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ブローニングM1918自動小銃(Browning M1918 Automatic Rifle)は、アメリカ合衆国で開発された自動小銃である。アメリカ軍をはじめとする各国軍において、20世紀を通して使われた。
ブローニングM1918A2自動小銃 | |
概要 | |
---|---|
製造国 | アメリカ合衆国 |
設計・製造 |
ブローニング・アームズ コルト ウィンチェスター IBMなど |
性能 | |
口径 | 7.62mm |
銃身長 | 610mm |
使用弾薬 | .30-06スプリングフィールド弾(7.62x63mm) |
装弾数 | 20発(着脱式箱型弾倉) |
作動方式 |
ガス圧利用(ロングストロークピストン式) ティルトボルト式 オープンボルト |
全長 | 1,214mm |
重量 | 7.2-8.8kg |
発射速度 | 300-650発/分 |
銃口初速 | 805m/s |
有効射程 | 548m |
「Browning Automatic Rifle」の頭文字を取ってBARと略される[注 1]。現在のブローニングの民間用猟銃にも「BAR」という製品があるが、本銃とは完全な別設計である。
1917年、銃器設計技師のジョン・M・ブローニングにより設計された。フルオートとセミオート射撃を選択でき、軽機関銃のようにも使え、一人で運搬できて歩兵分隊の移動に追従する分隊支援火器の始祖とも言える存在である。1917年採用にもかかわらず「M1918」という名称が与えられているのは、先立って採用されていたブローニングM1917重機関銃との混同を避ける為だった。
ガスオペレーション方式、空冷、弾倉装弾式の銃器である。アメリカ軍用に製造されたものは、.30-06(7.62x63mm)弾を標準採用していた。重さは形式により異なるが、無装填の時7.3-8.6kgである。弾倉の装弾数は20発。
作動機構は、オープンボルト式のガス圧作動方式であり、ティルトボルト式のボルト閉鎖機構が採用されている。銃身の下にあるロングストロークガスピストンにより作動し、オペレーティングロッド(ガスピストン)の前進に伴いロッド上のボルトキャリア後部にあるカムが回転し、ボルト後部が斜めに上昇しボルト後端がレシーバー内部上面の窪みにはまることによりボルトが閉鎖され、オペレーティングロッド(ガスピストン)の後退に伴いボルト後部が下降することでボルトが開放される[2][3]。撃発はボルトキャリアの前進に伴い、ボルトキャリア内部のストライカーが撃針を押し出すことにより行われる。切替レバーによって、安全・セミオート・フルオートを選択することができる。
1917年4月6日にアメリカ合衆国が第一次世界大戦に参戦した時点で、アメリカ軍は決して十分な装備を有していた訳ではなかった。M1903小銃やM1911ピストルのような優れた(当時最新式の)火器は不足し、それ以外は旧式あるいは性能で劣るものばかりだった。とりわけ軽機関銃の不足が深刻で、これを補うべく同盟国フランスからショーシャ機関銃(アメリカ兵は名の発音を面白がり「ショーショー」と呼んだ)を輸入したものの、前線での評判は芳しいものではなかった[4][注 2]。同時期、ブローニングはコルトにて新型自動小銃の設計を行っていた[6]。
1917年5月1日、陸軍長官により招集された兵器委員会において、ブローニングが設計した自動小銃の採用が決定した。現在よく知られるブローニング自動小銃(Browning Automatic Rifle, BAR)という名称が広まるまで、この銃はブローニング・マシン・ライフル(Browning Machine Rifle, BMR)と呼ばれていた[7]。軍部はBARの早急な大量生産を要請したが、当時コルトの生産力は限界に達していた上、新たな工場を準備する時間的な余裕も残されていなかった。その為、アメリカ政府はコルトおよびブローニングと戦時特許権に関する契約を結ぶこととなる。1917年9月、マーリン=ロックウェル、ウィンチェスター・リピーティングアームズがBARの製造契約を結ぶ。コルトを含むこれらの3社は既にあらゆる兵器製造に関わっていたが、BARの生産は特に優先して実施された。また、この時点でBARはブローニング自らが手がけたオリジナルの1丁以外に存在せず、詳細な仕様や設計図などは用意されていなかった。ウィンチェスターはコルトからレンタルしたオリジナル銃を元に図面や設計図をわずか1週間で作り上げ、マーリンの生産ライン準備にも協力した。ウィンチェスターからの出荷は1917年12月に始まり、コルトとマーリンはそれぞれ1918年2月および1918年1月から出荷を開始した。前線での支給が始まったのは1918年夏頃からである[6]。
