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フィリピンの軍隊 ウィキペディアから
フィリピン軍(フィリピンぐん、英語: Armed Forces of the Philippines, AFP)は、フィリピンの軍隊。
フィリピンは、当初はスペインからの独立を目指したフィリピン独立革命を、のちにはアメリカ合衆国による植民地支配に抵抗して米比戦争を戦った。この結果として、アメリカ植民地時代のフィリピンは、独自の軍隊を持たなかった。1901年には、対反乱作戦を遂行するためにフィリピン警察軍 (PC)が創設されたものの、これは治安部隊に留まっており、フィリピンの防衛については、アメリカ軍の駐留部隊が全責任を負っていた。駐留アメリカ軍の主力は1913年に設置されたアメリカ陸軍フィリピン部で、約1万人の兵力を有し、うち半数はフィリピン・スカウト (PS) と呼ばれる現地人志願兵から成っていた[2]。
1934年、アメリカ合衆国議会はフィリピン独立法を可決し、1935年にはフィリピンの独立方針が認可され、これを受けてフィリピン独自の戦力の整備が決定された。フィリピン・コモンウェルス(独立準備政府)の初代大統領となったマニュエル・ケソンの要請で、アメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー少将やドワイト・D・アイゼンハワー少将らが軍事顧問として派遣された[2]。
マッカーサーらは、独立予定の1946年までに、常備軍1万人(従来の警察隊員6千人を含む)と予備役40万人のフィリピン陸軍(PA)を整備する計画を立案した。フィリピン全土を10個管区に分けて、有事の際には各管区で7500人規模の予備役師団を編成、常備師団1個と合わせて11個師団となる計算だった。この計画には魚雷艇36隻を有する沿岸警備部隊と、高速爆撃機100機を有するフィリピン陸軍航空軍も含まれていた。マッカーサーは、計画達成の暁には、あらゆる侵略に対抗できる自衛戦力が備わると評価していた[3]。しかし、財政的問題や士官の不足などから、その整備は遅々として進まず、最終的に、フィリピン軍は、体制未整のままで太平洋戦争に突入することを余儀なくされた。
日米関係の悪化を受け、1941年9月1日よりフィリピン陸軍の動員が開始された。12月15日編成完了を目途に、10個管区でそれぞれ1個師団の動員が進められたものの、開戦時点で、各師団の動員状態は2/3が進行した程度であり、動員済みの部隊も装備や訓練は不完全だった。
各師団は3個歩兵連隊と2個砲兵大隊、対戦車砲大隊などから構成されるはずだったが、訓練まで終えたのは各1個歩兵連隊程度に過ぎなかった。例えば、11月18日に誕生した第31師団の場合、隷下の第31歩兵連隊は9月1日に動員済みだったものの、2番目の第32歩兵連隊(11月1日動員)は師団戦列に合流したのが12月6日、3番目の第33歩兵連隊に至っては11月25日にようやく動員着手という具合であった。最初の砲兵大隊である第31砲兵大隊の動員着手は開戦後の12月12日で、2個の砲兵大隊が揃ったのはバターン半島での籠城戦の最中だった。対戦車砲大隊は編成されないままに終わった[4]。
兵器や弾薬の不足も著しかった。これもフィリピン陸軍第31師団の例で見ると、分隊支援火器のはずのブローニングM1918自動小銃は1個中隊に1丁、師団砲兵用の75mm野砲は照準器が無い8門だけが配備された。小銃と重機関銃はそれなりに数が揃っていたが、旧式のブローニングM1917重機関銃(各機関銃中隊に8丁)とスプリングフィールドM1903小銃だった。弾薬不足は訓練にも影響し、9月に動員された第31歩兵連隊が最初の実弾射撃訓練をしたのは11月24日という有様だったが、実弾射撃経験無しで実戦投入された他の多くのフィリピン陸軍部隊よりは恵まれていたという[4]。
また、フィリピン陸軍の沿岸警備部隊はイギリス製の魚雷艇36隻の配備を計画していたが、第二次世界大戦の勃発でイギリスからの輸入は2隻のみしか実現しなかった。代わって現地生産が試みられたが、1隻完成しただけだった[5]。
このほか、フィリピン陸軍兵士に軍事教育を施すときには、言葉の壁も問題となった。教官となったアメリカ人兵士は英語しか解さず、フィリピン・スカウト出身者などの幹部はタガログ語を使い、同じフィリピン人でも一般兵士は出身地域ごとの言語を話した[6]。それでも、次第に信頼関係は出来ていったという。
