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明王の一尊 ウィキペディアから
不動明王(ふどうみょうおう、梵: अचलनाथ acalanātha[2])は、仏教の信仰対象であり、密教特有の尊格である明王の一尊。大日如来の化身とも言われる。また、五大明王の中心となる明王でもある。
真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で幅広く信仰されている。大日如来、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王、金剛愛染明王らと共に祀られる。
密教の根本尊である大日如来の化身であると見なされている。「お不動さん」の名で親しまれ、大日大聖不動明王(だいにちだいしょうふどうみょうおう)、無動明王、無動尊、不動尊などとも呼ばれる。アジアの仏教圏の中でも特に日本において根強い信仰を得ており、造像例も多い。真言宗では大日如来の脇侍として、天台宗では在家の本尊として置かれる事もある。縁日は毎月28日である。
不動明王の真言には以下のようなものがある。 一般には、不動真言の名で知られる、小咒(しょうしゅ)、一字咒(いちじしゅ)とも呼ばれる真言が用いられる。
また、長い真言には、火界咒(かかいしゅ)と呼ばれる真言がある。
その中間に位置する、慈救咒 (じくじゅ)と呼ばれる真言も知られる。
種子(種子字)はカン(हां、hāṃ)、あるいはカンマン(ह्म्मां、hmmāṃ)。
梵名の「アチャラ」は「動かない」、「ナータ」は「守護者」を意味し、全体としては「揺るぎなき守護者」の意味である。
「不動」の尊名は、8世紀前半、菩提流志(ぼだいるし)が漢訳した「不空羂索神変真言経」巻9に「不動使者」として現れるのが最初である[5]。『大日経』では大日如来の使者として「不動如来使」の名が見え、『大日経疏』では「不動明王」の語が使われている[5]。大日如来の脇侍として置かれる事も多い。
密教では三輪身といって、一つの「ほとけ」が「自性輪身」(じしょうりんじん)、「正法輪身」(しょうぼうりんじん)、「教令輪身」(きょうりょうりんじん)という3つの姿で現れるとする。「自性輪身」(如来)は、宇宙の真理、悟りの境地そのものを体現した姿を指し、「正法輪身」(菩薩)は、宇宙の真理、悟りの境地をそのまま平易に説く姿を指す。これらに対し「教令輪身」は、仏法に従わない者を恐ろしげな姿で脅し教え諭し、仏法に敵対する事を力ずくで止めさせる、外道に進もうとする者はとらえて内道に戻すなど、極めて積極的な介入を行う姿である。不動明王は大日如来の教令輪身とされる。煩悩を抱える最も救い難い衆生をも力ずくで救うために、忿怒の姿をしている。
起源をヒンドゥー教のシヴァ神とする説がある[6]。アチャラナータはヒンドゥー教ではシヴァ神の異名である[7]。シヴァ神はその絶大なパワーから仏教にもさまざまな異名でとりこまれているが、シヴァ神をルーツとする仏で最強最大の存在が不動明王であるとされる[8]。 一方で不動明王シヴァ神起源説については明治時代の一部の学者が唱えたもので[9]、まったくの誤りであり、造形上の共通点は後世の変貌によるものであり、本来の共通点は「山岳の主」という一点以外はほとんどなく、共通点という点ではヴィシュヌ神やヴァルナ神のが相似点があるという指摘もある[10]。
ヒンドゥー教の破壊と創造の神シヴァは仏教にとりこまれ密教経典とともに8世紀初頭にインドから中国に伝えられた[11]。空海が唐から持ち帰った密教には五仏の教輪身たる五大明王があり、その中心が不動明王であり、平安時代を通じて鎮護国家、護国修法の本尊として用いられた[12]。天台宗でも円仁が唐で不動明王に助けられ、円珍が比叡山にて修行中に黄不動を感得し、円珍の入唐を助けるなどして信仰が篤くなった。10世紀半ばには藤原純友の乱では天台僧の延昌が不動法を修し、平将門の乱には天台阿闍梨の尊意が延暦寺で不動安鎮法を修した。また平の将門の乱には真言僧の寛朝が神護寺護摩堂本尊の不動明王を下向させて調伏祈祷を行い満願の日に乱が平定されたという。