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日本の陸軍軍人 ウィキペディアから
古荘 幹郎(ふるしょう もとお、1882年(明治15年)9月14日 - 1940年(昭和15年)7月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。正三位勲一等功五級。
熊本県出身。古荘幹之陸軍大尉の長男として生まれる。陸軍幼年学校を経て、1902年(明治35年)11月、陸軍士官学校(14期)を次席で卒業。翌年6月、歩兵少尉任官。日露戦争では、近衛歩兵第4連隊付として出征し、戦傷を受けた。
1909年(明治42年)12月、陸軍大学校(21期)を首席で卒業。ドイツ大使館付武官補佐官、参謀本部員(編制班長)兼山縣有朋元帥副官を経て参謀本部編制動員課長、陸軍省軍務局軍事課長など省部の中枢を歩む。
1928年(昭和3年)8月には陸軍少将に進級し、歩兵第2旅団長、陸軍省人事局長を歴任。
1930年(昭和5年)には参謀本部総務部長、次いで同第一部長に就く。しかし作戦担当にもかかわらず、重要事項は次長の真崎甚三郎、第三部長の小畑敏四郎、作戦課長の鈴木率道ら皇道派ラインが仕切り、彼らと永田鉄山第二部長ら他の幹部との対ソ・支那戦略を巡る内紛も激化。また参謀本部在任時には脳溢血の発作を起こし、その後は体調不十分のまま勤務を続けざるを得なかった。
1933年(昭和8年)3月、陸軍中将に昇進。第11師団長を経て、1935年(昭和10年)9月、陸軍次官となる。翌1936年2月に二・二六事件が発生、杉山元参謀次長とともに戒厳令施行を強く進言し、事態の収拾に当たる。首謀者厳罰の方針を決定した後、同年3月には自らも事件の責任を負って次官を梅津美治郎に譲り、航空本部付となる。
その後は航空本部長、台湾軍司令官、第5軍司令官、第21軍司令官を歴任。1938年(昭和13年)9月、広東攻略戦に出動、海軍の第五艦隊と共同して、10月12日、バイアス湾に上陸し、10月21日、広州に入城した。病の再発もあって日本に帰還、1939年(昭和14年)5月には陸軍大将に進級し軍事参議官となるが師団視察後に倒れ、現職のまま1940年(昭和15年)7月21日死去。
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