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日本のジャーナリスト・ノンフィクション作家(1937-2017) ウィキペディアから
萩原 遼(はぎわら りょう、1937年(昭和12年)2月3日[3] - 2017年(平成29年)12月22日[1][2])は、日本のノンフィクション作家[2]、フリーランス・ジャーナリスト。元赤旗記者。本名:坂本 孝夫(さかもと たかお)[1]。別のペンネームとして、渋谷 仙太郎(しぶや せんたろう)と井出 愚樹(いで ぐじゅ)を用いた。
萩原 遼 (はぎわら りょう) | |
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ペンネーム |
萩原 遼(はぎわら りょう) 渋谷 仙太郎(しぶや せんたろう) 井出 愚樹(いで ぐじゅ) |
誕生 |
坂本 孝夫(さかもと たかお)[1] 1937年2月3日 高知県高知市 |
死没 |
2017年12月22日(80歳没)[1][2] 東京都港区 |
職業 | 作家、ジャーナリスト |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 大阪外国語大学朝鮮語学科第1期卒業 |
活動期間 | 1980年 - 2017年 |
主題 | 北朝鮮・韓国・朝鮮語、文学 |
代表作 | 『北朝鮮に消えた友と私の物語』 |
主な受賞歴 | 第30回大宅壮一ノンフィクション賞 |
デビュー作 | 『淫教のメシア文鮮明伝』 |
親族 | 木津川計 |
公式サイト |
web |
高知県高知市出身。立命館大学名誉教授で元『上方芸能』編集長の木津川計(坂本凡夫)は実兄[1]。日本共産党大阪府羽曳野市元市議団長を務めた杉山弥生は実妹。
17歳の時に経済的理由から地元の高校を中退して上阪。住み込みの牛乳配達などをし、その後大阪府立天王寺高等学校定時制に編入[4]。そのとき同級生となった在日朝鮮人(尹元一:済州島出身で朝鮮戦争の難民として日本に密航)と意気投合し、それ以降どっぷり朝鮮半島と朝鮮語にのめりこんでいく。父親などの影響もあり、18歳の時に日本共産党に入党[4]。1963年、26歳の時大阪外国語大学に新設された朝鮮語学科に第一期生として入学[4]。大学卒業後、共産党の招請により『赤旗』(現「しんぶん赤旗」)記者となり、平壌特派員として勤務。平壌赴任[1972年(昭和47年)5月23日]後に、在日朝鮮人の帰還事業によって北朝鮮に帰った親友・尹元一を捜し回ったことが原因で、北朝鮮からスパイ容疑で国外追放[1973年(昭和48年)4月17日]となり、日本に送還される[5]。
以後、『赤旗』外信部で勤務するも、本人によれば、日本共産党指導部の路線と合わなくなり、説明もなく赤旗記者を解任される[6]。これを機に1988年(平成元年)12月に、「赤旗」を退職しフリーとなる。すぐに『ソウルと平壌』を上梓した。その後、1989年12月から約3年間渡米し、ワシントンの国立公文書館で朝鮮戦争と北朝鮮史の調査研究に没頭し、『朝鮮戦争 金日成とマッカーサーの陰謀』(文芸春秋)を書き上げる。
1994年(平成6年)2月、在日朝鮮人の帰還事業によって日本から北朝鮮に帰国した10万人の在日朝鮮・韓国人とその日本人の配偶者の現状を救おうと、小川晴久東京大学名誉教授、金民柱元朝鮮総連幹部らとともに北朝鮮帰国者の生命 (いのち) と人権を守る会を結成した。1999年には『北朝鮮に消えた友と私の物語』で第30回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞[1]。
2005年(平成17年)に日本共産党のトップである不破哲三が朝鮮総連創設50周年記念祝賀会で祝賀の挨拶や朝鮮総連を褒め称えたことに対して、萩原は元党員や脱北者らなど朝鮮総連の罪への日本共産党の反省がないことへの批判に抗議のビラを撒いた。『「赤旗」退職後から元赤旗特派員”の肩書きで共産党を繰り返し誹謗したという理由で、党規違反』との名目で除籍された。萩原は著書などで金正日政権と日本共産党の関係を批判する等していたため北朝鮮拉致事件が話題を集め東京都議会議員選挙目前のタイミングでの除籍は物議をかもした。萩原は「不当な除籍であり、取り消しをもとめていく」として批判している[7]。