この不動明王が今の成田山新勝寺の不動明王だという[13]。10世紀から11世紀後半の平安時代中期の摂関政治の時代には現世利益を求める貴族達の私的な息災法や増益法に用いられるようになり、怨霊や物の怪の調伏、治病の祈祷、安産祈願にまで不動明王が用いられた[14]。また摂関時代から平安時代末期に起こった修験道でも不動明王は本尊として信仰され修験者は不動明王との一体化すべく修行に励んだ[15]。中世には元寇の際に高野山南院の波切不動が筑前鹿島に移され外敵退散の祈祷が行われた[16]。また浄土信仰と結びつき不動の慈救呪が往生を助け臨終正念を護る真言として用いられた[17]。このように中世には浄土宗や修験者を介して不動明王は地蔵、観音と並ぶ庶民の仏へと変貌し不動信仰が庶民に普及していった[18]。
密教の明王像は多面多臂(複数の顔、腕も複対)の怪異な姿のものが多いが、不動明王は一面二臂で降魔の三鈷剣(魔を退散させると同時に人々の煩悩や因縁を断ち切る、片側中央の刃だけが一際長い三鈷杵)と羂索(けんさく/けんじゃく。悪を縛り上げ、また人々を縛り吊り上げてでも煩悩から救い出すための投げ縄のようなもの。一方の端には環、他方の端には独鈷杵の半分が付く)を持つのを基本としている(密教の図像集などには多臂の不動明王像も説かれ、後述のように日蓮は四臂の不動明王を感得しているが、立体像として造形されることはまれである)。剣は竜(倶利伽羅)が巻き付いている場合もあり、この事から「倶利伽羅剣」と呼ばれている。
また、その身体は基本的に醜い青黒い色で表現される像容が多い。頂は七髷か八葉蓮華、衣は赤土色、右牙を上に出し左牙を外側に出す、というのが一般的とされる。不動明王は多くの明王の中でも中心的な存在である。以下に典型的な像の形を示す。
インドで起こり、中国を経て日本に伝わった不動明王であるが、インドや中国には、その造像の遺例は非常に少ない。日本では、密教の流行に従い、盛んに造像が行われた。
また、日蓮宗系各派の本尊(いわゆる十界曼荼羅)にも不動明王が書かれている為、日蓮宗でも不動明王を奉安する寺院が存在する[注 3]。愛染明王と同様、空海によって伝えられた密教の尊格であることから、日蓮以来代々種子で書かれている。なお日蓮の曼荼羅における不動明王は生死即涅槃を表し、これに対し愛染明王は煩悩即菩提を表しているとされる。
不動明王は、八大童子と呼ばれる眷属を従えた形で造像される場合もある。ただし、実際には八大童子のうちの2名、矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制吒迦童子(せいたかどうじ)を両脇に従えた三尊の形式で絵画や彫像に表されることが多い(不動明王二童子像または不動三尊像と言う)。三尊形式の場合、不動明王の右(向かって左)に制吒迦童子、左(向かって右)に矜羯羅童子を配置するのが普通である。矜羯羅童子は童顔で、合掌して一心に不動明王を見上げる姿に表されるものが多く、制吒迦童子は対照的に、金剛杵(こんごうしょ)と金剛棒(いずれも武器)を手にしていたずら小僧のように表現されたものが多い。
八大童子の彫像の作例としては、高野山金剛峯寺不動堂に伝わった国宝の像がよく知られる。この他に三十六童子、四十八使者と呼ばれるものがある。
また東寺のように五大明王と呼ばれる主要な明王の中央に配されることも多い。
以下四つは他の尊格や日本の神々をも代表する存在であるとした讃嘆経に類するもの。[要出典]
その他、関連するものとして[要出典]
があるが、いずれも典拠は明らかではない。[要出典]
日蓮宗では、大曼荼羅御本尊に勧請され、題目「南無妙法蓮華経」の右側に種子「カーン」が大きく記載されるのが通例となっている。 また日蓮宗寺院が檀信徒に配布する大黒天、烏蒭沙摩明王などの神札において、主神名の右側に種子「カーン」が記入される事例が多くみられる。
他説もある。特に広辞苑等では「三不動」として以下の組み合わせが併載されている。
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