西尾寿造
日本の陸軍軍人 ウィキペディアから
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西尾 寿造(にしお としぞう、旧字体:西尾壽造󠄁[1]、1881年(明治14年)10月31日 - 1960年(昭和35年)10月26日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功一級。初代支那派遣軍総司令官。
現在の鳥取市吉方温泉3丁目に生まれた[2]。鳥取県士族・西尾重威の四男[3]、兄幸太郎の養子[3]。
旧制鳥取県第一中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)を卒業。明治33年(1900年)、歩兵第40連隊に入る(士官候補生)。1902年(明治35年)11月、陸軍士官学校を卒業(14期、23番/702名)。同期生には、古荘幹郎(のち大将、2番)、小川恒三郎(殉職後に中将、5番)、橋本虎之助(のち中将、16番)、香月清司(のち中将、19番)など俊英が揃っていた。翌年6月、歩兵少尉に任官。
1904年(明治37年)から1906年(同39年)まで、日露戦争に出征し、沙河会戦で戦傷を受けた。 1907年(明治40年)、陸軍大学校入学、1909年(同42年)、歩兵大尉となる。1910年(明治43年)11月、陸大を卒業(22期恩賜、次席)した。
1912年(大正元年)から1914年(同3年)までドイツに留学。1919年(大正8年)4月15日、田中義一陸相秘書官兼陸軍省副官となり、1923年(大正12年)8月、歩兵大佐に昇進。1926年(大正15年)3月、教育総監部第1課長に就任。
1929年(昭和4年)8月、陸軍少将に進級し第39旅団長に就任。昭和5年(1930年)、陸軍兵器廠附(軍事調査委員長)を経て、1932年(同7年)、参謀本部第4部長となり、1933年(同8年)8月、陸軍中将に進んだ。昭和9年(1934年)、関東軍参謀長兼特務部長に転出。1936年(昭和11年)、参謀次長となる。1937年(昭和12年)3月には近衛師団長に親補され、同年8月に日中戦争が始まると第2軍司令官となった。昭和13年(1938年)4月、教育総監に就任。
1939年(昭和14年)8月、陸軍大将となり、新設された支那派遣軍総司令官兼第13軍司令官に就任。支那派遣軍は、これまでの中支那派遣軍と北支那方面軍を統括する軍として編成され、中支那派遣軍は廃止された。
1941年(昭和16年)3月、軍事参議官となり、1943年(昭和18年)5月、予備役に編入された。1944年(昭和19年)、東京都長官に就任。
終戦後の1945年(昭和20年)12月2日、連合国軍最高司令官総司令部は日本政府に対し西尾を逮捕するよう命令(第三次逮捕者59名中の1人)[4]。1948年(昭和23年)12月まで巣鴨拘置所に勾留された。この間、公職追放となった[5]。
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