高橋憲幸

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高橋 憲幸(たかはし のりゆき、1971年2月25日 - )は、群馬県高崎市[1]出身の元プロ野球選手投手、左投左打)。

概要 基本情報, 国籍 ...
高橋 憲幸
基本情報
国籍 日本
出身地 群馬県高崎市
生年月日 (1971-02-25) 1971年2月25日(53歳)
身長
体重
180 cm
85 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1996年 ドラフト5位
初出場 1997年4月5日
最終出場 2004年4月29日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 新日本石油ENEOS
    JX-ENEOS
  • 北海道日本ハムファイターズ (2015 - 2019)
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経歴

プロ入り前

拓大紅陵高では和田孝志と投の二本柱を組み活躍。和田の故障もあって1988年夏の甲子園にはエースとして出場。2回戦(初戦)で松山商を降すが、3回戦で浜松商に惜敗。

卒業後は日本石油に入社。1995年都市対抗では春田政勝とともに投の主軸として勝ち進む。NKKとの決勝では勝利投手となり優勝に大きく貢献、同大会の橋戸賞を受賞した[1]1996年ドラフト5位で日本ハムファイターズに入団[1]

プロ入り後

1年目の1997年から変則フォームから繰り出すスクリューボールを武器に中継ぎ投手として活躍し、47試合に登板(この年4月22日にプロ初勝利を挙げたがこの試合から三連続でチームはサヨナラ勝ちをし高橋もその間に2勝挙げた)。2001年には自己最高の59試合に登板[1]。同年4月26日の対福岡ダイエーホークス戦(東京ドーム)ではトニー・ミッチェルに死球を与え乱闘騒ぎになり、チームメイトの金子誠が右フックを頬に受けた。

2002年には登板機会が減少するが、翌年には復活。しかし2004年4月には買い物の途中に自転車で転倒、左ほお骨骨折と左肩鎖骨脱臼の重傷を負ったため、同年は10試合の登板に留まった。2005年は一軍登板がなく、戦力外通告を受け任意引退。

引退後

2006年は監督の落合博満(日本ハムの同僚で同じ年に入団した仲)との縁から中日ドラゴンズ打撃投手を務めた。2007年からは古巣である新日本石油ENEOS・JX-ENEOSの投手コーチを務めた[2]2014年11月9日に日本ハムの二軍投手コーチに就任[3]2018年から一軍投手コーチに転ずる[4]。2020年からアマスカウト担当。

詳細情報

年度別投手成績

さらに見る 年 度, 球団 ...




















































W
H
I
P
1997 日本ハム 470000220--.50016635.23941913252021194.791.63
1998 330000000------15035.22631511220018164.041.15
1999 280000000------7417.023420091013126.351.47
2000 310000411--.80018942.24141732432019153.161.36
2001 590000040--.00018846.043101004381021214.111.15
2002 90000000------214.170100200224.151.85
2003 550000330--.50021050.04471641273019173.061.20
2004 100000000------358.2812001110333.121.15
通算:8年 27200009101--.4741033240.023133829111771001161053.941.30
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記録

背番号

  • 14 (1997年 - 2000年)
  • 42 (2001年 - 2005年)
  • 100 (2006年)
  • 74 (2015年 - 2019年)

脚注

関連項目

外部リンク

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