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ジェフ・ベック

イングランドのギタリスト (1944-2023) ウィキペディアから

ジェフ・ベック
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ジェフリー・アーノルド・ベックGeoffrey Arnold "Jeff" Beck1944年6月24日 - 2023年1月10日[1])は、イングランド出身のギタリスト[2]である。

概要 ジェフ・ベックJeff Beck, 基本情報 ...

日本では、エリック・クラプトンジミー・ペイジと並ぶ3大ギタリストの一人とされている。『ローリング・ストーン』誌の選ぶ「最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第14位、2011年の改訂版では第5位。

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経歴

要約
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ジェフ・ベック・グループ時代 (1968年)

生い立ちと初期

1944年ロンドン南方のウォリントンで中流家庭に生まれる。一家は両親と姉の4人暮らしであった。ジェフは地元の私立小学校に入学。この頃、母親によるピアノや、叔父からのヴァイオリンのレッスンを受けたが挫折している。また叔父の影響で車に興味を持つようになる[3]。12歳になるとジュニア・アート・スクールに通い始める。ロックンロールロカビリーに興味を持ったベックは、友人から弦が3本しか張られていないガット・ギターを手に入れる。それに満足できなくなると、ベニヤ板を使い黄色いペンキを塗ったギターを作り上げた。のめり込むベックの姿を見て、ギターを嫌っていた両親は彼のギターを度々捨てていた。 当時のベックは、憧れであったバディ・ホリーの影響でエレキギターを求めていたが、経済的問題のために手に入れることが難しかった。しかし諦めきれなかったベックはストラトキャスターに似たボディとネックを知人と自作。ピックアップは万引きした物を取り付け、アンプ代わりにラジオに接続していた[4]。 また、彼はフレットをつける際に適切な位置に配置する必要があることを知らず、大雑把に設置していた。そのためフレットを押さえても正確な音程を出すことが出来ず、度々チョーキングをして調節しながら演奏していた[4]

16歳になるとウィンブルドン・カレッジ・オブ・アートに入学する。ベックは学友達と最初のバンド、ナイト・シフトを結成し、地元のクラブへの出演を果たすようになる。1962年、エプソム・アート・スクールに通っていた姉から、同校に在籍していたジミー・ペイジのことを知らされ、意気投合する。まもなくベックはアート・スクールを退学、ナイト・シフトを解散し新たなバンド、トライデンツを結成する。トライデンツで活動する傍ら、セッション・ギタリストとして様々なセッションにも参加している。トライデンツでの音源はアルバム『ベッコロジー (Beckology)』に3曲が収録されている。

1965年、スタジオ・ミュージシャンとしてセッションワークで多忙だったペイジに紹介される形で、エリック・クラプトン脱退直後のヤードバーズに参加。メンバーのキース・レルフはベックとの初対面の印象を「ショックだったよ。ロン毛で、手がすごくベタベタなんだ。その男がいきなり部屋にはいってきた。さっきまで車の修理してました、みたいな」「ジェフがヤードバーズにやって来た時、みんなが気づいたのが彼の順応性というか、落ち着いて新しいことに対応できる才能。そんな才能を持った男がやって来た、と思ったんだよ」と語った[4]。 シングル「ハートせつなく」で初デビューを果たす。印象的なイントロのリフは元々シタールで演奏される予定だったが、スタジオに呼んだシタール奏者が4分の4拍子で弾くことに慣れておらず録音できなかった。そこでベックがまだ新しかったファズエフェクターに繋ぎ、ヴィブラートの加減でシタールの音を再現して弾いたところ、それが採用された[4]。ヤードバーズは1966年、ベースのポール・サミュエル=スミスが脱退、その後任としてペイジがベーシストとして加入。やがてベースをリズム・ギターのクリス・ドレヤと交代したペイジは、ベックと2人でリード・ギターを担当、ヤードバーズはツイン・リード編成で活動、シングル「幻の10年 (Happenings Ten Years Time Ago) / Psycho Daises」を発表した。この時期にバンドはミケランジェロ・アントニオーニ監督の『欲望』に出演、この映画でベックはギター(薄型のホロウ・ボディー・ギター。ブランド名は不明)を破壊している。さまざまな活動やツアーを行いながらも次第にメンバー間の確執が表面化し、ついにはアメリカ・ツアー時にベックはステージを放棄し、12月中旬に健康上の問題を理由に脱退することとなる。

