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日本のプロレスラー ウィキペディアから
齋藤 彰俊(さいとう あきとし、8月8日 - )は、日本の元男性プロレスラー。宮城県仙台市出身。プロレスリング・ノア所属。血液型B型。
水泳(平泳ぎ)が得意でジュニアオリンピック優勝(学童新記録)、仙台市立五橋中学校生時代に全国大会で2位の実績を残し、中京高校進学。松永光弘は同級生であった。この頃には極真会館で空手の鍛錬も積んでいた。中京大学進学後も水泳を続け、インターハイ、インカレ、国体、日本選手権で優勝し、ユニバーシアード、パンパシフィックの日本代表、オリンピックの強化選手にもなった。当時から長州力のファンで、パワーホールで選手入場したこともあったという。ソウルオリンピックの代表選考会は5着となり五輪出場を果たせず競泳を引退し、名古屋市のスポーツ関連団体に就職した[1]。
就職後もプロレスや空手への熱い思いは消えず、1989年のFMWの旗揚げ戦で空手の試合を行い、1990年12月20日、愛知県半田市民ホールにおけるパイオニア戦志の対金村ゆきひろ戦に興行主であった松永に誘われ出場しプロレスデビューを果たす。所属先のあてもないまま職場に辞表を出し、フリーの立場で小規模団体が主催する興行への出場を重ねた[1]。
1991年8月にW★INGの旗揚げに参加。徳田光輝、木村浩一郎とともに「格闘3兄弟」として活躍するが、ほどなく第一次W★INGは崩壊。その後、W★INGから分裂して旗揚げを準備していたWMAの所属となるが、一度も興行を行うことなく、団体が崩壊した。
1992年1月4日の新日本プロレス東京ドーム大会に誠心会館の門下生と徒党を組んで乗り込み、新日本プロレスに宣戦布告。セコンドを両者数十人が取り囲む異常な雰囲気の中1月30日小林邦昭にTKO勝ち、週刊プロレスの表紙を飾った。2月8日には小原道由に勝利した。小林との再戦では関節技にて敗れるも長州は小林との一戦を高く評価する。その後長州に認められ新日本プロレスに参戦。その後、青柳政司、小林、越中詩郎、木村健悟と反選手会同盟(後の平成維震軍)を結成するなど活躍。その後1998年に新日本プロレスを退団。一時リングから離れ、名古屋市にショットバー「ココナッツ・リゾート」を開店、小牧市に格闘技道場「ノーティ」を開設。共に現在はプロレス専念のため閉店している。PRIDEに参戦した石澤常光のセコンドについたこともあった。
2000年10月にプロレスリング・ノアから声がかかり、青柳とともに参戦、以降はフリーの立場で継続参戦する。反選手会同盟時代と同じスタイルを引き継いだ青柳とは対照的にコスチュームを含めた外見を大幅に一新し、技のレパートリーも増やすなど、独自のパーソナリティを確立した。その後秋山準に共鳴しスターネス入り。秋山の正パートナーとして2002年9月23日に力皇猛&森嶋猛組を破り、第5代GHCタッグ王座を獲得した。2004年7月にスターネスを離脱。井上雅央、杉浦貴らとともにダーク・エージェントを結成した。
ノアでは長らくフリーの立場だったが、スターネス時代にはノアのジャンパーを着てセコンドに付いたり、様々なイベントにも参加するなど、ほぼ所属選手と同じ行動をしていた。
2006年1月1日付で正式にノア所属選手となった。
2007年6月20日のZERO1-MAXに来場、7月からの火祭りに参戦。
2009年6月13日、広島県立総合体育館グリーンアリーナ(小アリーナ)で行われたGHCタッグ王座選手権試合で王者として試合中、挑戦者の三沢光晴に急角度[注釈 2]バックドロップをした際に、三沢が意識不明・心肺停止状態に陥って死亡するリング禍が発生した。結果として齋藤は三沢の最後の対戦相手となった[2]。死亡を聞かされた直後は一睡も出来ず引退も考えたが、6月14日の試合後、齋藤は三沢の遺影に向かって土下座し「どんな重い十字架でも背負う。リングに上がり続けることが社長への恩返し」として現役続行を決意した。事故後には多くのファンが「不幸な事故」「齋藤は悪くない」などと同情を寄せた一方、インターネットで一部のファンからは中傷を受けたが[3]、齋藤は「自分に言うことで気持ちが晴れるなら全部受ける。逃げることはしない」と語った。
