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19世紀末のイギリスで創設された西洋魔術結社 ウィキペディアから
黄金の夜明け団(おうごんのよあけだん)、正式名称 黄金の夜明けヘルメス教団[1](英語: Hermetic Order of the Golden Dawn)は、19世紀末のイギリスで創設された西洋魔術結社、儀式魔術を実践する秘密結社で、典型的な秘教主義教団である[2][3]。中流階級の男女による近代オカルティズムの小グループである[3][4]。通称Golden Dawn。黄金の暁教団[5]、黄金の暁会とも訳され、G.D.と略名される。
黄金の夜明け団は、19世紀末のイギリス、安価な印刷物の魔術書が世界中に出回るようになったヴィクトリア朝時代の1888年にロンドンに設立された近代的な魔術結社で[3][4][6]、近現代の西洋魔術の思想信仰と実践に強い影響を与えた[7]。独自の象徴主義がロマン主義以降の空気と共鳴し、もしくは科学的な客観性を重視する世相に逆らい、中産階級の参加者を集め、詩人・劇作家のイェイツ等の同時代の芸術家たちも惹きつけられた[3]。人気と影響力は1890年代にピークに達し、その後内紛により消滅した[8]。完全な形で運営されたのは12年に過ぎない[9]。
彼らが作った魔術理論と実践の詳細な体系は、団員が位階を昇りながら受ける教育の中で発達したもので、その魔術理論は体系的で完成していた[9]。以降のほぼすべての魔術結社、アデプトを目指す人々を教育するというグループは、黄金の夜明け団をルーツと考え、その魔術理論と実践の体系を利用している[9]。
教団は小規模で、100人以下の時もあり、400名を超えることはなかった[12]、団員は主に中産階級で、俳優、芸術家、聖職者、医師、政治活動家、作家など様々な職業の人々がいた[8]。教団と派生団体には著名人も所属していた[12]。
ダルトン極小期の寒冷化が1830年頃に収束して温暖化に転じたことで、1840年代後半には食料危機の状況が解決し、1870年代にかけて30年間、産業革命の時代、高度成長の時代にあり、イギリスは「世界の工場」として繁栄を謳歌し、資本主義のもとで産業構造が大きく変化し劇的に都市化が進んだ[19][20]。しかし、1873年から1893年の20年間は寒冷化し(低体温症でロンドンで数百名が死亡したほどだった)、またアメリカやドイツといった新興工業国の猛烈な追い上げにあい、輸出は低迷、イギリスは1970年代から長期の経済恐慌となり、それまでの資本主義における自由放任主義経済への確信、無限の成長と富の蓄積の幻想は崩れ、都市には失業者があふれ、新しい社会を構築しようとする革命的運動が次々と生まれた[19][20]。
多くのヴィクトリア朝の人々は本質的に、科学によって与えられた乾いた唯物論や合理主義、マックス・ウェーバーがプロテスタンティズム、合理主義、科学、資本主義の台頭の中に見出した「世界への幻滅」以上の何かへの信仰を求め、必要としており、 オカルトがそれに応える形になった[16]。 薔薇十字団、ユダヤ神秘主義のカバラ思想、ヘルメス思想や、アジアの仏教やヒンズー教等は、オカルト思想としてキリスト教の代わりに、あるいは西洋文明から逃避したい人々の避難所となっていた[21]。
教団での実践の男女平等は、当時かなり進歩的な姿勢であったが、ヘレナ・P・ブラヴァツキーの神智学と同様である[8]。メイザースが、神智学徒だったアンナ・キングスフォードとパートナーのエドワード・メイトランドの影響を受け、教団内の立場の男女平等を強く主張し実現した[33]。団員の多くは男性だったが、「ニュー・ウーマン」と呼ばれる型破りな女性の比率が高く[13]、教団の勢いは主に、男女平等により集まった女性達の努力によるものだった[8]。
当時の西洋は世俗化が進み、科学的な自然観が普及していった時代であり、メイザースら創設者たちは、新たな体系を一から作るのではなく、複数の伝統を(団員だった詩人のイェイツの言葉を借りれば)「綜合(synthesize)」し、近代的な魔術体系を作り上げ、自分たちの教義に正統性を与えようとした[3][6]。この過程をイェイツは「伝統の発明(the invention of tradition)」と呼んでいる[3]。19世紀半ばには、創設者たちが所属していたメイソン薔薇十字の中には、エジプト魔術や東洋哲学の要素が加わっており、黄金の夜明け団の教義は、カバラやフリーメイソン、薔薇十字、エジプト魔術、東洋哲学、グリモワール(魔術書)など秘教のそれぞれの伝統に依拠しながらも、それらを近代的な解釈のもとに綜合し、新たな象徴体系として構築するというものであった[3]。教義は秘教的な象徴主義に満ちており、カバラの思想を中心に、様々な要素が「綜合」され、独自の体系が形成されている[3]。
このような綜合的な象徴体系の成立には、「魔術的および錬金術的伝統、タロー(タロット)解釈、それにほとんど知らないヘブル・カバラをロマン主義化した」フランスの魔術作家エリファス・レヴィの影響が強く見られる[3]。
英国王立芸術大学のジェームス・マシンは、団員だったイギリスのホラー小説・超自然的フィクションの小説家アーサー・マッケンが、同団の思想が最近生み出されたものである証拠として、明らかに近代的なシンクレティズムが見られることを特に指摘したことを挙げている[34]。近代的なシンクレティズムは1880年代以降の考え方そのものであり、古代はもちろん、19世紀初頭にも存在しないという[34]。
ライヤーソン大学のデニス・デニソフは、同団の興隆において最も興味深いのは、「その秘密ではなく、団員含む多くのヴィクトリア朝人が、カジュアルな気軽さともいえる心構えで、教団とその関心を自身の人生に取り入れていたことである。」と評している[8]。
すべての文化的、霊的・精神的成長を担うごく少数のエリートが存在するというニーチェのアイデアを受け入れており、公然とエリート主義組織だった[12]。団員になるということは、霊的な進化におけるエリートの一員になることだった[12]。アレイスター・クロウリーの弟子で、後に黄金の夜明けの魔術に関する一般的な解説書を著したイスラエル・リガルディーは晩年、黄金の夜明け団はエリート主義的なシステムだと言え、団員は全盛期でもイングランドでせいぜい250人程度だったろうが、教団は進化を自らの手で行おうとする少数の人々のためのものだったと述べている[12]。
この秘密のエリート組織は、神智学協会と同様、特に富裕層と教養ある中産階級にアピールした[12]。アレックス・オーウェンは、オカルト組織は「紳士の会員制クラブを思わせる、明らかにブルジョア的な雰囲気があった。オカルトは特に、クロウリーやイェイツ、あるいは自らを「グレンストレ伯爵」と呼んだメイザースのような、貴族気取りで肩書きや格式を好む中流階級の俗物たちにアピールした。」と書いており[12]、一時入団したモード・ゴンは団員を「英国中産階級の愚鈍のエッセンス(very essence of middle-class dullness)」と評した[35][8]。オカルティストたちは権力、正確には政治的権力ではなく(政治的権力と関わる者もいたが)、宇宙的権力(cosmic power)に興味を持っていた[16]。
ジュールス・エヴァンスは、進化論的スピリチュアリティの集団的ナルシシズムへの傾向は、階級的な特権意識と重なると述べ、黄金の夜明け団、神智学協会、心霊研究協会のような大戦前のスピリチュアル・ムーブメントは、上流階級や中流階級の裕福で教養のある信奉者を引きつける傾向があり、彼らは自分たちを、都市の労働者階級よりも進化した存在とみなす傾向があったと指摘している[36]。大戦後のヒューマン・ポテンシャル運動にも、スピリチュアルなナルシシズムと階級的な特権意識という同様の傾向が見られるという[36]。
同団の「魔術活動の偉大な目的」は、「人間と神性の一致」であり、魔術が最終的に為そうとしたことは、人間を、あるいは少なくとも一部の人間を神に変容させることだった[16]。19世紀末から20世紀初頭にかけてのスピリチュアル・ムーブメントは、進化したエリートと、そのはるか下にいる隷属的な大衆という、自然界における精神的・生物学的なヒエラルキーという見解を共有しており、団員の多くはこの見解を持っていた[36]。1880年代から1920年代当時には、人類が集合的に神性(超人)へと移行する、輝かしい新時代の幕開けへの期待が見られ、同団は、自分たちがこの人類進化の助産師であり、「(神性という)未知の地へ橋を架ける技術者」であると信じていた[12]。