リーダーバンド期

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ベック・ボガート & アピス (1973年)
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ベック・ボガート & アピス時代 (1972年)

ヤードバーズ脱退後、ベックはミッキー・モストとプロデュース契約を結び、ソロ・シングル「Hi Ho Silver Lining / Beck's Bolero」を発表する。この「Hi Ho Silver Lining」はヒットし、NME誌のチャートで17位を記録する。

その後ベックは自身の新たなバンドを結成する。このバンドは一般には「ジェフ・ベック・グループ」と呼ばれている[注釈 1]ヴォーカルにはショットガン・エクスプレスに所属していたロッド・スチュワート、ベーシストがロン・ウッド[注釈 2]、ピアニストがニッキー・ホプキンス[注釈 3]、ドラマーがエインズレー・ダンバー[注釈 4]であった。バンドはこのラインナップでシングル「Tallyman / Rock My Plimsoul」を発表するが、ほどなくエインズレー・ダンバーが脱退、代わってミック・ウォーラー (Micky Waller)が加入し、アルバム『トゥルース』を録音する。その後、メンバーの確執が表面化、1969年になってロン・ウッドとミッキー・ウォーラーが脱退。代ってドラムがトニー・ニューマン (Tony Newman)に、ベースがダグラス・ブレイクに交代したが、ダグラス・ブレイクは短期間で解雇され、ロン・ウッドが再び加入した[3]。セカンド・アルバム『ベック・オラ』の発表と前後してニッキー・ホプキンスが脱退。さらにロン・ウッドがフェイセズに加入するため脱退。ロッド・スチュワートも最終的にロン・ウッドと共にフェイセズに加入する。

その頃ベックは、ヴァニラ・ファッジティム・ボガートカーマイン・アピスと接近、彼らとロッド・スチュワートをヴォーカリストとして加え、新たなバンドを結成する予定であったが、直前の1969年11月2日にカスタム・メイドのT型フォードを運転中ロンドン南30マイルのメイドストーンで交通事故を起こし重傷を負い、3ヶ月の入院を余儀なくされる。この出来事により、新バンドの構想は白紙となってしまう。

怪我が完治したベックは新たなメンバーを集め、再び自身のリーダーバンドを結成する。このバンドは日本では「第2期ジェフ・ベック・グループ」とも呼ばれている。このグループはベースにクライヴ・チェイマン、キーボードにマックス・ミドルトン、ドラマーにコージー・パウエル、ヴォーカリストにボブ・テンチというメンバーであった。このバンドはジャズやモータウンといったブラック・ミュージックからの影響を大きく受けており、それまでのブルース路線とは異なるものだった。

1971年にアルバム『ラフ・アンド・レディ』、翌年『ジェフ・ベック・グループ』を発表し、その活動も好調に行われたものの、ベックは再びカクタスで活動していたティム・ボガートおよびカーマイン・アピスと接触。8月のアメリカ・ツアーで突如メンバーを変更して、第2期ジェフ・ベック・グループは空中分解してしまう。

バンドに残ったボガートとアピスに加えヴォーカリストとしてポール・ロジャース招聘を図るもこれは失敗し、結局ヴォーカルはメンバーが兼任することにしてベック・ボガート & アピスとして活動することとなる。ベック・ボガート & アピスは2枚のアルバム(スタジオ盤と日本公演を収録したライヴ盤を1枚ずつ)を残し、1974年にはベックとボガートの対立から自然消滅する。

なお、同年4月のパリ公演後にディープ・パープルを脱退(公式発表は6月)したリッチー・ブラックモアの後釜として候補に挙がっていたが、実際にはオーディションに至らなかったと言う経緯がある[5]

フュージョン期

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オランダ・アムステルダム公演 (1979年7月)

翌1975年、ビートルズレコーディングプロデューサーでもあったジョージ・マーティンをプロデューサーに迎え、当時流行していたクロスオーバー色の濃い初のインストゥルメンタル・アルバム『ブロウ・バイ・ブロウ』を発表。インストゥルメンタル・アルバムとしては珍しく、アメリカでゴールドディスクを獲得し、セールス面でも成功を収めた。また、同年リリースされたスタンリー・クラークのアルバム『ジャーニー・トゥ・ラヴ』に2曲でゲスト参加[6]