2010年(平成22年)、「星へのあゆみ出版」から、朝鮮学校(高級学校と中級学校)で使われている歴史教科書の日本語訳を出版。朝鮮学校を「虚偽を教育の柱としている機関」「教育に政治を持ち込んでいるのは朝鮮総連」と批判して金一族の手足となる洗脳機関と化して日本に対立を持ち込んでいる組織だとして批判している。金一族を擁護させる民族主義な在日を育成するためにある朝鮮学校を暴力洗脳組織だと告発する在日朝鮮人らと日本の公費助成に反対している[8]。
2014年に朝鮮総連と闘うための雑誌として「拉致と真実」を発刊[9]。2015年6月には「朝鮮総連本部をさら地にする会」を結成し代表に就任した[10]。
2017年12月22日、心不全のため東京都港区の自宅・事務所で死去。80歳没[2]。
渡米した際、米国公文書館の資料(朝鮮戦争のとき、米軍が没収した朝鮮労働党と朝鮮人民軍などの資料)を3年かけて調査し、『朝鮮戦争 金日成とマッカーサーの陰謀』を著した。同書で、朝鮮戦争が北から仕掛けたことを明らかにした。
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萩原遼は、和田春樹の『朝鮮戦争』(1995年、岩波書店)は、同じく和田の『金日成と満州抗日戦争』(平凡社、1992年)よりも売れず、さらに発行後3年で絶版となったことについて、岩波書店のような宣伝力のある出版社で売れなかったのは、著者に責任の大半があり、端的に言って中身がないからであり、金日成を攻撃しなかったから売れなかったのではなく買うに値しないからであり、中身のなさは、研究者の大切な要素である一次資料に当たっておらず、他人の著作物をノリとハサミでつなぎ合わせているからであり、朝鮮戦争に関する一次資料は、アメリカ議会図書館が所蔵する北朝鮮を一時的に占領したアメリカ軍が押収した文書及び崩壊したソ連の資料であるが、「この二つの一次資料に当たらずに和田は『朝鮮戦争』を書いた。中身のあろうはずがない」と評している[15]。
アメリカ軍の押収した文書については、出版社経営者の在米韓国人の方善柱が、3回通覧したと称して、7点の重要資料を韓国語の活字に起こして1986年に発表したが、方善柱は朝鮮語がよくできず、間違いだらけであり、この方善柱による間違いだらけの資料を基にして和田が『朝鮮戦争』を書いたことを、萩原は「お笑いである」と評している[16]。また、和田が、この「欠陥だらけの本」において、方善柱と和田の使った資料を萩原が盗用したと言わんばかりの主張を行なっていることに対して、萩原は『諸君!』(1995年4月号)において、事実関係の誤りを指摘した。
このなかで、萩原は、「もっとも腹にすえかねる和田氏の誹謗」として、和田の『朝鮮戦争』における次の記述を問題視している。すなわち、和田は「(萩原の)叙述の中で引用されるもっとも印象的な資料は、方善柱氏が、1987年に発掘発表し、私が1990年に紹介した資料A、B、C、D、Gなのである。にもかかわらず、萩原氏は方氏の発表資料について『これらの資料はいずれも小さな部隊のもので、師団級のものでないこと、……部隊名を解読しえていないため、どの師団に属するどの部隊かが特定できず、これらの資料を戦争全体の局面に位置づけることができないことなどによって、資料的価値を減じている』と述べるだけで、自分が引用する資料が方氏によってすでに発表されたものであることを隠している。これは研究する者のモラルに反すると言わざるをえない」(351頁)と述べていることである。
この和田の記述に対して、萩原は、「和田氏の目はどこについているのか。その4行前には私はこうのべている」として、「その後、在米韓国人学者の方善柱氏が1986年に、北による南進の証拠として米国公文書館の『奪取文書』を3度通覧して発見したという7点を公表した。もとの朝鮮語の文書も写真版で紹介されている。これ自体たいへん貴重な作業である」とのべて、萩原自身が方善柱の功績を評価しているのは明々白々であるした[17]。