ジュールス・エヴァンスは、黄金の夜明け団で性魔術が行われていたと考えており、この団の使命の中心は、信奉者たちが性魔術を使って、人類という種のために上級の魂を子孫に注ぎ込むことだったと述べている[12]。人間の本性を(黄金に喩えられる)神性に変換することを目指す錬金術のような「人間を神聖な状態にまで『霊的』に高める」、「『完璧な人間」を創造する」という試みは、遅かれ早かれセックスに関わるものであるが、同団はフリーメーソンと異なり女性の参入を認めており、アレクシス・オーウェンは、指導者の一部の人が性魔術を密かに実践していた可能性を示している[16]。教団は、占星術師アラン・レオの『A Thousand and One Notable Nativities:The Astrologer’s “Who’s Who”(非常に多くの名士の誕生時の天宮図: 占星術名士録』という本を推奨しており、これは優秀な子どもを生むために最良の占星術的条件について書かれた、オカルト優生学的なガイド本だった[12]。
アレイスター・クロウリー、ウィリアム・バトラー・イェイツ、フロレンス・ファー、イザベル・ド・スタイガー、ダイアン・フォーチュン、アルジャーノン・ブラックウッドなど、同団または後続団体のメンバーの多くは、強弱はあれど何らかの形で優生学を支持した[12]。
霊的・精神的で魔術的な啓蒙という創設目的にもかかわらず、教団は内部対立に悩まされた[6]。教団内での位階が高いアデプトは皆強い独立心を持つ傾向があり、そのためアデプトが増えると必然的に、教団内では対立が起こった[2]。団内の諍いの積み重ねと、教団がスキャンダルに巻き込まれ社会的面目を失ったこと等から分裂し、黄金の夜明け団という組織自体は終了した[33]
黄金の夜明け団の創設は、フリーメイソン系の神秘主義サロンである英国薔薇十字協会[注 7]の会員ウィリアム・ウィン・ウェストコットが、1887年8月に牧師のA・F・A・ウッドフォードをから譲り受けた60枚の暗号で書かれた紙片(暗号文書)を発見し、彼はその暗号が『ポリグラフィア』でトリテミウスが示した錬金術文書のようなものだろうと見抜いた[41]。ウッドフォードは、文書はエリファス・レヴィの手を経ていると主張したが、文章入手の経緯についてウェストコットが述べたことはほとんど嘘である[41]。
文書は筆者不明の魔術結社設立に向けた原案メモであり、『ポリグラフィア』に由来する換字式暗号で綴られていたという[42]。ウェストコットが解読すると、魔術教団(Order)の階級儀式と、ヘルメス主義的カバラ、占星術、オカルト・タロット、ジオマンシー、錬金術を含むカリキュラムの概要が記されていたという[6]。「カバラにおける『生命の樹』とタロットとの関係」が書かれており、この文章が黄金の夜明け団の設立の契機、思想実践のベースとなったと言われている[3]。(生命の樹とタロットの関係に最初に言及したのはレヴィである[3]。)
ウェストコットは教団設立の正当性を主張するために、次のように話を作った。同年9月に全文の復号に成功した彼は、文書の中にドイツ在住のアンナ・シュプレンゲルという人物の住所を見つけ、同時に返信を望んでいる一文も確認したという。シュプレンゲルと書簡連絡を取るようになったウェストコットは、彼女を伝説の薔薇十字団の教義を継承する偉大な魔術師であると認め、秘密の首領と仰ぐようになった。かねてより独自のオカルト団体を作りたいと考えていたウェストコットは、シュプレンゲルとの手紙のやり取りの中でその意志を伝えると、彼女が所属するというドイツの薔薇十字系魔術結社 Die goldene Dämmerung (黄金の夜明け)が公認する支部設立の許可を受け取ることになり、同時にその教義は暗号文書の記載内容に則ったものと定められた。ウェストコットはこの秘密の首領のお墨付きを元に、弟子[8]のマグレガー・メイザースと英国薔薇十字協会の会長であった年長者ウィリアム・ロバート・ウッドマンを共同創立者にして、1888年3月1日に神殿(テンプル)[注 8]と称する魔術結社の運営施設イシス・ウラニア神殿をロンドンに開いた。
これが黄金の夜明け団の発足であり、ドイツ薔薇十字団の流れを汲むものとされた。この創立譚はあくまで神話である。実際の起源とは関係なく、暗号文書は黄金の夜明け団の儀式および象徴の構造の基礎となっている[8]。
暗号文章の由来と信憑性には当時から疑いの目が向けられており[8]、団員だったアーサー・マッケンは、中世の薔薇十字団と秘密の首領たちによる暗号写本が教団の輝かしいルーツであるという話には、「そこには一片の真実もなかった」と断言している[34]。前述の暗号文書はウェストコットの偽造ではないと考えられているが、現代の研究者は入手経路に関するウェストコットの主張を額面通り受けとっていない[46]。古書ディーラーで魔術・秘教組織の歴史の権威ロバート・ギルバートによると、この暗号文書は、ウェストコットの仲間でフリーメイソン的薔薇十字思想家のケネス・マッケンジーが書いた文章の中にあったもので、儀式の概要が暗号文で書かれていた[17]。(ロバート・ギルバートは、ケネス・マッケンジーはウォルター・サヴェージ・ランダーの友人で翻訳者としてある程度有名な人物で、教団結成の10年も前の著作『ロイヤル・メイソン百科事典(Royal Masonic Cyclopaedia)』(1877年)に、教団で使われた等級と象徴を掲載していたことを指摘している[8]。)暗号は簡単に解読できたため、ウェストコットはウッドマンとメイザースの助けを得て、この概要を基に実際に行える儀式の形に発展させた[17]。団員だったアーサー・エドワード・ウェイトは、暗号文章の年代を説得力を持って1870年から1880年と同定しており、マッケンジーが著者であるという説を裏付けている[8]。オカルト小説『ザノーニ』 (1842年)で団員から賞賛されていた作家のエドワード・ブルワー=リットンが犯人ではないかという意見もある[8]。大英博物館でトリテミウス暗号の実例を容易に見ることができ、この文章はロンドンで偽造された可能性がある[8]。
「アンナ・シュプレンゲル」は架空のドイツ人アデプトで、文通はウェストコットを権威付けるための捏造、おそらく彼自身によるものであろうと考えられている[47][40][17]。ロバート・ギルバートは、アンナ・シュプレンゲルの団員名(モットー)「Sapiens dominabitur Astris(賢者は星々を支配するであろう)」は、1888年に亡くなったアンナ・キングスフォード[注 9]が編集し1647年に復刊したヴァレンティン・ヴァイゲルの『理論化された占星術』のタイトル・ページにあることを指摘し、シュプレンゲルはアンナ・キングスフォードがモデルであるかのもしれないと推測している[48]。ライヤーソン大学のデニス・デニソフは、男性だけのフリーメイソンの会員である創設者3人が、架空の上司に女性を選んだだけでなく、教団の象徴的な中心の体現として二柱の女神(エジプトの魔術と自然の女神イシスとギリシャの天文の女神ウラニア)を選んだことは興味深いと述べている[8]。ヘレナ・P・ブラヴァツキーの最初の著作は『ヴェールを脱いだイシス』(1877年)で、本書の成功で女神イシスはヴィクトリア朝の異教リバイバルの中心的存在となっており、最初の神殿がイシスに捧げられたことは、教団をブラヴァツキーの神智学に結び付けた[14]。またウラニアは、ジョン・ミルトンが『失楽園』で古典的な異教の女神として描いており、ミュリエル・ペカスタン=ボワシエールは、教団のイシスとウラニアの採用には、ヴィクトリア朝のキリスト教の家父長制から脱却したいという願望があったとみている[14]。
手紙の捏造の事実をメイザースは設立当時知らなかったかもしれないが、後には間違いなく知っていた[49]。団員達は全く疑っておらず、自分たちは、クリスチャン・ローゼンクロイツが設立した同胞団から続く、ドイツで栄えた秘密の薔薇十字団を継ぐ者で、黄金の夜明け団はそのイギリス支部だと信じ、ローゼンクロイツの実在と、彼が東方への神秘的な旅で得た叡智の継承者であるという伝説を信じ、モーセもイニシエーションを受けた千年も遡る古い秘儀伝統を受け継いでおり、自分たちが受け取る知識・儀礼は、古代の資料に基づいていると確信していた[49]。ウェストコットは入団者に、最近のアデプトとしてエリファス・レヴィを挙げ、こうした手の込んだ捏造の歴史を真実として教えていた[49]。