『ブロウ・バイ・ブロウ』発表の1年後、ナラダ・マイケル・ウォルデン(ドラム)やヤン・ハマー(キーボード)らを起用し、またしても全編インストゥルメンタルの『ワイアード』を発表。ジャズ・ロック的な要素を全面に出したアルバムとなった。1978年から1979年には、スタンリー・クラークと共に日本及びヨーロッパでツアーを行う[7]

1980年代に入ると、同じくヤードバーズ出身のジミー・ペイジ、エリック・クラプトンと共に、A.R.M.Sコンサートに参加し、3人が共演。クラプトンと共に、シークレットポリスマン・コンサートで共演。アルバム『ハニードリッパーズ (The Honeydrippers)』に参加し、ジミー・ペイジ、ロバート・プラントと共演した。

同年、インストゥルメンタル路線の第3弾『ゼア・アンド・バック』を発表する。

1985年に、アルバム『フラッシュ』をリリースする。このアルバムではそれまでのスタイルから転換を図り、ナイル・ロジャースアーサー・ベイカーをプロデューサーに迎え、ヴォーカル入りの曲を主体にして制作したアルバムである。収録曲「エスケープ」がグラミー賞の最優秀ロック・インストゥルメンタル賞を受賞。中でも、インプレッションズの「ピープル・ゲット・レディ」のカバーで、旧友ロッド・スチュワートとの共演がMTVなどで話題になった。

エレクトロニカ、テクノロックサウンドに接近

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カナダ・バンクーバー公演 (2001年2月)
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ベック&タル・ウィルケンフェルド (2009年1月)
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ロジャー・テイラー、ベック&ジェイミー・モージズ (2013年5月)

1989年のアルバム『ギター・ショップ』は、グラミー賞の最優秀ロック・インストゥルメンタル賞を受賞。その後は、ビッグ・タウン・プレイボーイズとのコラボレーション作『クレイジー・レッグス』の発表や、「フランキーズ・ハウス」のサウンドトラック制作、セッション・プレイヤーとしての活動はあったものの、オリジナル・アルバムはしばらく発表しなかった。そして、10年の間隔を経て1999年に『フー・エルス!』をリリース。サイドギターにジェニファー・バトゥンを起用し、打ち込みを多用したテクノサウンドがメインのアルバムとなった。本アルバム発表に併せて来日ツアーを行う。

『フー・エルス!』のリリースの1年後、テクノロック路線をさらに押し進めた『ユー・ハッド・イット・カミング』をリリース。前年に引き続き来日ツアーを実施。来日時に久米宏がメインキャスターであった『ニュースステーション』にも生出演し、「ナディア」(オリジナルはニティン・ソウニー)を演奏している(ただし演奏は本番前に収録したものであった)。

さらに2003年、自身の名前を冠した『ジェフ』をリリース。プロ・ツールスを使用した大胆なドラムンベースを大幅に導入したアルバムとなった。

同年9月にロイヤル・アルバート・ホールでのデビュー40周年記念コンサートを行う。また同年インターネット上でのみ「オフィシャルブートレグ」というカタチで、ライヴ『Live at BB King Blues Club』を販売。この作品は2005年の来日に併せて『ライヴ・ベック!』のタイトルで一般発売されている。1977年以来のライヴ・アルバムとなり、「フリーウェイ・ジャム」や「スキャッターブレイン」といった往年の曲も収録されている。

2006年は世界ツアーを行い、日本ではウドー・ミュージック・フェスティバルに参加。会場で発売されていたライヴ盤が後に『ライヴ・ベック '06』として発売された。

2008年に3枚続けてのライヴアルバムである『ライヴ・ベック3〜ライヴ・アット・ロニー・スコッツ・クラブ』-Performing This Week... Live at Ronnie Scott'sを発売。2009年には、同じステージの様子を収録したDVD[注釈 5]も発売された。