当時の自動小銃班は射手、装填手、弾薬手の3人から成り、あわせて960発(弾倉48個)の弾薬を携行した[7]。射手用の弾倉入れベルトは突撃射撃(marching fire)に用いることを想定した特殊なもので、BAR用弾倉8個とM1911ピストル用弾倉2個を収納できたほか、右腰にあたる箇所には腰だめにBARを構えた際に銃床を引っ掛けて固定する為の金属製カップが取り付けられていた[6]。
1918年9月、ムーズ・アルゴンヌ攻勢の際に第79歩兵師団によって初めて実戦に投入された。BARは戦闘の中で非常に高い評価を受けることとなったが、何らかの理由から一般的な装備供給の枠組みから外されていた。配備が実施された部隊はアメリカ遠征軍(AEF)のうち4個師団のみで、他師団では終戦までショーシャ機関銃が使用された。配備が制限された正確な理由は定かではないが、訓練および配備を行うだけの時間的な余裕がなかった、あるいは十分な配備が行われる前にドイツ側に鹵獲されることを恐れたといった理由からだと言われている[7]。1918年11月にはドイツと連合国の休戦協定のもとで戦闘が停止するが、BARの製造は引き続き行われた。休戦までに52,238丁のBARが出荷され、1919年末に生産が停止した時点の出荷数は102,125丁だった[6]。
BARは当時としては比較的軽量な自動火器であった。従来の歩兵銃の役割を兼ねることも期待され、射撃精度を確保するためM1903小銃と同等の長銃身やM1917小銃と同型の照準器を備えていた。射撃はもっぱらセミオートで行われ、フルオート射撃は支援射撃が必要な場合や緊急時のみ実施された。セミオート射撃時の精度は歩兵銃と同程度か、多少優れていたと言われている[7]。
1920年代から1930年代にかけて、アメリカ軍が世界各地で実施した小規模な軍事作戦でもBARは使用された。また、州兵の武器庫などから強奪されたBARが犯罪者によって使用された事例もある。特に有名なのはボニーとクライドである。クライド・バロウは州兵の武器庫から盗んだBARの銃身を切り詰めたものを使っていた[6]。
1920年2月27日、歩兵および騎兵委員会の要請のもと、M1919A4機関銃に代わる騎兵用軽機関銃モデルの設計が行われた。このモデルはM1922と呼ばれ、放熱フィン付きの重銃身、二脚、銃床下の伸縮式単脚、改良型照準器などの変更が加えられていた。重量は装填状態で25ポンドあり、31ポンドあったM1919よりも軽量だった。また、これに合わせて銃および弾薬を運搬する専用の鞍も設計されたほか、30連発ないし40連発の大型弾倉も検討された[8]。その後、結局広く使われることはなく、M1922の大部分は歩兵用に再改修され、1941年4月10日には正式に退役が宣言された[9]。
1937年、M1918を改良したM1918A1が設計される[6]。
第二次世界大戦参戦直前、M1918A2が設計された。M1918やM1918A1は1940年代初頭を通じてM1918A2へと改修されたが、一部は未改修のままレンドリース法のもとイギリスへと送られたり、アメリカ兵によって前線で使用されることもあった。真珠湾攻撃を受けて第二次世界大戦へ参戦すると需要が増し、IBMおよびニューイングランド・スモールアームズの2社が新たにM1918A2の製造契約を結んだ。これら2社によって208,380丁のBARが製造された。太平洋戦線でもBARは人気のある装備の1つだったが、一方で最新型のM1918A2は初期型に比べてあまりにも重い為に苦情が相次いだ[6]。