ウェストコットが運営面を担当し、メイザースは教義面を担当した。冒頭の英国薔薇十字協会の会長でもあるウッドマンは権威付けのための名義貸しのようなものであった。教団は最初からウェストコットとメイザースの二人で運営され、二人は単独では特に傑出した人間というわけではなかったが、二人の優れたチームワークは卓越した結果を生んだ[1]。 三人は同時にアデプトとなり団体の首領 (ruling chief) となった。英国薔薇十字協会はキリスト教神学の一種であるキリスト教秘儀派のサロンであり、在籍者はフリーメイソンに限られていた。黄金の夜明け団は事実上その分派であったが、一般人でも入団できたことから組織的な繋がりはなく、また教義上の系譜も否定された。
1888年3月1日に最初の運営施設となる「イシス・ウラニア神殿」が英国ロンドンに開かれた。続けて年内にサマセット州のウェストン・スーパーメア区に「オシリス神殿」が、ウェストヨークシャー州のブラッドフォード市にも「ホルス神殿」が開設された。さらに主要団員でホラー作家[8]のジョン・ウィリアム・ブロディ=イネスがスコットランドのエディンバラに「アメン・ラー神殿」を設立した。1892年にメイザースはロンドンを離れてフランスのパリに移住し、そこで「アハトル神殿」を立ち上げた。またアメリカからの参入者も増えたので[要出典]、1900年までに「トート・ヘルメス神殿」など複数の支部がアメリカに設置された[50]。こちらでは物好きな米国人のための[51]位階売買が行なわれてメイザースの収入源になっていたという[52]。
フリーメイソン限定であった英国薔薇十字協会と異なり、ウェストコットの意向で黄金の夜明け団は一般人にも門戸が開かれていた。またメイザースは、アンナ・キングスフォードと彼女のパートナーのエドワード・メイトランドの影響を受け、教団内の立場の男女平等を強硬に主張、ウェストコットは反対したが、メイザースが参加を拒否したため受け入れた[33][8]。メイソン系とは一線を画して団内は男女平等となり、また補職と待遇に性差での区別を付けなかった。
団員は紹介や推薦、口コミや、神智学雑誌「ルシファー」[8]やメイソン系機関紙に掲載された募集によって集められ、また大英博物館周辺などでこれはと思った人物を勧誘することもあった。その際はフリーメイソンと英国薔薇十字協会のブランドが利用され、さらに興味を引いた人間には薔薇十字団の名も持ち出された。1888年3月に、ミナ・ベルクソン(のちメイザースと結婚しケルト風のモイナに改名)を含めた4名がイニシエーションを受けて最初の新団員となった[53]。初期の参入者は他に、オスカー・ワイルド夫人のコンスタンス・メアリー・ワイルド[注 10]、詩人でアイルランドのケルト復興運動・演劇運動を主導したウィリアム・バトラー・イェイツ(のちノーベル文学賞受賞)らがいる[5]。こうして設立から2年の間に文化人、知識人、中産階級を中心にして100名以上が加入した。1890年6月にミナ・ベルクソンの親友で、資産家であり、演劇への多大な貢献で名を残したアニー・ホーニマンが入団した[54]。ホーニマンはミナ・ベルクソンの美術の才能を高く評価し、その才能を後押ししたいと考えており、彼女がメイザースと婚約すると、父親を説得して、私設のホーニマン博物館のポストを収入の当てのないメイザースに用意し、二人のために住居も与えた[55]。この助けのおかげで、二人は1890年に6月に結婚し、モイナは夫に熱心に尽くし続け、彼の死後もその教えの忠実な支持者だった[53]。
1890年秋の時点で100名以上のメンバーが在籍していた。団員には既出のメンバー含め、女優・音楽家・演出家のフロレンス・ファー、アイルランド独立運動の闘士で女優のモード・ゴン[注 11]、当時のイギリスの二大ファンタジー作家アーサー・マッケンとアルジャーノン・ブラックウッド[16]、詩人でスコットランドのケルト復興運動を率いたウィリアム・シャープ(覆面作家のフィオナ・マクラウド)、物理学者ウィリアム・クルックス、といった当時の著名な文化人、知識人が短期間の在籍を含めて名を連ねていた。隠秘学方面の人物としては著述家のアーサー・エドワード・ウェイト、魔術師アレイスター・クロウリー、ウェイト版タロットを描いた画家パメラ・コールマン・スミスなどがいた。1897年の年末までに、331人の男女(男女比はおよそ3:2)が加入儀礼を受けたが、うち25%は退団した[56]。
1891年、ウェストコットは秘密の首領であるシュプレンゲルからの連絡が途絶えたと公表し、団体運営は新たな節目を迎えた。これはより自由なスタイルで今後の教義と活動の幅を広げようとする意思表示でもあった。同年末に高齢の首領ウッドマンが死去した。
メイザースは教団のための儀式を作る仕事に取りかかり、ジョン・ディーとエドワード・ケリーのエノキアン魔術を作り直した[33]。妻のモイナには超能力があったと言われ、2人はチームとして協力し[注 12]、彼女は透視を行い、内なる霊と交信した[33]。
メイザースはアニー・ホーニマンの助けで得たホーニマン博物館のポストを、議論好きが災いして失った[33]。ホーニマンはモイナが夫の要求に邪魔されずにパリで芸術の才能を発揮するべきだと説得し、資金援助をしたが、モイナはメイザースと共に1892年にロンドンを離れてパリに移り、二人はホーニマンの金銭的支援に頼って暮らした[33][57]。メイザースはパリで新たな秘密の首領との接触に成功したと発表。ウェストコットは驚いたようで、この辺から団内のぎくしゃくが始まったと見られている。ウェストコットは対立を避けてこれに同調し、以後の教義はメイザースが全面的に作成することになった。メイザースは1894年にパリにロッジを設立[33]。エジプトの宗教を復活させることに熱心で、彼とモイナはイシスの儀式とエジプトの礼拝を行い、収入を得るためにそれを劇場で上演することもあった[33]。
メイザースは権力を持ったことで傲慢で専制的な態度を増していった[58]。ホーニマンは、パリでのメイザースの深酒、浪費癖、度重なる金の要求に苛立つようになり、またその教えに不純なものが混じり始めたと感じ、彼が教団の仕事をないがしろにしてケルト復興運動に関わり、スチュワート朝をイギリス王位に復活させよう目論むジャコバイトの主張を応援する夢想家たちの仲間に加わったり、独立スコットランド王制を打ち立てることを議論したり、ビザンチンの「皇帝」等の王位僭称者たちと親しく付き合うなど、空想的な政治活動に没頭することに悩まされた[58]。ホーニマンが手紙で懸念を伝えると、メイザース夫妻は冷酷で侮辱的な返事をし、ホーニマンが二人への援助の支払いを年300ポンドを年4回に分けて払うと明確化すると、メイザース夫妻はルールは受け入れるがすぐに最初の支払いを行うよう懇願[58]。両者の間には不快な応酬が続き、ホーニマンは1896年6月にメイザース夫妻に、次月の支払いで支援を取りやめることを伝えた[58]。
メイザースは7月に、2人の上位メンバーに対し13項目の告発を行ったが、そのうち11項目はホーニマンに対するもので、彼女はイシス=ウラニア神殿の副プラエモンストラトリックス(導き手)の役職を辞任した[58][59]。自身の権威の弱体化を懸念したメイザースはさらに、秘密の首領の唯一の連絡相手に選ばれたと主張し、上位階級全員に「自発的服従」の表明文への署名を求め、ウェストコットとホーニマンを含む全員がこれに応じたが、メイザースはホーニマンに変わらぬ「不快感」を示し、「教団における私の地位を突き崩そうとするだけでなく、貧窮に陥らせるなど、貴方が持つあらゆる手段を用いて私を痛めつけている」と責め、またウェストコットに対しても自分を故意に傀儡の位置に貶めようとしていると批判している[60]。ホーニマンはモイナからさらに送金を求められたが応じず、メイザースはウェストコットに相談することなく、ホーニマンを第一団、第二団両方から追放した[61]。彼女はメイザースと交わした手紙の写しをウェストコットに送り、彼は「ぞっとした」と述べ彼女への同情を伝えたが、専制君主と化していたメイザースに対し自分ができることはないと認めた[61]。ホーニマンは団の教えと儀礼に忠誠を尽くす活発な上位団員で、資産家で気前が良かったが、通常自分の援助が人に知られないよう念入りに隠し(援助された当人にすら知らせないこともあった)、メイザース夫妻への援助を周囲のほぼ誰も知らなかったが、1896年末までにウィリアム・ペックと教団の他のメンバーに自身が行った財政援助の詳細を知らせた[61][59]。メイザースとのシンパのアラン・ベネットとエドワード・ウィリアム・ベリッジ以外のロンドンの団員はひどく憤り、ホーニマンを追放して自分の権威を増そうというメイザースの試みは逆効果であった[61]。この傲慢な行いに、教団内には不満がくすぶるようになる[62]。フレデリック・リー・ガードナーはホーニマンの復権を求める嘆願書を作り、大半のメンバーが署名し、メイザースに送られた[61]。
