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1970年まで営業していた北海道の鉄道 ウィキペディアから
雄別鉄道(ゆうべつてつどう)は、北海道釧路支庁管内釧路市の根室本線釧路駅から、同管内阿寒郡阿寒町(現・釧路市阿寒町)の雄別炭山駅までを結んでいた鉄道路線などを運営していた炭鉱鉄道会社。
雄別鉄道の親会社である雄別炭礦が運営していた尺別鉄道線についても本項で記載する。
東京証券取引所一部上場企業雄別炭礦の子会社として三菱金曜会に所属していた。本社は東京都千代田区丸の内1-2永楽ビルに所在した。1960年の総社員数は4,828名、売上高は678億円であった。
元は炭鉱鉄道会社の雄別炭礦鉄道が炭鉱と鉄道を一体で経営と運営を行っていたが、1959年(昭和34年)9月1日に雄別炭礦株式会社を親会社として、鉄道部門を経営分離し雄別鉄道株式会社が発足した[1]。ただし尺別線(当時は専用鉄道)は雄別炭礦による経営として継続した。
1969年、茂尻鉱(赤平市)で発生したガス爆発事故が原因で同坑が廃坑に追い込まれ、1970年2月以降の社員の給与支払いの見通しが立たなくなるほど急激に資金繰りが悪化したことで雄別炭礦も閉山し、同年4月に住人の移転作業が終了し鉄道業務も停止した。
倒産直前の1970年2月に再び雄別炭礦に吸収合併されたのは、大谷正春によると鉄道財団の一般職員として給与を提供するためであったとされる。実際、第63回国会 衆議院 石炭対策特別委員会議事録にて「本来特別閉山交付金制度の対象に含まれないものの鉄道は石炭を運ぶための事業として解釈し含むこととした。雄鉄バスは石炭とは直接関係がないため含まれない」といった趣旨の答弁[2]が残っている。その他に炭鉱閉山で失職する鉄道従業員に対して炭鉱職員の身分を与え、離職者手帳の交付対象に加えるためとも云われている。しかし、第96回国会商工委員会議事録には「雄別炭礦の岡田社長が雄別閉山のときに、閉山交付金は直轄事業員には支払われたけれども、雄別鉄道の組合員には払われなかった。これは私に責任がある。と言って当時の世田谷の私邸を売った」との対馬孝且委員の発言記録[3]も残っている。
結果的にはそれなりの旅客需要がありながら近郊鉄道として更生ができず、鉄道が炭礦と運命を共にすることになった。
以下の路線を所有・運営していた。データは廃止直前のもので、すべて軌間1067mm、全線単線・非電化である。
「釧美線」として雄別本線と相生線を連絡する計画もあったが、相生線も1985年に廃止となっている。
雄別鉄道 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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保存されている雄別鉄道8722号 釧路市、釧路製作所 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
軌間 | 1067 mm | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
最大勾配 | 雄別本線[4]:15.2、埠頭線:20 パーミル | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
最小半径 | 雄別本線[4]・埠頭線:160 m | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
停車場・施設・接続路線(廃止当時) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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全駅北海道釧路市内に所在。接続路線の事業者名等は当路線廃止時点。
廃止直前の時点では釧路 - 雄別炭山間に気動車による旅客列車が1日7往復(この他、雄別炭礦勤務者用の区間便として古潭 - 雄別炭山間の客車列車が数本)、貨物列車は1日13往復(埠頭線9往復)運行されていた。路線が比較的平坦だったこともあり、旅客列車の気動車は客車(後述)を連結した状態でも全線を約1時間で走破する俊足ぶりを見せていた。
気動車を6両保有していた。
廃止後は全車が関東鉄道に譲渡され、49200Yはキハ760形761 - 763、キハ104 - 106はキハ810形811 - 813へとそれぞれ改番された。キハ761 - 763とキハ811・812(便所を撤去)は筑波線(後の筑波鉄道)に、キハ813はブレーキシステムのDA1への変更、便所と荷物室の撤去、座席のロングシート化を行って常総線に配置された。現在はすべて廃車となっている。
炭坑閉山まで本線上の貨物列車・混合列車・雄別炭礦勤務者用列車は全て蒸気機関車で運用されていた。廃線後、蒸気機関車のC11形は釧路市阿寒町の「赤いベレー」内の「炭鉱と鉄道館」で、8700形は釧路製作所で静態保存されている。また河口湖自動車博物館にあった205は現在は行方不明となっている[12]。
開業にあたり2軸客車3両を新製し1923年に国鉄より2軸客車4両の払下げを受ける[14]。のちにこれらの車両は1両をのぞき尺別鉄道に転じる。戦時中には木製ボギー車1両が国鉄より入線。戦後に入線した客車はすべて国鉄から払い下げられた木製ボギー客車と元北海道鉄道の流線型内燃動車。内燃動車導入により一部は同じ塗装となりキサハ化(車内放送設備、キハの戸閉スイッチ取付)され、残りはは通勤用や予備車として1両を除き廃線まで残っていた。