この頃にはBARよりも軽量な自動火器が既に普及していたため、重量があるBARはかつて想定された歩兵銃を兼ねる「自動小銃」としての役割よりも、機関銃的な運用に重点を置いた分隊支援火器としての役割が主に期待されるようになっていた。二脚などの追加が行われたのもこうした運用方法の変化を踏まえてのことであった。しかし、M1917やM1919といった本格的な機関銃と比較した場合、弾倉装填式であるために射撃の持続性で劣る上、銃身交換が容易に行えない点は大きな欠点とみなされた[6]。
BARに弾帯給弾や交換可能な銃身といった機関銃的機能を追加する設計は何度か試みられている。例えば、1932年頃にベルギーで設計された改良型BARであるFN Dは交換可能な銃身を備えており[10]、1933年にはアメリカのウィリー・T・ムーア技師(Wiley T. Moore)がBAR用弾帯給弾機構の特許を取得したほか、スウェーデンでも後に国産BARの弾帯給弾型が試作された[11]。
BARはアメリカ海軍において洋上哨戒用飛行船用の武装としても使用され、フォアグリップと二脚を外したものがボールマウント式銃架に装備して用いられた[12]。アメリカ海軍の運用した哨戒飛行船には航空機銃として一般的なAN/M2 .50口径機関銃を装備したものもあるが、飛行船に複数の機銃を装備するにあたり狭いゴンドラの中ではM2よりもBARの方が小型軽量で適していると考えられたためである。また、これらは浮遊機雷の銃撃処分用でもあったと考えられている[12]。
第二次世界大戦を経てBARの設計は旧式化しつつあったが、その後の朝鮮戦争でもBARは使用され、1950年代初頭にはロイヤル・マクビー社による再生産が行われた。この時期に生産されたBARは第二次世界大戦末期のモデルと類似しており、銃身にキャリングハンドルが追加されていた[6]。1957年、新たな歩兵銃として採用されたM14小銃は、M1ガーランドだけではなく、アメリカ軍における標準的な歩兵用小火器、すなわちM1/M2カービン、M3/M3A1短機関銃、そしてBARの全てを同時に更新した。また、1950年代後半には中機関銃と位置づけられたM60機関銃が採用され、以後BARは徐々に姿を消していった。
しかしベトナム戦争が始まった時点でも多数のBARが残されており、その多くは南ベトナム軍に支給された。BARは南ベトナム軍の主力軽機関銃となったが、重量や大きさのために好まれなかったという。アメリカ陸軍特殊部隊群(グリンベレー)によって山岳民族(Montagnard)の民兵に供給された例もある。また、第一次インドシナ戦争の際にはフランス軍に対して大量に供給されており、ベトミン側でもフランスからの鹵獲品、あるいは中国から給与された朝鮮戦争時の鹵獲品が広く用いられた。ベトナム戦争時にはこれらのBARがベトコンによって使用されていた[13]。
大戦中に大量生産されたBARは、M1ガーランドなどとともに多数の国・組織に供与され、国によっては1990年代まで使われ続けた。日本に対しても供与され、警察予備隊が装備した。陸上自衛隊に改編されたあとでも使われ続けたが、1960年代後半には62式7.62mm機関銃と64式7.62mm小銃と交代し、予備装備品となっていった。ポーランド、スウェーデン、ベルギーはBARの発展型として、ピストル式グリップの採用と、素早く交換できる銃身に改修したモデルを製造した。
アメリカの銃器メーカーで、第二次世界大戦当時の銃火器の整備と修理を手掛ける銃器整備会社でもある、オハイオ・オードナンス・ワークス(Ohio Ordnance Works, OOW)社では、1918A3 SLRという製品名でセミオート射撃のみ可能なBARのほか[14]、H.C.A.R.(Heavy Counter Assault Rifle)というBARの近代化モデルを製造している[15]。
BARは、開発者ジョン・ブローニングと協力関係のベルギーのFN社でも製造された。FN社はBARのメカニズムを基礎として、ベルト給弾機構と交換可能の銃身を持つ、広く採用されている傑作汎用機関銃FN MAGを開発した。
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