1897年頃にウェストコットは、突然首領職を辞して団体運営から手を引いた(脱退はしなかった)。ガードナー宛の手紙によると、「魔力を持つ人間として振る舞ってきた」協会の幹部であることを上司に知られてしまったことが理由で、ウェストコットは誰かにリークされたのだとほのめかしている[63]。ロバート・ギルバートは、これは偽りの理由で、メイザースから、教団設立時の捏造の決定的証拠の暴露されたくなければ辞任するよう要求されたのだと推測している[63]。
こうしてパリ在住のメイザースが唯一の首領になり、ロンドンのイシス・ウラニア神殿の運営をフロレンス・ファーにまかせてイギリス側の代表とする新体制を発足させた[64]。同時に教団内に、招待された人だけが参加し一緒に魔術的な作業を行う秘密のグループを作ることが認められ、ウェストコットや、メイザースによってイシス=ウラニア神殿のインペラトルのポストから外されたブロディ=イネスは、失った権威を埋め合わせるように自分のグループを作った[64]。1895年末にファーは大英博物館でエジプト人のアデプトと接触したと公言し、メイザース以外に秘密の首領と交流があると主張した最初の団員となっており、彼女のグループ「スフィア(球)」は教団の中で重要な存在となっていった[64]。
ファーはメイザースの財政的困難のために、第二団のメンバーに彼のために寄付を募った[63]。メイザースは変わらず独断的な行動を続け、団員たちの反感を買い続け[63]、パリのメイザースとロンドンの団員たちの関係は悪化した[65]。
1899年、イシス・ウラニア神殿は、同性愛スキャンダル[注 13]で悪名高く、団内の不評を買っていたクロウリーのアデプト昇格を拒否し、これに反発したクロウリーがパリにいる首領メイザースを頼ったことで新たな波乱が巻き起こった。1900年1月16日にメイザースは自身に反抗的なロンドン側への当てつけも兼ねて、パリのアハトル神殿でクロウリーをアデプトに昇格させた。ロンドンに帰還したクロウリーは、ファーたちにメイザースの昇格決定に従うよう要求したが、ファーは断固拒絶し問題が収束するまでのイシス・ウラニア神殿の閉鎖とイギリス代表辞任の意思を表明した。対立が続く中でパリのメイザースは、ファーたちの背後でウェストコットが糸を引いていると疑心暗鬼に駆られるようになり、彼の信用を落とせばロンドン側を切り崩せると考えて、2月16日付けの返信内で秘密の首領シュプレンゲルの書簡はウェストコットの捏造であったと唐突に暴露した。これによって団内全体が紛糾することになった。ファーたちはウェストコットの回答も得た上で事態収拾の会合を繰り返し開き、3月3日にメイザースに対して捏造とする証拠の提示を求めた。この予想外の反応に困惑したメイザースは拒否という態度を取った。調停は決裂し、3月23日にパリのメイザースはファーの解任指示を出したが、逆に29日のロンドンの会議で首領メイザースの追放が決定された。
翌4月にメイザースは教団の支配権回復のために、クロウリーをロンドンに送り込んだ[65]。イシス・ウラニア神殿の保管庫にある重要文書と儀式道具をクロウリーに押収させ、運営不能にするという強硬手段に出たが、建物に押し入ったところで警察に通報されて失敗した(保管庫の所在地からブライスロードの戦いと呼ばれた)。クロウリーに対抗するためにウィリアム・バトラー・イェイツが教団運営に関わるようになり、彼は再度の侵入を警戒して建物に立てこもり、チャールズ・ラッセルに弁護を依頼し、クロウリーを告訴し勝訴した[65]。クロウリーは1900年に短期間で教団を追放された[65][2]。
ブライスロードの事件で黄金の夜明け団の確執と亀裂は修復不可能になった。ファーたちはメイザースを支持するエドワード・ウィリアム・ベリッジ一派の除名も決定し、追い出されたベリッジらはロンドンの別住所に同名の神殿を開設したのでイシス・ウラニア神殿は二つに分裂した。この内紛を傍観していたホルス神殿とオシリス神殿はそのままメイザースの下に残ったが、双方ともメンバーは少数であった。ブロディ=イネス運営のアメン・ラー神殿はファーたちに合流した。アメリカにある複数の神殿はメイザースとのコネクションを維持した。こうして1900年4月の時点で黄金の夜明け団は、メイザース派とファー派に二分されることになった。
ウィリアム・バトラー・イェイツがホーニマンの復帰を求め、1900年4月に総会の投票で復帰が決まり、メイザースはすでに首領としては認められないこと、彼との関係を断つことが宣言され、教団の運営は選出された執行議会が行うことになった[67]。執行議会はE・A・ハンターが監査、フローレンス・ファーが議長、アニー・ホーニマンが書記、インストラクターとしてイェイツら7名が選ばれ、イシス=ウラニア神殿のチーフたちと儀式主催者も加えられた[67]。ベリッジの指示を受けたスコット夫人はホーニマンを脅迫し、匿名で彼女の父に娘が魔術結社に所属していることを告げ口したが、ホーニマンは敢然と対抗し、弁護士から誹謗中傷を止めるよう手紙を送らせた[68]。
ファーはどんな規範もあまり尊重しない性格で、ホーニマンは自分が不在中のファーによる教団の記録の扱いがぞんざいで、試験システムがいい加減になったことに憤り、記録を正確にし規律を復活させようと努力してファーを苛立たせ、また教団内の秘密のグループの存在に驚いた[69][70]。ホーニマンはファーのスフィア・グループへの対抗キャンペーンを始め、イェイツは最初ホーニマンが正しいと思えなかったが、規律の問題もグループの問題も、調べてみるとホーニマンに理があると思い、ホーニマンの強力な同調者となった[69]。イェイツにとって、ファーは古い友人で、彼が主導するアイルランド演劇運動の仲間であり、一方ホーニマンには、次の劇場の支援者としてひそかに期待を寄せているという、複雑で微妙な関係でもあった[71]。執行議会は秘密グループのメンバーが多数を占めており、会議の前からホーニマンへの攻撃が計画され、彼女に対し選挙での不正を画策していると侮辱し、会議で秘密グループは合法化され、ファーは権力争いに勝利[72]。イェイツはファーが議長として行った数々の違反行為を批判し、これに対しファーたちは会議の多数派としてイェイツとホーニマンを批判し、試験制度や階級の重要性を否定[72]。1901年にホーニマンとイェイツは執行議会を辞任、イェイツはパンフレットを印刷して、会議多数派のやり方は教団を単なる実験と調査のための団体に堕落させ、個人がそれぞれ力と知識を求めるだけの「秘密のグループの溜まり場」になってしまうと訴え、教団運営から手を引いた[71][72]。
トラブルは続き、ホロス夫妻を名乗る怪しいアメリカ人が教団に入り込んだ[71][12]。彼らは偽霊媒師のオカルト詐欺師で、妻のアン・オデリア・ディス・デバールは伝説のアデプトのアンナ・シュプレンゲルを名乗り、メイザースに信じさせることに成功した[73]。悪用のためにメイザースから教団の儀式の資料を入手するとイギリスに逃亡し、独自のオカルト団体を設立[33][74]。多くの若い女性を入団させたが、入団式は明らかに黄金の夜明け団的なもので、宣誓書では同団に言及されていた[73]。ホロス夫妻は彼女たちに財産を捧げさせ、夫はキリストの再臨を名乗り、神の子を産むとして彼女たちをレイプした[73]。1901年12月に、入団の儀式で16歳の少女をレイプした罪で彼らは告訴され[71]、裁判ではホロス夫妻が所持していた教団の入団儀式の秘密文書の写しが公表され、イニシエーション儀礼が読み上げられた[8][75]。マスコミはこの事件を、黄金の夜明け団の名称と共にスキャンダラスに報道し、教団の名は汚名にまみれた[71]。
メイザースとイギリスの神殿との対立、イギリス人メンバー同士の分裂も重なり、裁判での教団の悪評、公衆からの嘲笑が、すでに亀裂の入っていた教団への打撃となり、多くのメンバーが結社を脱退、黄金の夜明け団はいくつかのグループに分裂した[33]。