事故の発端となったバックドロップについて「今は封印しているが、社長の心の声が聞こえる時が来たら解禁する」としたと述べて、しばらくはバックドロップを封印していたが、9月12日の後楽園ホールでの森嶋猛とのシングルマッチにおいて三沢に許しを乞うように天を仰いでから3か月ぶりにバックドロップを使用、続け様のランニング・スイクル・デスで勝利した。試合後、齋藤は「みなさんすみません。バックドロップ、使ってしまいました」と涙声でファンに謝罪した。
2011年12月、24日のノア興行が所属最後と明かし、2012年よりフリー契約となった[4]が、ノアへの参戦は継続している。2012年1月22日には、秋山とのタッグでジャイアント・バーナード&カール・アンダーソン組からGHCタッグ王座を奪取し、新日本プロレスに流出した王座を取り戻すことに成功した。
2014年6月13日、三沢光晴メモリアルナイトにて丸藤正道と一騎討ちを行い、試合後ノア再所属が決定した[5]。
三沢没後10年を前にした2019年6月12日、5月11日(愛知巡業)にLINE NEWSの取材に応じた内容が記事になった。事故の2年前、三沢は親しい友人に「もしも俺がリングの上で死ぬことがあったら、その時の相手に伝えてほしい」とメッセージを託していた。三沢の友人が書いた手紙には三沢のメッセージとして、「重荷を背負わせてしまってスマン」「きっとお前は俺のことを信頼して、全力で技をかけてくれたのだと思う」「それに俺は応えることができなかった。信頼を裏切る形になった。本当に申し訳ない」「それでも、お前にはプロレスを続けてほしい」「つらいかもしれないが、絶対に続けてほしい」と最後の試合相手が罪の意識に苛まれることを予見した内容で「お前が俺の最後の対戦相手になった『意味』みたいなものは、自分で考えていってほしい」という言葉で締め括られていた。齋藤は事故の数か月後にその手紙を受け取り[1]、不運にも事故の加害者になってしまった自身と同じ苦しみを味わっている人のため「もう一度立ち上がって頑張る姿を見せていきたい」と話している[6]。
2019年11月「反選手会同盟」を結成。
2020年2月24日、名古屋国際会議場にてデビュー30周年記念試合が行われた(vs拳王&マサ北宮&覇王&仁王。パートナーは越中詩郎&青柳政司&井上雅央)[7]。
2021年3月、敗者ユニット吸収マッチに敗れ、反選手会同盟がファンキーエクスプレスに吸収され、同ユニットに強制加入[8]。
2021年9月「N-1 VICTORY 2021」出場。
2024年3月31日、プロレスリングZERO1の「靖国神社奉納プロレス」にてクリス・ヴァイスを下し、初のシングル王座となる世界ヘビー級王座を戴冠[9]した。
2024年7月13日、日本武道館大会での世界ヘビー級選手権試合にて潮崎豪に敗れ王座陥落。その直後、引退を表明し[10]、11月17日の愛知県体育館大会での丸藤とのシングルマッチをもって引退した[11]。
死神の愛称を持つため、技の名前に死神の英訳である「デス」が多用されている。
各種蹴り技
ノアで毎年恒例となっているクリスマス興行などの特別大会では、大変な弾けっぷりで試合をしたり、余興を行ったりすることで有名。クリスマスGHC(Great Happy Christmas)王者を自称している。その年の流行語や話題の人物を模写したキャラクターが多い。
このように、通常の興行シリーズでは殺気を前面に出したファイトを心掛け、クリスマスのような特別興行ではひたすらエンタテインメントに徹して団体を盛り上げようとする姿勢を見せている。
広島グリーンアリーナ 観客数:509人 | |||||
第1試合 | 第2試合 | ||||
飯田美花 | vs |
下野佐和子 | 初代タイガーマスク 藤波辰爾 長州力 |
vs |
ザ・グレート・カブキ 青柳政司 藤原喜明 |
第3試合 | 第4試合 | ||||
GAMI コマンド・ボリショイ 広田さくら |
vs |
豊田真奈美 井上貴子 中島安里紗 |
曙 浜亮太 |
vs |
河野真幸 嵐 |
第5試合 | 第6試合 | ||||
鈴木みのる TAKAみちのく |
vs |
佐野巧真 田中稔 |
華名 桜花由美 |
vs |
栗原あゆみ AKINO |
第7試合 | 第8試合 | ||||
潮崎豪 鈴木鼓太郎 |
vs |
丸藤正道 モハメドヨネ |
斎藤彰俊 長井満也 |
vs |
大森隆男 相島勇人 |
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