1941年12月8日、クラーク空軍基地への航空攻撃を端緒として日本軍による攻撃が開始され、フィリピンの戦いが勃発した。本間雅晴中将指揮下の第14方面軍主力は22日より上陸を開始、フィリピン陸軍は、アメリカ極東陸軍とともに、これを迎撃した。しかしフィリピン陸軍は装備・訓練ともに不足しており、日本軍の迅速な作戦展開もあって、1942年1月2日には首都マニラが陥落した。ただしこの際、米比軍はバターン半島への撤退に成功し、以後、4月9日までバターン半島での抵抗を継続した。バターン半島の部隊が降伏したのちもコレヒドール島・ミンダナオ島・ビサヤ諸島で戦闘が継続されたが、5月6日、コレヒドール要塞の陥落に伴って、全部隊に対して降伏が命令された。
しかし降伏命令が発せられた後も、元アメリカ極東陸軍の兵士の中には、ユサッフェ・ゲリラを名乗って日本軍に対するゲリラ戦を継続する者があった。旧フィリピン・スカウトやフィリピン陸軍の装備や指揮系統、そして兵士たちの訓練と戦闘経験が活用された。このユサッフェとは、アメリカ極東陸軍の頭字語USAFFEに由来するものである。
ユサッフェは、米比軍の正式区分だった全10管区を引き継ぐ形で軍管区司令部を設置し、総兵力約22,000名によるゲリラ戦を展開した。アメリカ軍もユサッフェ・ゲリラの活用を考え、潜水艦などで武器や通信機といった補給物資、連絡員を送り込み支援した。レイテ・比島作戦が進行するにつれアメリカ軍が武器を供給したこともあり、その数は一気に27万にまで膨れ上がり、諸戦において有力な戦力となった。連合国軍のフィリピン反攻作戦の際には、アメリカ軍の正規部隊と連絡を取って共同作戦を展開し、掃討戦などで成果を上げた。日本軍が数々の努力をしていたにもかかわらずほぼ無力で撤退していくことになったのは、このユサッフェらの影響も大きい。 マッカーサーは「フィリピン兵が一万人いれば私は世界を征服するだろう」と発言してユサッフェをたたえた [7]
1946年7月、フィリピン第三共和国が成立し、正式に独立が達成された。しかしアメリカへの依存関係を脱却するには至らず、軍事的にも、1947年に締結された比米軍事基地協定によって冷戦構造の中で合衆国の反共主義の前線基地として位置づけられ、実質的な独立を達成できなかった[8]。
大戦中、フィリピン軍・アメリカ極東陸軍を母体とするユサッフェ・ゲリラとともに、農民運動を母体とした抗日武装組織としてフクバラハップが結成されていた。大戦中は両者の関係は良好であり、しばしば協同して作戦行動を行なった。しかし戦後共和国政府は徹底してフクバラハップを敵対視し、1948年3月にはロハス政権によってフクバラハップと全国農民同盟は非合法化され、ルソン島では政府軍と地主の私兵とフクバラハップとの間で戦闘が繰り広げられた。フクバラハップは、一時は首都攻略まで噂されるほど勢力をのばしていたものの、アメリカからの軍事援助を受けたフィリピン軍が勢力を盛り返し、ラモン・マグサイサイ国防相による討伐作戦によって1950年10月には共産ゲリラの司令塔だったフィリピン共産党 (PKP)が壊滅し、翌1951年にはフクバラハップそのものも実質的に壊滅に追い込まれた。
しかしフクバラハップ支持の源泉であった農村問題に対する農地改革は不徹底に終り、1965年以降のフェルディナンド・マルコス大統領による独裁体制に対する反発もあり、1960年代末にはフィリピン共産党 (CPP) の武装部門である新人民軍(NPA)および民族民主戦線(NDF)、1970年にはモロ民族解放戦線(MNLF)が武装闘争を開始、フィリピン軍は再び対反乱作戦を余儀なくされることとなった。
この一方で、フィリピン軍は、国連軍の一員として朝鮮戦争に参戦した。韓国派遣フィリピン軍(PEFTOK)は、第2,10,14,19,20の計5個大隊戦闘団より編成され、兵力7,500名、国連軍で4番目に大きな勢力であった。
また、フィリピン軍は国際連合平和維持活動など、海外での戦争以外の軍事作戦にも積極的に参加している。主な参加活動は下記のとおりである。
フィリピン軍の装備更新は遅れがちであり、アジア最弱の軍隊と指摘されることもあった[9]。1999年10月、フィリピン国防省とアメリカ国防総省は、共同防衛評価(JDA)計画を開始した。2003年に発表された報告書(2003 JDA)は、フィリピン軍には、もっとも重要な任務であっても、部分的に遂行できる程度の能力しか備わっていないという、驚くべき指摘を行なった。