1902年1月にファーとその一派は脱退し、これにより秘密のグループは解体し、秘密のグループを推進する動きも崩壊した[75]。社会的体面を重んじるファー派は「暁の星」を作り、ブロディ=イネスとロバート・ウィリアム・フェルキンが代表になった。ファー自身は神智学協会に加入し、エジプト式儀礼を含む儀礼を組織し、アーサー・エドワード・ウェイトをそこに加入させている[76]。ブロディ=イネスはエディンバラにあるアメン・ラー神殿を運営し、フェルキンはロンドンのイシス・ウラニア神殿を運営した。教団の運営はホーニマンとイェイツが訴えた見解と一致したものとなり、ホーニマンは一時教団に留まり、自分が受けた侮辱を回復しようと聴聞会を要求し、スフィア・グループへの詳細な告発を行い、第二団が指名した新しい3人の首領も彼女の側に立ったが、彼女は1903年2月に脱退した[77]。ホーニマンは占星術への信仰や教団の体系に従ったタロットリーディングを続けたが、アイルランドとイングランドの演劇の事業に人生を捧げ、多大な貢献をした[77][注 14]。アイルランドのアベイ座設立のためのイェイツへの支援の決断には、タロットリーディングが影響を与えた[78]。
1903年になると儀式魔術の異教的様式を嫌悪していたアーサー・エドワード・ウェイトがイシス・ウラニア神殿内で派閥工作を始めた。自分たちを独立修正儀礼会と称したウェイトは同神殿の重鎮らの支持を得た上でフェルキンたちに活動内容の修正を求めた。この対立は結局、従来の儀式魔術を指向するフェルキンたち多数派の方が新しく用意された物件に移ることで折り合いが付き、その新施設はアマウン神殿と名付けられて「暁の星」の本部になった。こうしてイシス・ウラニア神殿を掌握したものの権威不足を自覚するウェイトは、パリのメイザースと連絡を取った上で表向き彼への忠誠を誓い、その公認団体とする同意を取り付けて「聖黄金の夜明け」と名乗るようになった。メイザースは公認のみで教義上の関与はしなかった。メイザースの信奉者たちは、彼の新しい教団「A∴O∴」に参加した[33]。同じ頃、フェルキンの活動方針に不満を覚えるようになったブロディ=イネスは「暁の星」を離れてメイザースと和解し、1907年にアメン・ラー神殿とともに「A∴O∴」へ合流した。残された「暁の星」はフェルキンの下で数々の混乱を経ながら続いた。メイザースは引退して表舞台から姿を消し、その晩年についてはほとんど知られていない[33]。
以上の経緯により、黄金の夜明け団は「A∴O∴」「暁の星」「聖黄金の夜明け」といった三つの団体に分裂して[79]、その教義は様々な形で受け継がれながらも黄金の夜明け団は終了した。これらの後続団体は、少なくとも20世紀後半までは存続していた[8]。
一方で、分裂の一因ともなったアレイスター・クロウリーは、1907年に「銀の星」を結成した。共に我の強いクロウリーとメイザースは仲違いしており、クロウリーはその復讐として、黄金の夜明け団の秘密文書(メイザースによる大英図書館所蔵の17世紀の魔道書の翻訳)を勝手に出版し、メイザースはこれを阻止するためにロンドンで彼を訴えたが、1910年に敗訴した[33][4]。クロウリーが無許可で出版した同団の魔術書は、ジェラルド・ガードナーに影響を与え、彼がウィッカ(魔女宗)の根拠とした偽の古文書『影の書』は、メイザースの『ソロモンの鍵』とクロウリーの儀式の両方から内容を借用していることがわかっている[4]。現代でも儀式魔術については、セックスと麻薬を中心に据えた秘儀の系統の力が強く、クロウリーの影響が特に強いアメリカ西海岸(カリフォルニア)では、1970年以後性魔術を売りものにする反体制的なアンダーグラウンド集団が多数作られた[22]。1969年に女優のシャロン・テートらを殺害したチャールズ・マンソンによるヒッピーのコミューン「ファミリー」がその極端な例として知られる[22]。
ダイアン・フォーチュンによる次の定義が、教団の定義を的確に述べている[17]。
人類一般には知られていない秘密の智恵を学び、試験と儀礼が行われる加入儀式という手段により入会が許可される[17]。 — フォーチュン
黄金の夜明け団の教義は、古今東西の隠秘学知識の綜合体とも言うべきものある。ユダヤの秘教哲学であるカバラを中心にして、エノク語、エジプト神話学、グリモワール、古典元素、タロット、占星術、ジオマンシー、錬金術、薔薇十字伝説、神智学系の思想、タットワを含むインド密教などあらゆる知識が習合されていた。なお、彼ら英国人にとって最も身近な隠秘学であるはずのキリスト教神秘主義は、創設者たちがメイソン系団体の方で手掛けていた事情からあえて避けられており、これは同時に一つの方向性を示す事にもなった。カバラに内包される生命の樹が団内の聖典的な象徴図表とされ、上述の各分野から引用される多種多様な知識は生命の樹の各要素に対照させる形で分類され整理された。その中にはこじつけ的な照応も散見されるが、あらゆる隠秘学および神秘思想分野から蒐集された知識群の比較的高度な体系化が黄金の夜明け団教義の最大の特徴であった。また「埋蔵金発掘や個人的な復讐など俗世の欲に基づく低俗な目的で魔術は使わない」「魔術師は常に知識や技術を習得する事での全能感、己の心と戦い続けながら清廉に生きるべし」という規律を掲げていた。
上述の知識群は、創設者をはじめとするアデプトたちが言わば自由研究的に持ち寄って考察を加えた後に、団体の方向性に沿う形で再解釈され、必要に応じて団内のカリキュラムに組み込まれた。魔術の研鑽に必要とされる様々な知識は、アデプトによってテキスト化されて秘儀参入者たちが学んだ。団内ではアデプト一人一人の独自研究が奨励されており、それぞれの研究成果は「飛翔する巻物」と題された団内文書の各巻に編集されてアデプトたちの間で相互に閲覧された。この自由な知識探究の気風は団内の教義を発展させる原動力となったが、他方で迷走の一因にもなった。団内ではマグレガー・メイザース考案の教義が最も大きな影響力を持っており、極端に言えば黄金の夜明け魔術とはメイザース思想の体現物と言えた。中でもエノク語を土台にしたエノキアン魔術は彼の奥義と言えるものであり、5枚のタブレットに記された合計644の区画からなるエノク文字図表は、前述の生命の樹をも包括した更に高度な万物照応による知識の体系化を実現していた。後にメイザースから離反した団体の者でさえ彼の考案物には一目置き、またある者は彼のブランドを積極的に利用した。
秘儀参入者たちは団内で得た知識を口外せぬよう誓約していた。団員は心霊主義者よりも秘密主義だったが、教団が完全に謎の存在だったことはなかった[8]。短期間会員であったコンスタンス・メアリー・ワイルドは、夫のオスカー・ワイルドにおそらく教団の秘密の知識の一部を共有したとみられる[8]。また、アレイスター・クロウリーが報復的に一部を出版している[8]。
世紀末イギリスのオカルティズムは出版や議論も盛んで、教団自体がオカルトの様々な流れの重要な媒体者であり、超自然的な怪奇小説で知られるリチャード・マーシュ(団員だった記録はない)の作品で世紀末のイギリス小説で最も人気のある小説のひとつ『黄金虫(The Beetle)』は、教団にも影響を与えた古代エジプトの儀式の詳細が含まれているが、一般に広まっていた教団の要素を取り入れたと考えられている[8]。
教団消滅後、第一次世界大戦後の混乱と世界恐慌に見舞われた大戦間期の社会情勢の中で魔術結社の活動も下火になり、それらの解散に伴う知識そのものの喪失を危惧したイスラエル・リガルディーが団内文書を書籍にまとめて公開出版したことで、黄金の夜明け団教義の大部分が一般に入手できるようになった。なお、リガルディーは1969年に、自宅を魔術マニアに荒らされ数々の貴重なコレクションを盗まれている[80]。
当時人気のあったヘレナ・P・ブラヴァツキーの神智学協会との大きな違いは、メイザースが魔術師として、会員に絶えず実験やデモンストレーション(体験)の機会とその方法を与えたことである[81]。それぞれの等級に結び付いた儀式は、独創的な言葉と秘教的で宗教的な象徴を幅広く組み合わせ、志願者に効果的に強い心理的・霊的なショックを与え、西洋秘教主義の本質を首尾よく植え付けるよう設計されていた[56]。
黄金の夜明け団は儀式魔術を眼目にした団体であり、上述の教義知識はそのセレモニー(魔術儀式)の中で活用された。儀式魔術とは、魔術概念の身体的表現であり、舞台となる密室の設置から室内に細かく配置する大道具小道具の取り揃え、および参加者それぞれの衣装と台詞と動作の一つ一つに特定の知識を伴うという、特別な演劇を媒体にした秘教哲学の体現化芸術であった。儀式魔術の実践は団員の連帯感を高めると同時に、参加者たちの感性と知覚能力に一定の影響を及ぼすと信じられており、定期的に履行された。またゆっくり一つ一つ「段差」なく魔術を理解できるように、世界の統一された真理の解明を進めており、自らの手で必要だと感じた奇跡の起こし方を調達するために、精巧なボードゲームを参考にして、永遠に終わりの見えない「工作キット」の開発を目指していた。