使用開始 | 番号 | 製造年 | 製造所 | 廃車 | 購入元 | 経歴 | 備考 |
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1922 | ハ1 | 1922 | 日本車輌 | 1957 | 新製 | 尺別鉄道 | |
1922 | ハ2 | 1922 | 日本車輌 | 1957 | 新製 | 尺別鉄道 | |
1922 | ハ3 | 1922 | 日本車輌 | 1957 | 新製 | 尺別鉄道 | |
1923 | ハ4 | 1893 | 平岡工場 | 1957 | 国鉄 | 参宮鉄道に6→国鉄ハ2358[15] | 尺別鉄道 |
1923 | フハ5 | 1897 | 神戸工場 | 1957 | 国鉄 | 国鉄フハ3103[16] | 尺別鉄道 |
1923 | ハ6←ロ772 | 1872 | 新橋工場 | 1958 | 国鉄 | 鉄道作業局ロ2→国鉄ロ772[17] | |
1923 | フハ7←フロ840 | 1897 | 月島仮工場 | 1957 | 国鉄 | 北海道官設鉄道は1→国鉄フロ840[18] | 尺別鉄道 |
1941 | コハ1 | 1914 | 汽車製造 | 不明[19] | 国鉄 | 長州鉄道ホロハ1→国鉄コロハ5735 →芸備鉄道コロ1→国鉄コロ1 | |
1950 | コハ2 | 1935 | 日本車輌 | 1970 | 国鉄 | 北海道鉄道 (2代)キハ501→国鉄キハ40351 | |
1950 | ナハ11 | 1926 | 日本車輌 | 1970 | 国鉄 | ナハ35225→23670 | キサハ化 |
1950 | ナハ12 | 1937 | 日本車輌 | 1970 | 国鉄 | 北海道鉄道 (2代)キハ551→国鉄キハ40361 | キサハ化 |
1950 | ナハ13 | 1940 | 日本車輌 | 1970 | 国鉄 | 北海道鉄道 (2代)キハ554→国鉄キハ40364 | 1960年尺別鉄道貸与 |
1952 | ナハ14 | 1903 | 日本鉄道大宮工場 | 1970 | 国鉄 | 日本鉄道いろ63→国鉄イネロ5052 →ホロネロ5082→252→ホハフ2631[20] | 1954年鋼体化 1969年尺別鉄道貸与 |
1953 | ナハ15←ハニ19115 | 1912 | 大宮工場 | 1970 | 国鉄 | オロシ9217→17756→スハニ19115[21] | |
1956 | ナハ16 | 1911 | 小倉工場 | 1962 | 国鉄 | ホユフ8751→ナユフ8574→ナユ16008→ナユニ16465[22] | |
1956 | ナハ17 | 1914 | 札幌工場 | 1970 | 国鉄 | ナハニ8488→15726[22] | キサハ化 |
1957 | ナハ18 | 1912 | 大宮工場 | 1970 | 国鉄 | ナユニ8757→ナユニ16269→ナエ17174[22] | |
1958 | ナハ19 | 1918 | 大宮工場 | 1970 | 国鉄 | ナシ20802→10372→オニ16638 →ナハ12738→ナヤ16937→ナル17647[23] | |
雄別鉄道の親会社の雄別炭礦が運営していた[28]。機関庫は新尺別に置かれ、蒸気機関車C12形を3両、客車4両、貨車11両を保有していた。尺別炭礦の軽便鉄道による運炭軌道(通称「軌道」)が始まりで、1942年(昭和17年)に専用鉄道の尺別炭礦鉄道(通称「専鉄」)に切り替わった。1944年(昭和19年)から尺別と浦幌の両炭礦が国策休山となったため、この間は限定的な運用となって、車両や一部のレール等が他に移転されてしまったが、戦後まもなく両炭礦も再開されて徐々に通常に復帰した。1962年(昭和37年)には、沿線の林産物や農産物などの一般貨物の取扱を企図して地方鉄道に移行し[28]、一般旅客の利用も可能となった。但し旅客については、専用鉄道時代の1961年(昭和36年)から社尺別 - 新尺別間の旅客輸送が通学用の混合列車2往復を除いてバス代行となっており[28]、1964年(昭和39年)には新尺別 - 尺別炭山間の通勤輸送もバス代行に置き換えられて旅客扱列車は1往復のみとなった[28]。旅客の国鉄との連絡運輸も最後まで行われなかった[28]。また、地方鉄道に移行後も全国版の時刻表への掲載もなかった[28]。1970年(昭和45年)2月の閉山後は社尺別-新尺別間に一日4往復の旅客列車が運転されたが、4月15日の最終列車をもって全ての運輸事業を廃止し、一切の施設が撤去された。
尺別駅 - 社尺別駅 - 八幡前停留所 - 新尺別駅- 旭町停留所 - 尺別炭山駅
雄別炭礦は、北海道釧路支庁管内白糠郡音別町(現・釧路市)の根室本線尺別駅から路線・貸切バスの雄鉄バス(釧路)を運行していたが、1970年雄別炭礦の閉山とともにバス路線の全線が廃止となり、釧路市内路線の浄水場線は東邦交通(現・くしろバス)、阿寒町郊外路線の布伏内線は阿寒バスが路線を引き継いだ。
関連会社の本社業務の多くは雄別炭礦総務が兼務していた。
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