2003 JDAは、具体的に、下記の各領域での問題点を指摘した。
2003年10月、ジョージ・W・ブッシュアメリカ合衆国大統領がフィリピンを訪問した際、グロリア・アロヨ大統領とともに、JDAにより指摘された問題点を解決するための施策の推進を発表した。これを受けて2004年、フィリピン軍は、フィリピン国防改革プログラム(Philippine Defense Reform, PDR)を発動した。これは、国防部門の短期的・長期的改革を目的としたもので、下記の10要件を備えている[10]。
PDRは、フェーズ1: 下地作り(2004〜5年)、フェーズ2: 防衛体制の確立(2005〜7年)、フェーズ3: 改革の遂行と制度化(2007〜10年)の3つのフェーズに分けて進められる計画であった。計画の進捗はおおむね順調であるが、主に予算不足により、その影響は、期待よりも限られたものとなる恐れが指摘されている[11]。
PDRによる機材更新の一環として、作戦機としてFA-50戦闘爆撃機やC-295戦術輸送機、またドック型輸送揚陸艦としてターラック級輸送艦などが配備された。今後はさらなる国防個人装備の近代化と輸送艦の輸入及び新造などを進め、洋上哨戒と偵察能力を重視した領海監視海軍機を導入する。現状で自立した国防体制と軍事同盟による集団的安全保障体制を両輪とし、共同演習も含むASEAN諸国海軍との交流強化と南シナ海でのフィリピン領島嶼部への国防体制を最優先とし、新たに輸送部隊やフィリピン海兵隊用基地新設も含め検討しており、島嶼国家フィリピン共和国の国防体制を、国防改革プログラムに沿って進め2020年代までに強靭な体制を確保し、さらに首都マニラ付近海域での沿岸警備隊も増設し、発展させるとしている。
フィリピン軍は、平時より統合運用を行なっている。すなわち、全ての実戦部隊は、7つの地域別統合コマンドのいずれかに編入されており、各軍種はフォース・プロバイダーの役割に徹している。これは、アメリカ軍の統合軍方式に近い体制である。
フィリピン陸軍は、2021年現在、101,250名の現役兵及び100,000名の予備役を有している[13]。陸軍司令部はマニラ首都圏タギッグのボニファシオ基地に所在しており、陸軍軍人の最高位は陸軍総司令官で、中将が補職される。
戦略単位として師団、作戦単位として旅団、戦術単位として大隊が採用されている。師団長は少将、旅団長は准将/大佐が補職される。師団の上部組織は各統合軍であるため、これより大規模な陸軍部隊は編成されていない。
なお一部の部隊は、予備役であるCAFGUによって充当されている。これは日本の即応予備自衛官に相当するものである。
特殊部隊としてスカウトレンジャー連隊、特殊部隊連隊、即応連隊(対テロ作戦部隊)が存在する。
フィリピン陸軍は基本的に対反乱作戦を重視した装備体系を採用している。
また、フィリピン陸軍には、小規模な陸軍航空隊が存在する。ただしヘリコプターの運用は空軍が所管しているため、保有機材は、基本的に小型の連絡機に限定されている。
フィリピン海軍は、2022年現在、24,500人の現役兵士(8,300人の海兵隊員を含む)及び1,500人の予備役、艦艇96隻及び有人航空機25機、無人航空機8機を有する[15]。
フィリピン海軍の部隊は、部隊管理上、フィリピン艦隊司令部(Philippine fleet)とフィリピン海兵隊司令部[12](Philippine Marine Corps)のいずれかのタイプ・コマンドに属している。また作戦指揮上は、下記のように7個部隊が海軍作戦コマンドに、5個部隊が海軍支援コマンド、他に7個の海軍支援部隊が編成されている。特殊部隊としては、海軍が海軍特殊作戦グループ、海兵隊が威力偵察大隊を有する。
フィリピン海軍は、現在、保有機材の老朽化に直面しており、また潜水艦を所有していないなど、攻防面に於いて致命的な弱点がある。
フィリピン空軍は、2021年現在、17,600名の現役兵及び16,000人の予備役、作戦機214機を有する[15]。
2011年現在、対ゲリラ作戦に主眼を置いて、軽武装ヘリコプターおよび汎用ヘリコプターが主力となっている。2005年にF-5が退役して以降、固定翼機はCOIN機および軽攻撃機のみとなり、戦闘機を保有しない期間が長かったが、国防改革プログラムの一環として、韓国製のFA-50軽戦闘爆撃機12機の導入が決定された。2015年11月より配備が開始されている[28]。また2015年からはEADS CASA C-295輸送機の受領も開始された。