また、アストラル投射と称される夢見技法も持てはやされていた。黄金の夜明け団はこの夢見技法をマニュアル化しており、かなりの個人差はあったが、それなりの確率で白昼夢の世界に入り込むことができたようである。アストラル投射の手順とは、特定の象徴物を凝視しながら意識を集中し、自分自身がその象徴の中に入り込むように想像力を強く働かせるというものであった。熟達するにつれて始めは無理やり想像していたイメージの実感が徐々に明確になり、ついには立体化した想像空間が意識の集中を離れて自動的に脳内で織りなされるようになる。それがアストラル旅行の出発点となった。スクライング(水晶占い)との違いは、より能動的に幻視された世界を動き回れることである。凝視する象徴物の組み合わせを変えることで、アストラル旅行の内容も様々に変化するという奥深さが多くの団員を虜にした。前述の生命の樹を中心にした象徴照応教義はこの時に最大活用された。ただし情緒不安定を誘引するという副作用も指摘されており、多用は戒められていた。
ジュールス・エヴァンスによると、団員たちは、超人への霊的進化を助ける手段として性魔術を使うよう教えられており、その基本的な考え方は、二人の団員(通常は夫と妻)の間に性的な魅力により、相反する「磁気極性」が生まれ、霊的な進歩のために使えるエネルギーが発生するというものだった[12]。また、性魔術によって、生まれてくる子どもが人類の進化を助ける高度に進化した魂の転生であることを保証できると信じていた[12]。エヴァンスは、彼らはおそらくカバラの体系から、特に13世紀のカバラの文書である『ゾーハル』からこのアイデアを取り入れたと考えている[12]。研究者のマーラ・セゴルによると、この『ゾーハル』一節の背後にある考え方は、セックスするときに両者が適切な霊的・精神的な心構えでいれば、ヤハウェ(神)の祝福を降ろすことができ、生まれてくる子どもが「有徳の人(righteous)」の一人になる可能性が高くなるというものである[12]。ただし、呪文がうまくいかなかったり、心が不純だったりすると、誤って悪魔の子が転生してくる可能性があるとされた[12]。例えばクロウリーとイェイツは、妻との間に性魔術によって、超人、救世主を生もうとしたという[12]。
インペレーターからセンティネルまでの10人が役割を決めて、それに準じた装束や象徴武器で身を固め、特定の順序で呪文や動作をこなしていく。カバラを下地にして、エジプト神話、ギリシャ神話、タロット、エノクなどを組み合わせ、共通する神の記号や光の象徴を抽出して本質に迫る術式群を備えている。探索者がクリスチャン・ローゼンクロイツの墓所を発見するエピソードにちなんだ儀式が代表格である。蒸気機関などの自然科学が席巻する時代に生まれたこともあり、聖書の記述を鵜呑みにせず、聖書発生以前の古代宗教の変遷を紐解く試みも行い、母体のヘルメス学の影響から、地中海を挟んだ最も身近な異文化であるアフリカ大陸に残るエジプト神話に特に着目し、儀式にはエジプト神話の神々の恰好をしていた。
フロレンス・ファー、ウィリアム・バトラー・イェイツ、アニー・ホーニマン、モード・ゴン等は演劇界で活躍しており、教団のメソッドの中心である儀式のパフォーマンスについては、魔術との演劇的な関わりとして理解されている[8]。パフォーマンス、衣装、小道具、舞台装置はすべて、教団の儀式と教育実践の重要な要素であり[8]、ファーはエジプト魔術、ヘルメス主義、カバラ、錬金術等の類似点を探求し、考古学者のウォーリス・バッジによる古代エジプトの『死者の書』の翻訳等を研究し、それらを儀式の呪文や魔術の象徴のインスピレーションとして使用した[14]。
クラス | 役職名 | 原語 | 意味 | 対応神 | 元素 | 必要階級 |
---|---|---|---|---|---|---|
三首領 | インペレーター | Imperator | 司令官 | ネフティス | 火 | 6°=5□ |
プレモンストレーター | Praemonstrator | 指導者 | イシス | 水 | 7°=4□ | |
カンセラリウス | cancellarius | 書記 | トート | 気 | 5°=6□ | |
主要司官 | ハイエロファント | Hierophant | 司教 | オシリス | 5°=6□ | |
ハイエルース | Hiereus | 司祭 | ホルス | 4°=7□ | ||
ヘゲモン | hegemon | ガイド | マアト | 3°=8□ | ||
準司官 | ケルックス | Kerux | ヘラルド | 東アヌビス | 2°=9□ | |
ストリステス | Stolistes | 準備者 | ムト | 1°=10□ | ||
ダドゥコス | Daduchos | 松明者 | ネイト | 1°=10□ | ||
センティネル | sentinel | 番兵 | 西アヌビス | 0°=0□ |
黄金の夜明け団の儀式中に胸に装着されたデザインは、薔薇十字団、カバラ、メイザースによって教えられた色の象徴に基づいた紅い薔薇と黄金の十字架である。薔薇の22枚の花弁はそれぞれ異なる色で、ヘブライ文字の22文字の三母字、七複字、十二単字を表している。そして22本の小径にも対応している。薔薇の花弁の中央には死と霊的な復活を象徴する聖十字架がある。薔薇は十字架の上にあり、熟練者が心の中で金に変身しなければならない要素を象徴している。また五芒星は四元素に加えて本質を表している。
教団の統括方法、加入儀式の等級体系は、ウェストコットが事務局長を務めていたフリーメイソン的な薔薇十字の団体英国薔薇十字協会のものに依拠している[17]。
等級の最下位に「新参者(ニオファイト)」位階を新設し、最上位に「イプシシムス[注 15]」を追加した。黄金の夜明け団の初位階である「新参者」とその上の4位階は暗号文書に依拠していたが、その4位階の名称は18世紀ドイツの黄金薔薇十字団(独: Gold- und Rosenkreuzer)のそれと一致していた[82]。英国薔薇十字協会の位階制度も黄金薔薇十字団の模倣であった[83]。魔術結社風のアレンジとして各位階を生命の樹の10のセフィラと22個の小径に対応させ、上昇=下降のペア階段値を付け加えた。「新参者」位階は生命の樹の枠外とした。入団者は「新参者」を出発点とし、それぞれの段階の昇格試験をクリアすることで上の位階へと進んだ。この黄金の夜明け団の位階制度は、後継魔術団体の手本とされて現代に到るまで踏襲され続けている。
11の位階は第一団(外陣)、第二団(内陣)、第三団の三層に分割されており、それぞれ別グループに扱われて個別の団名を持った。黄金の夜明け団は建前上この三層構成とされた。外陣は一般団員用で、火・空気・水・土の四元素を学ぶ。ポータルは外陣と内陣の橋渡し段階であり、アデプト(達人)になる前の準備期間とされた。内陣に進むと晴れてアデプトとして認められた。内陣は幹部団員専用であった。第二団は、その唯一の指導者であったメイザースによって、第一団とは完全に別の団として構想されており、第一団を統括し指導することに加えて、アストラル旅行、錬金術、スクライング等の実用的な魔術を学び始める[8]。第二団への入門に関する指示には、第二団はまだ人間的であるが、人間的なだけではなく、超人間的、すなわち神的であろうと努める、と説明されている[12]。第二団の志願者は、「大いなる業 」の達成に専念すること、「私の霊性を浄化し、高揚させ、神の助けによって、ついに人間以上の存在となる」ことを誓うことを義務付けられていた[16]。 アレックス・オーウェンは、第二次世界大戦中の魔術は、「魔術師を神と直接交信させ、(おそらく一瞬だけであろうが)ほとんど超自然的な半神性の状態に導くことに最も深く関わっていた」と述べている[16]。
当初は肉体を持ったままの魔術師が到達できるのは「小達人(アデプタス・マイナー)」位階までとされていた。第二の位階に進んだものは約4割で、次の段階は非常にきつく、アデプタス・マイナーより先に進むものはごくわずかだった[2]。第二の位階のアデプトは皆強い独立心を持つ傾向があり、必然的に組織内の対立を生じることとなった[2]。
「被免達人(アデプタス・イグゼンプタス)」は創立者専用の名誉位階として用いられることが多い。第三団に所属するとされた秘密の首領達は、錬金術師であり、その実践は古代エジプトから途切れることなく続いてきた秘儀の伝統の一部であると総じて信じられており、あるいは霊的、象徴的な存在であった[14]。第三団はほとんど架空の存在であった。
