放映されている奇抜なテレビCM「ながーい、おつきあい」シリーズでも知られる。英字表記は『The Bank of Kyoto』であるが、各店鋪やATMでは『The Bank for Kyoto』と記されている。
戦後京都ではベンチャー企業が勃興し、オムロン、任天堂、村田製作所、京セラ、ワコール等の「京都銘柄」と称される地元企業を京銀は主力銀行として支え、それら企業の発展を背景に業容も拡大[3]。またそれら企業の株式を多数保有するため膨大な株式含み益を得ている[4]。
かつては特筆的な業務として、1945年9月、第二次世界大戦の敗戦に伴う引き揚げ港として全国10港が指定されたが、段階的に役目は終了。1950年以降は舞鶴港が唯一の引き揚げ港を担い、1958年9月の最終船である白山丸の寄港で役目を終えた。この間、京銀は地元銀行として全く経験のない引揚者持ち帰りの外貨両替業務を手掛けた[3]。
2007年より、地元プロサッカークラブ京都サンガF.C.のユニフォーム袖スポンサーとなる。翌年からは朝日放送→朝日放送テレビ・朝日放送ラジオの全国高校野球選手権大会中継の提供スポンサーも担う[注釈 1]。なお、通常は出店地域のみで放送されている「ながーい、おつきあい」のCMは、特別番組などのスポンサーとなった際は未出店地域も含め全国に放映される。
京都府内の市町村と滋賀県・大阪府・奈良県・兵庫県・愛知県・東京都に支店と出張所を持つ。
戦前まで、京都市内における銀行は東京市内(現:東京23区)と同じくほとんどが都市銀行の支店であり、地元の地銀は小規模のものが数行存在していたに過ぎなかった。しかも、そのいずれもが結局大手銀行への併合の道をたどり、京都大内銀行が安田銀行と当時福知山に本店を置いていた丹和銀行に分割譲渡されたのを最後に、戦時中において、京都市内では地元地銀が消滅してしまった。
戦後、地域産業発展のため地元資本による地銀の設立を求める声が起こり、また蜷川虎三京都府知事も中小企業金融の充実に積極的であったこと、加えて日銀京都支店を歴任した一万田尚登総裁も「大都会に本店銀行がないのは日本七不思議の一つである」と地元本店銀行の必要性を説いたことから[5]、丹波・丹後地区における戦時中の統合銀行であった丹和銀行が京都市内に進出した。すでに同行時代において、日本勧業銀行京都支店から京都府の本金庫(指定金融機関)業務を移管されていたこともあり、それに相応しい商号に変更する必要があるとして1951年に京都銀行に行名を改めた[5]。さらに1953年には本店を京都市の現在地(旧:髙島屋跡)に移転している。その後、京都市内における店舗拡大策として、都銀をはじめとした他銀行の支店の譲受や自主出店によって店舗を増やした、その一方で1980年代に府外支店の大部分を整理している[注釈 3]。
1998年6月、柏原康夫が頭取に就任する。当時京銀も少なからず不良債権を抱えており、担当部署から先述の株式含み益によって不良債権を処理する案が具申された。しかし、含み益を使用した場合には保有株式の簿価が上昇し、経営基盤が弱体化するため、それは使用せず、就任1年目はあえて赤字決算を計上した[6]。その時分、京銀の資金量は地銀界において15~16位程度につける横ばいの状態が続き、周囲の金融機関を見渡してもリストラが横行していた。
そうした中、柏原は銀行の規模を拡大することによって収益力を高めていく成長戦略に舵を切った。だが、京都はメガバンクのほか有力信金も存在する全国有数の金融激戦地であるため、府内で資金量を増やすことは至難の業であった。そこで、隣接県に出店して規模を拡大していく方針を定めた。それに沿って、2000年12月に滋賀県草津市に新規出店したことを皮切りに、「広域型地銀」を標榜し店舗の連続性を考えながら水が染み透るように出店を重ね[7]、滋賀、大阪、奈良へと店舗網を拡張。さらに兵庫にも尼崎支店(2004年12月)、神戸支店(2005年9月)[注釈 4]、川西支店(2007年10月)、六甲道支店(同11月)を開設するに至っている[注釈 5]。また、2011年4月にはかつて撤退した名古屋支店[注釈 6]を再出店。それに先立って、2011年1月より中京広域圏(テレビ愛知含む)でのテレビCM放送を開始している。このほか、2015年12月には、東京支店を営業部に昇格し人員を10名増員したほか、2016年7月19日には愛知県下2店目となる刈谷支店および刈谷住宅ローンプラザを刈谷市に開設した[8][9][10]。これによって2000年以降の出店は50店舗超を数えた[11]。
京銀は後発であるため、京都市の指定金融機関には指定されず[注釈 7]、また市内シェア(預金1兆円以上の金融機関のみで)も三菱UFJ銀行や京都中央信用金庫、京都信用金庫、三井住友銀行などと分け合っている[注釈 8]。旧三和銀行の流れを汲み、京都でのシェアが高いMUFGは、府内預金シェア約15%、貸出シェア10%で、預金・貸出とも当行に次ぐ2位。京都中央・京都信用金庫を抜いた模様[12]。
京都府の出納機関業務を京都中央信金が固辞したため、京銀が烏丸高辻に本店を建設したとの話がある。また上記の経緯から京都市との結びつきは少ないが、府下の他市町村とは紐帯も強く、京都市以北では京都北都信用金庫と並び重要な地位をしめている。
京阪電気鉄道と提携して駅構内ATM「ステーションATMエキバンク」を主要駅に展開している。 なお、全ATMにおいて据え置きの現金封筒(紙幣袋)を提供するサービスは2022年1月をもって廃止された[13]。
(親密取引先を含む)
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ほか
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