2010年、久しぶりのスタジオレコーディングによるアルバム『エモーション・アンド・コモーション』を発表した。「テクノ三部作」と呼ばれた前三作とは違った穏やかな曲調が主体で、Joss StoneやImelda May,Olivia Safeの歌心が堪能できるアルバムである。2010年ワールドツアーのバンド・メンバーは、ソングライター・プロデューサーとしてグラミー賞を受賞したナラダ・マイケル・ウォルデン(ドラム)、ロンダ・スミス(ベース)、ジェイソン・レベロ(キーボード)が参加している[8]

2013年には、ザ・ビーチ・ボーイズブライアン・ウィルソンの北米ツアーに参加[9] 。また、現在製作中のブライアンの新作アルバムにも参加している[10]

2016年、デビュー50周年のアルバム『ラウド・ヘイラー』をリリースし[11]、翌年に記念の来日公演[12]

2019年のツアーのバンドメンバーは、ドラムがヴィニー・カリウタ、ベースがロンダ・スミス、ヴォーカルがジミー・ホール、そしてチェリストのヴァネッサ・フリーバーン=スミス[13]

2020年4月16日、ジョニー・デップとコラボしたジョン・レノンのカバー曲「孤独」をニュー・シングルとして公開。これが2人の継続的な音楽的コラボレーションの初リリースであることを明かした。このシングルがCOVID-19パンデミックのロックダウン期間中にリリースされたことに触れ、「ジョニーと僕はしばらく前から一緒に音楽に取り組んでて、この曲は去年スタジオにいた時にレコーディングしたんだ。こんなに早くリリースするとは思ってなかったんだけど、この困難な時代に人々が経験してるすべてのつらい日々と真の "孤独 "を考えると、今が皆さんに聴いてもらうのに良い時期かもしれないと判断したよ」と説明している[14][15]

死去

2023年、細菌性髄膜炎に罹患し、治療を行ったが1月10日に死去。訃報は公式Twitterにより家族から告知された[16][17]78歳没

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使用機材

要約
視点

ギター

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フェンダー・エスクワイヤー」 Beckモデル

ヤードバーズの在籍時及びその加入以前はフェンダーのテレキャスターエスクワイヤーを使用している。ジェフ・ベック・グループではギブソン・レスポールスタンダードが使用ギターに加わり、第2期ジェフ・ベック・グループの頃はフェンダー・ストラトキャスターも使用している[3]

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レスポールを弾くベック&イメルダ・メイ (2011年3月)

BBAからアルバム『ブロウ・バイ・ブロウ』の頃までは1954年製のギブソン・レスポール“オックスブラッド”[注釈 6]を主に使用していたが、同時に他のギターも並行して使っている(1975年8月に日本で開催されたワールド・ロック・フェスティバルではオープニングでストラトキャスターを使い、途中でレスポールに持ち代えている[3])。「哀しみの恋人達」では、セイモア・ダンカンが改造した、ギブソンハムバッカー・ピックアップを2基搭載したテレキャスター(通称「テレギブ」)、を使用していた。

1977年から1979年までの期間 (1978年の来日公演でも使用していた) 、シェクター製ラージ・ポールピース・シングルコイル・ピックアップ F500 、3Wayトグルスイッチを搭載した特製ピックガードを取り付けたホワイト・フィニッシュの60年代製フェンダー・ストラトキャスターをメインで使用した。

また1980年の来日公演のパンフレットにはローランドのGRギターシンセサイザーを使っている写真が掲載されている。

1985年のアルバム『フラッシュ』制作時期のごく短期間、スーパーストラトキャスター量産モデルの草分けであるジャクソン・ソロイストを使用していた。

2000年代は自分用にモディファイされたストラトキャスターをメインで使っており、2007年のステージを収録したビデオソフト[注釈 5]ではストラトキャスター主体で演奏していることが確認出来る。

フェンダー社からはシグネイチャーモデル(と少数のマスタービルダー、カスタムショップ製)が販売されている。

シグネイチャーモデルは2001年にアップデートされ、ピックアップがレースセンサーからベックモデル専用のカスタムワインドのセラミックノイズレス(ホット・ノイズレス)に、また、ストラトの歴史上もっとも太いといわれたネックがそれより薄い物に変更された。ジョイント部はヒールカットされ、指板はローズウッドが使われている。フレットは22フレット。ナットは初期にはウィルキンソン・ローラーナットが使われていたが、その後LSR製のローラーナットに変更された。ペグはシュパーゼル・ロッキングペグ、ブリッジは2点支持のシンクロナイズド・トレモロである。