団 | 位階 | セフィラ | 意味 | 色 | 大天使 | 四元素 | |||
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慣用 | 和訳 | 原語 | 数字記号 | ||||||
第一団 「黄金の夜明け」 (外陣) |
ニオファイト | 新参者 | Neophyte | 0°=0□ | |||||
ジェレーター | 熱心者 | Zelator | 1°=10□ | マルクト | 王国 | 黒 | サンダルフォン | 地 | |
セオリカス | 理論者 | Theoricus | 2°=9□ | イェソド | 基礎 | 紫 | ガブリエル | 風 | |
プラクティカス | 実践者 | Practicus | 3°=8□ | ホド | 栄光 | 橙 | ラファエル | 水 | |
フィロソファス | 哲学者 | Philosophus | 4°=7□ | ネツァク | 勝利 | 緑 | ハニエル | 火 | |
ポータル | 予備門 | Portal | |||||||
第二団 「紅薔薇黄金十字」 (内陣) |
アデプタス・マイナー | 小達人 | Adeptus Minor | 5°=6□ | ティファレト | 美 | 黄 | ミカエル | |
アデプタス・メイジャー | 大達人 | Adeptus Major | 6°=5□ | ゲブラー | 峻厳 | 赤 | カマエル | ||
アデプタス・イグゼンプタス | 被免達人 | Adeptus Exemptus | 7°=4□ | ケセド | 慈悲 | 青 | ザドキエル | ||
第三団 (秘密の首領たち) |
マジスター・テンプリ | 神殿の首領 | Magister Templi | 8°=3□ | ビナー | 理解 | 黒 | ザフキエル | |
メイガス | 魔術師 | Magus | 9°=2□ | コクマー | 知恵 | 灰 | ラジエル | ||
イプシシマス | Ipsissimus | 10°=1□ | ケテル | 王冠 | 白 | メタトロン |
ヘブライ文字 | 小径 | タロット | 西洋 占星術 | 色階 | ||
---|---|---|---|---|---|---|
文字 | 名称 | 分類 | 大アルカナ | |||
א | aleph アレフ | 三母字 | ケテル-コクマー | 愚者 | 風 | 黄色 |
ב | bet ベート | 七複字 | ケテル-ビナー | 魔術師 | 水星 | 黄色 |
ג | gimel ギメル | 七複字 | ケテル-ティファレト | 女教皇 | 月 | 青 |
ד | dalet ダレット | 七複字 | コクマー-ビナー | 女帝 | 金星 | 緑 |
ה | he ヘー | 十二単字 | コクマー-ティファレト | 皇帝 | 白羊宮 | 赤 |
ו | vav ヴァヴ | 十二単字 | コクマー-ケセド | 教皇 | 金牛宮 | 朱色 |
ז | zain ザイン | 十二単字 | ビナー-ティファレト | 恋人 | 双児宮 | 橙色 |
ח | chet ヘット | 十二単字 | ビナー-ゲブラー | 戦車 | 巨蟹宮 | マリーゴールド |
ט | tet テット | 十二単字 | ケセド-ゲブラー | 力 | 獅子宮 | 黄色 |
י | yud ユッド | 十二単字 | ケセド-ティファレト | 隠者 | 処女宮 | 黄緑 |
כ | chaph ハフ | 七複字 | ケセド-ネツァク | 運命の輪 | 木星 | 紫 |
ל | lamed ラメッド | 十二単字 | ゲブラー-ティファレト | 正義 | 天秤宮 | 緑 |
מ | mem メム | 三母字 | ゲブラー-ホド | 吊るされた男 | 水 | 青 |
נ | nun ヌン | 十二単字 | ティファレト-ネツァク | 死神 | 天蝎宮 | シアン |
ס | samekh サメフ | 十二単字 | ティファレト-イェソド | 節制 | 人馬宮 | 青 |
ע | ain アイン | 十二単字 | ティファレト-ホド | 悪魔 | 磨羯宮 | 藍色 |
פ | phe フェー | 七複字 | ネツァク-ホド | 塔 | 火星 | 赤 |
צ | tsadi ツァディ | 十二単字 | ネツァク-イェソド | 星 | 宝瓶宮 | 紫 |
ק | kuph クフ | 十二単字 | ネツァク-マルクト | 月 | 双魚宮 | マゼンタ |
ר | resh レーシュ | 七複字 | ホド-イェソド | 太陽 | 太陽 | オレンジ色 |
ש | shin シン | 三母字 | ホド-マルクト | 審判 | 火 | 赤 |
ת | tav タヴ | 七複字 | イェソド-マルクト | 世界 | 土星 | 藍色 |
名前 | 生没年 | 職業 | 位階 | 団員名 (モットー)[84] | 団員名の 意味 | 分裂後 |
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ウィリアム・バトラー・イェイツ | 1865-1939 | 詩人、劇作家、アベイ座の設立者 | 7°=4□ | Demon Est Deus Inversus | 悪魔は裏返しの神 | 暁の星 |
アーサー・エドワード・ウェイト | 1857-1942 | 著作家 | 5°=6□ | Sacramentum Regis | 王の秘蹟 | 聖黄金の夜明け団 → 薔薇十字同志会 |
アレイスター・クロウリー | 1875-1947 | 魔術師、登山家、詩人 | Frater Perdurabo | 私は耐えるであろう[85] | 銀の星〜 東方聖堂騎士団 | |
5°=6□ | The Heart of Jesus[86] | イエスの心臓[86] | ||||
パメラ・コールマン・スミス | 1878-1951 | 画家 | 1°=10□ | Quod Tibi id aliis | The same for thyself as for another | 聖黄金の夜明け団 |
アルジャーノン・ブラックウッド | 1869-1951 | 小説家 | Umbram Fugat Veritas | 聖黄金の夜明け団 | ||
アーサー・マッケン | 1863-1947 | 小説家 | Avallaunius | 聖黄金の夜明け団 | ||
マグレガー・メイザース | 1854ー1918 | 魔術師 | 5°=6□ | 'S Rioghail Mo Dhream | 我が部族は王族[84] | A∴O∴ |
7°=4□ | Deo Duce Comite Ferro | 神は我が導き手、剣は我が供[84] | ||||
ウィリアム・ロバート・ウッドマン | 1828-1891 | 医者 | 5°=6□ | Magna est Veritas et Praevalebit | 真理は偉大にして卓越し続けるであろう | |
7°=4□ | Vincit Omnia Veritas | 真理は全てを征服す[84] | ||||
ジョン・ウィリアム・ブロディ=イネス | 1848-1923 | 弁護士 | 5°=6□ | Sub Spe | 希望の下に | 暁の星 → A∴O∴ |
ウィリアム・ウィン・ウェストコット | 1848ー1925 | 検死官 | 5°=6□ | Quod Scis Nescis[84] Sapere Aude |
汝が知りしことを汝は知らぬ[84] 敢えて賢明たれ |
|
7°=4□ | Non Omnis Moriar | 悉く滅することあらじ | ||||
フレデリック・リー・ガードナー | 1857-1930 | 株式仲買人 | 5°=6□ | De Profundis Ad Lucem | 奈落を出でて光へ | |
モード・ゴン | 1865-1953 | アイルランド独立運動の闘士、女優(アベイ座) | Per Ignem Ad Lucem | 火を経て光へ | ||
フロレンス・ファー | 1860ー1917 | 女優・音楽家・演出家(アベイ座) | 5°=6□ | Sapientia Sapienti Dono Data | 知恵は賢者に授けられた賜物 | 神智学協会[14][注 16] |