中国の海洋戦略による反動もあり、重要な防衛の要衝である第一列島線に位置するフィリピンでは、在比米軍も呼び戻した上で、急速な軍拡を続ける中国人民解放軍に対抗するため、自国の軍備も急速に近代化をはかるとしている。同時に日本から艦艇などの供与も求めているが、自国の安全を守る努力はまず自国軍からという大原則もあり、輸送能力・兵站能力強化の必要性が国際的な専門家から指摘されている。関係者によると、インドネシア軍などのようにオーストラリアからC-130型輸送機の中古供与を模索する動きもあるという。
フィリピン沿岸警備隊(Philippine Coast Guard)は平時にはフィリピン運輸通信省の機関であり、武装して沿岸警備などを行う法執行機関。戦時にはフィリピン国防省の付属機関になる。
従来はフィリピン沿岸警備隊法(1967年)に基づきフィリピン海軍の隷下にあったが、1998年4月15日に大統領令により海軍から分離され、海上保安機関として独立した。これにより軍事目的への転用を厳しく制限されている日本などからのODA援助が可能となった。PCGが正式にフィリピン運輸逓信省の組織になったのは、フィリピン共和国法第9993号(フィリピン沿岸警備隊法2009年)による(成立:2010年2月12日)。
PCGは、日本の海上保安庁をモデルとしており、 海上における安全確保、すなわち人命・財産保護のため、海上捜索救助、航行安全管理、海上法執行、海洋環境保全等の業務を担っている[29]。
PCGの予算は約2億7480万ドル(2021年度)で、約20000名の隊員と、日本が供与した巡視船97m型2隻やフランスが供与した83m型1隻を主力とする約62隻の船艇、5機の航空機(ヘリコプター、輸送機など)等を有する[30][31]。
移管されたPCG隊員の殆どは海軍の出身者で、日本からのODA援助に含まれる技術協力として派遣された海上保安官やJICAメンバーなどが、10年以上にわたり法執行機関の隊員としての育成に携わった。
PCG自体、日本の海上保安庁をモデルとしているほか、海難救助のため「海猿」をモデルとする潜水士グループや特別警備隊・銃器対策部隊をモデルとする約200名の特殊作戦グループが編成されているなど日本との結びつきが強い。
近年、日本政府では、自国の地政学上のシーレーン防衛の観点から、通信システムや巡視船の供与などの援助を実施している。
2013年12月、日本政府の有償資金協力(ODA)「フィリピン沿岸警備隊海上安全対応能力強化事業」(フェーズ1)を対象として、国際協力機構(JICA)はフィリピン共和国政府と187億3,200万円を限度とする円借款貸付契約に調印[32]。 フィリピン共和国運輸通信省が発注者となり フィリピン沿岸警備隊が使用する 40m 級多目的船 10 隻の建造および特別予備品の供与を2015年5月にジャパン マリンユナイテッドが丸紅協力により受注[33]。2016年-18年に10隻が引き渡された。これはびざん型巡視船 (2代)をベースとしている。
2016年10月、日本とフィリピンの間で「フィリピン沿岸警備隊海上安全対応能力強化事業」(フェーズ2)を対象とした円借款契約が締結。2020年2月3日、フィリピン運輸省が発注者となりテレサ・マグバヌア型巡視船の建造を三菱重工業が受注。2022年、テレサ・マグバヌア型巡視船2隻が引き渡された。これはくにがみ型巡視船をベースとしており、同沿岸警備隊で最大の艦艇となる。
フィリピンは、中国と南シナ海のスプラトリー諸島(タガログ語名カラヤーン群島)の領有権・海域を巡る係争を抱えているうえ、2016年には中国船がルソン島東沖合の浅い海域「ベンハム隆起」をフィリピン政府に無断で探査した。このためフィリピン沿岸警備隊は2017年5月、日本から供与された巡視船をベンハム隆起海域に派遣した[34]。
一方、現状運用中の大型巡視船は計3隻しかなく、多数の大型艦船を展開する中国海警局に圧倒されている沿岸警備隊はテレサ・マグバヌア型巡視船5隻の追加供与を要望している。2023年10月19日、沿岸警備隊のガバン長官は、日本から大型巡視船5隻の追加供与を受ける見通しになったと明らかにした。 追加供与が年内に日比間で正式合意に至らず「準備期間が長くかかる可能性がある」としたものの、手続きが進行中としている[35]。
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