ジェフの死去から2年後の2025年1月22日にロンドンのクリスティーズで『クリスティーズ ジェフ・ベック:ギターコレクション』と題したオークション・イベントが開催され、ジェフが所有していたギターやアンプ、機材など130点以上がオークションに出品された。それらの機材の中で先述のギブソン・レスポール“オックスブラッド”は106万8500ポンド(約2億600万円)、16年間にわたってベックがレコーディングやライヴでメイン・ギアとして長く愛用したフェンダーの白いストラトキャスター“アヌーシュカ”[注釈 7]は100万8000ポンド(約2億円)、ヤードバーズ時代に使用していた1959年製ギブソン・レスポール(別名“ヤードバースト”)は40万3200ポンド(約7800万円)で落札された[21]

アンプ/エフェクター

アンプはヤードバーズ加入当初はVOX社のAC30を使用していた。第1期ジェフ・ベック・グループではテレキャスターにマーシャル200ワットアンプ(Major 1968)と4つのスピーカー・キャビネットを組み合わせている。BBAではSUNNのコロシアム・アンプ・ユニット+ユニヴォックス社製スピーカーという組み合わせを使用していた[3]

第2期ジェフ・ベック・グループの「Short Business」や「Raines Park Blues」などではレスリースピーカーを使用してドップラー効果を得るといった試みがなされている[3]

エフェクターの使用状況は時代によって変動しているが、ワウペダルは全時代を通じてコンサート、スタジオ共に使用している。特定の曲での使用例では、『ライヴ・ワイアー』に収録された「シーズ・ア・ウーマン」や「フル・ムーン・ブギー」などでトーキング・モジュレーターが使用されている。また『ブロウ・バイ・ブロウ』収録の「Air Blower」ではオクターバー・ユニットが使用されている[3]

以前はプロコの「RAT」(ディストーション)を使っていたが、現在[いつ?]はハンドメイドのオーバードライブペダルを使用している。

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奏法

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オーストラリア・メルボルン公演 (2009年1月)

フレージングは、ブルースやロックンロールを元にしたペンタトニック・スケールが基本になっている。

1980年代以降は、フィンガー・ピッキングに移行する。アルバムでは1985年の『フラッシュ』以降になるが、1983年のアームズ・コンサート(ARMS Charity Concert)を収録したビデオ映像でも既にピックを使っていない[22]。近年[いつ?]のコンサートでは、「スキャッターブレイン」のテーマ部分でピックを使用して演奏している。ピックを使う場合はオルタネイト・ピッキングを主体としているが、その場合でも中指や薬指でのフィンガーピッキングを加えることがある[22]

ボリュームノブとトーンノブを頻繁に調整し、ピックアップの切り替えもよく行う。ボリューム奏法タッピング奏法も比較的多く用いている。 曲目によってはスライドギターで演奏することもある。

トレモロアームを多用する演奏スタイルであり(ストラトキャスターを使う一番の理由はトレモロアームがあるから、とベック自身が述べている[3])、右手でアームを包み込み、親指のみでのピッキングで演奏することが多い。ヴィブラートをかけるだけでなく、アームダウンやアームアップも交えて演奏する。瞬間的なアームアップによるクリケット奏法も織り交ぜる。アームを使わず、掌で直接ギターブリッジを振動させて、ヴィブラートをかけることも多い。

ハーモニクスを多用することでも知られる。

ヤードバーズに参加したばかりの頃は、マネージャーからの要請でエリック・クラプトンの奏法をそっくりそのまま真似ていたことがあった。

ブライアン・メイは、「ジェフ・ベックを聴く度に僕のギター観は根底から覆される。彼の方法ないし逸脱は、思いもよらぬものだ」と評している。

ディスコグラフィ

アルバム

第1期ジェフ・ベック・グループ

第2期ジェフ・ベック・グループ

ベック・ボガート・アンド・アピス

ジェフ・ベック

ジェフ・ベック&ジョニー・デップ

  • 『18』 - 18(2022年)
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来日公演

単独公演

フェス・アワード

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ウドー・ミュージック・フェスティバル (2006年7月)
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関連項目

脚注

参考文献

外部リンク

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