ロバート・ウィリアム・フェルキン | 1853-1926 | 医師 | 5°=6□ | Finem Respice | 終わりを慮れ | 暁の星 |
エドワード・ウィリアム・ベリッジ | 1843-1920 | ホメオパシスト | 5°=6□ | Resurgam | 再び立ち上がらん | A∴O∴ |
アラン・ベネット | 1872-1923 | 化学者 | 5°=6□ | Iehi Aour | 光あれ | テーラワーダ → 英国仏教協会 |
アニー・ホーニマン | 1860-1937 | メイザース夫妻の金銭的後ろ盾[13]、演劇の支援者 | 5°=6□ | Fortiter et Recte | 勇敢に、公正に | |
モイナ・メイザース | 1865ー1928 | 美術学芸員 | 6°=5□ | Vestigia Nulla Retrorsum | 足跡は決して後戻りせず[88] | A∴O∴ |
黄金の夜明け団は、人間の発達における想像力の役割を重視していたこともあり、作家や芸術家の間では特に親近感を持たれていた[8]。フロレンス・ファーは入団前にすでにプロの女優であり、イェイツ、ジョン・トッドハンター、ホーニマンなど、多くの入団者が教団に所属しながら演劇と密接な関係を築いた[14]。そうしたことから、団員は当時の様々な芸術運動と関係が深く、デニス・デニソフは、「教団は全体として、当時の美学的な動きの枠を超えて共有された創造的な活動の集まりと見ることができる」と評している[14]。
ファーは異教の儀式を研究して演出し、その儀式が本物であるか再発明されたかに関わらず、当時のイギリスのオカルト・リバイバルと演劇に大きな影響を与えた[14]。イェイツはアイルランド演劇運動を率いてアベイ座を作り戯曲を書き、独自の詩的・象徴的な演劇を探求し、彼女は出演し演出も行った。二人は入団以降長年芸術的なコラボレーションを行い、竪琴に合わせた異教的な詩の朗詠の復活を探求し公演を行った[14]。これは言葉に内在する「語りの音楽」(music of speech)、忘れられた古い音楽を明らかにしようとするもので、ファーは直感、トランス状態を活用して創作した[14]。この芸術は、彼女が教団で行った詩の朗読と対位法的な音楽の演奏を組み合わせた異教の儀式に触発されたものだった[14]。
儀式を魔術概念の身体的表現とみなす儀式魔術の概念は、文学や美術や舞踏などの創作に実践され、ジョリス=カルル・ユイスマンス、エドワード・ブルワー=リットン、団員のアーサー・マッケンら19世紀末の魔術運動に参加した作家たちは、魔術そのものを文学の主題に据え、儀式魔術の美学的特性を描いた[22]。
教団に所属した様々な作家たちは作品の中で、ゴシック的な表現を用いて、物質世界を霊的なものへと昇華させるテウルギア的・魔術的な神秘的上昇を描いた[91]。アーサー・マッケンはエクスタシーを文学の目的とし、彼の『三人の詐欺師』は、作中劇が象徴的な錬金術を呼び起こす自己回帰的な作品である[91]。イヴリン・アンダーヒルは、『A Column of Dust(塵の柱)』でドッペルゲンガーの概念を、知を変容させる唯一のものである愛についての学びを助ける装置として、新たな領域に引き上げている[91]。チャールズ・ウィリアムズもアンダーヒルと同様に、『Descent into Hell(地獄への降下)』で、互恵と交換の神学を説くためにドッペルゲンガーの救いの力を探求した[91]。ゴシックの言葉の比喩的用法は、霊的な教育を可能にし、現実世界における意味の喪失に対処する新たな方法となっている[91]。
ダイアン・フォーチュンとアルジャーノン・ブラックウッドは二人とも超自然的フィクション小説の多作な作家であり、ジュールス・エヴァンスによると、性魔術は高次の魂を転生させるために使用でき、それによって人類(特に英国人種)の進化を助けることができ、そうすべきであるという考えを小説の中で描いた[12]。他の黄金の夜明け団やその分派のメンバーも、小説の中でオカルト優生学の方法としての性魔術のアイデアを探求した[12]。
またタロットカードが新しくデザインされ、ラファエル前派やフランス象徴主義が隆盛を極めた[22]。
フランスではジョセファン・ペラダンを中心に薔薇十字主義の芸術サロンが生まれ、エリック・サティの音楽などが生まれた[22]。
アイルランド人の詩人・劇作家のウィリアム・バトラー・イェイツは、ノーベル文学賞受賞者で、20世紀の英語文学・現代詩において最も重要な詩人の一人と評価されているが、若い時からオカルティズムに興味を持ち、教団から創作に強く影響を受けた[95]。イェイツは教団でのオカルト実験・儀式の体験を通じて、「イメージは意識や潜在意識よりも一層深い源から湧き上がるものであること、言葉やシンボルはそれ以外では達し得ないリアリティを喚起する力を秘めていること」を学んでおり、彼は自身の象徴的言語が、フランスの象徴主義経由というより、神秘思想家やウィリアム・ブレイク、黄金の夜明け団の「ミスティカル・シンボリズム」から学んだものであると明言している[96]。
イェイツは妻のジョージー・ハイド・リーズ・イエィツを暁の星に入団させている[12]。彼女は自動筆記で精霊によるという秘教的な思想をイェイツに伝え、夫婦はセッションを繰り返し、自動筆記で伝えられた内容が、最高傑作と評される彼のいくつもの詩にインスピレーションを与えた[12]。
心霊主義は文化史的な視点からの研究が急速に充実しつつあるが、それに比べ黄金の夜明け団に関する学術研究はそれほど多くない[3]。近年での重要な研究としては、アレックス・オーウェン(Alex Owen)『The Place of Enchantment: British Occultism and the Culture of the Modern』(2004年)や、アリソン・バトラー(Alison Butler)『Victorian Occultism and the Making of Modern Magic: Invoking Tradition』(2011年)がある[3]。
アレックス・オーウェンは、学究的な愛好家(熱狂的なオカルティストではない)によって書かれた、私家版や未発表の資料を利用した信頼できる研究がいくつかあり、組織構造や会員構成に光を当てるのに役立っていると述べ、次の書籍を挙げている[97]。
またオーウェンは、詩人のイェイツの研究は黄金の夜明け団の複雑さを解明し、文学的、知的観点から文脈化するのに非常に役立つと述べ、初期の影響力のある研究の例として、ジョージ・ミルズ・ハーパーの『Yeats's Golden Dawn(イェイツの黄金の夜明け団)』(1974年)を上げている[97]。
その名は学術研究より一般で人気が高く、占い好きには、アーサー・エドワード・ウェイトの「ライダー・タロット」やアレイスター・クロウリーの「トート・タロット」等のタロット・カード通して、ヘヴィ・メタルのファンには、オジー・オズボーンの名曲「ミスター・クロウリー」(アルバム『ブリザード・オブ・オズ―血塗られた英雄伝説』〔1980〕に収録)を通して知られている[3]。
日本では1992年-1993年に『黄金の夜明け魔法大系』(国書刊行会、全6巻)が刊行され、イスラエル・リガルディ『黄金の夜明け魔術全書』などの基本文献が邦訳されている[3]。
ジュールス・エヴァンスは、黄金の夜明け団のオカルト優生学のミームが、マリオン・ジマー・ブラッドリーの『アヴァロンの霧』、フランク・ハーバートの『デューン』、ジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』や 、J・K・ローリングの『ハリー・ポッター』のような後のファンタジー小説に影響を与えた可能性を示唆しており、『デューン』に登場する優生学的に超存在の創造をもくろむオカルト教団ベネ・ゲセリット[注 17]は、黄金の夜明け団系の人々のアイデアに多くを負っているようだと述べている[12]。
鎌池和馬『とある魔術の禁書目録』(2004年 - ):バトルアクションもののファンタジーライトノベル。科学サイド、魔術サイドといった勢力が存在し、科学サイドにクロウリー、魔術サイドにメイザースが率いる黄金夜明があり、この黄金夜明には、黄金の夜明け団、後続団体の史実の人物が所属しているという設定になっている。
石踏一榮『ハイスクールD×D』(2008年 - ):学園ラブコメバトルファンタジーのライトノベル。メイザースらが創設した黄金の夜明け団が登場する。
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