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小川 恒三郎(おがわ つねさぶろう、1881年(明治14年)1月16日[1][2] - 1929年(昭和4年)8月14日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
新潟県中頸城郡、のちの原通村中島(現妙高市)で、小川又三郎、さい夫妻の息子として生まれる[1][3]。陸軍中央幼年学校を経て、1902年(明治35年)11月、陸軍士官学校(14期)を卒業[1][2][4]。1903年(明治36年)6月、歩兵少尉に任官し歩兵第36連隊付となる[1][4]。1904年(明治37年)4月から1906年(明治39年)1月まで日露戦争に出征[1][3]。1911年(明治44年)11月、陸軍大学校(23期)を卒業した[1][2][5]。
1911年12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、近衛師団参謀、イタリア駐在を務め、1916年(大正5年)5月、歩兵少佐に昇進した[1]。1918年(大正7年)2月から1919年(大正8年)2月までイタリア陸軍に従軍した[1]。1919年5月、陸大教官に転じ、兼参謀本部員、イタリア大使館付武官、参謀本部付を経て、1923年(大正12年)8月、歩兵大佐に昇進し歩兵第58連隊長に発令され、同年11月に帰国[1][5]。
1925年(大正14年)5月、歩兵第29連隊長に移り、参謀本部課長を経て、1928年(昭和3年)8月、陸軍少将に進級し歩兵第1旅団長に就任[1][2][5]。1929年(昭和4年)8月1日、参謀本部第4部長に転じたが、同月14日、各務原飛行連隊の演習視察のため、浜松飛行第7連隊所属の八七式重爆撃機に搭乗して立川飛行場を出発したが、乗機が東京府北多摩郡砂川町の陸稲畑に墜落して殉職し、陸軍中将に進級した[1][2][3][5][6]。同乗していた深山亀三郎、藤岡万蔵ら7人も死亡した[6]。
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