また、そもそも方善柱が発見した資料は、朝鮮戦争時にアメリカ軍が押収した文書であり、方善柱のものでも誰のものでもなく、公開された資料の幾つかを先に発見したからといって新種の彗星の如く、第一発見者の名前を冠するものではないし、方善柱は資料の出所を萩原に教えなかったため、萩原としては1990年1月から1992年6月にかけて『奪取文書』を読破してこれを発見したのであり、和田と方善柱の「一心同体ぶり」からするに、和田のこの萩原批判には方善柱の意向を反映したものであり、方善柱の発表資料は「ずさんで使いものにならない」とした。
さらに、萩原は、方善柱は秘匿名657軍の朝鮮人民軍第6師団第13連隊副部長張勲1950年6月24日の指令書のロシア語の表が読めておらず、「このていどのロシア語が読めなくて朝鮮戦争について語ることができるか」と批判したほか、対戦車地雷を指す意味も解読できていないし、日本式破壊筒を指す朝鮮語の文字を読み誤っていることから、「こんなお粗末な資料が使いものになるか」と疑問視せざるをえなかった、とした[18]。
そして、萩原が独自にアメリカ軍の押収した文書を発見し解読したことによって、方善柱の杜撰さが明らかとなり、読者の正確な認識に寄与したのみならず、「和田氏はこのずさんな方氏の資料に全面的に依拠して今回の岩波書店刊の『朝鮮戦争』を書いた」のだとした。また、「ずさんな方氏の資料」について、和田は「これらの資料を私自身は手に取って再確認してはいないが、方氏の資料操作は信頼しうる」(12頁)と評価しているが、「研究は信仰告白ではない。研究者を自称する以上、自分の手でもとの一次資料にあたらずしてこうしたことがどうしていえるのか。世間をあざむくものではないか」と批判した[19]。
加えて、萩原が発見したアメリカ軍の押収した文書は、1950年6月13日付けの朝鮮人民軍第6師団政治部の最高秘密文書の南侵計画書「戦時政治文化事業」であるのに対して、和田が論拠にした方善柱の発見資料7点には、師団級のものは一つもなく、すべて連隊以下のものであり、「戦争全体の局面をみるうえにはなんの役にも立た」ないのみならず、部隊の秘匿名も解読できておらず、部隊の配置された地名が特定できていないことから、「どの師団に属するどの部隊」が「どこから来てどこをめざしているのか」や、「開戦がどういうふうにおこなわれたのかが皆目わからず、まことに他愛ない内容」となっている、と批判している[20]。
萩原は、自著『朝鮮戦争:金日成とマッカーサーの陰謀』(1993年)について、和田が著書『朝鮮戦争』(1995年)のなかで、「印象深い資料が発表されている。しかし疑問を感じる点もある。1950年10月14日付で人民軍最高司令官金日成と人民軍総政治局長朴憲永の連名で、全軍軍務員に対して退却をやめよという命令が出された。この命令は米軍が入手して、翻訳し、英文でのみ残っているものである」と評している[21] ことについて、自身は朝鮮語の原本を発見し、コピーも手元に持っているからこそ書いたのであり、1950年10月、アメリカ・韓国連合軍が38度線を突破、平壌陥落が目前となり、錯乱した朝鮮人民軍が逃亡を始めたため、金日成と朴憲永が逃亡者は職位に関わらず処刑すべし、処刑部隊の督戦隊を組織すべしという命令を発令した「絶対秘密」「1950年10月14日、朝鮮人民軍最高司令官 命令 第○○七○号」と記されたコピーを図示したうえで[22]、「私が発見し、げんにもっているにもかかわらず、その存在に疑問を投げかけ『英文でのみ残っているものだ』などという和田氏の言がいかに軽率な一知半解のものであるかが明白」「よく知らない者はことばをつつしむべきだろう。『英文でのみ残っているものである』などという知ったかぶりで世間をまどわせてはいけない」「善良な庶民をまどわしてはいけない」と評した[22]。また、「疑問を感じる」ならば、萩原に対して電話や手紙で疑問を解く方法があり、実際に1994年4月に御茶ノ水駅のホームで和田と萩原は偶然会い、萩原の著書『朝鮮戦争』について話をしたのに、それらの解決策を取らずに「疑問を感じる」と記述するのは、「資料が出所不明の、なにやらうさんくさいものであるかの印象を世間に与えようとする意図」「本の価値をできるだけ小さくみせようとする意図」がある、と批判している[22]。
このような萩原による和田批判は、その後、岩波書店関係者の間で大きな問題となり、和田の『朝鮮戦争』は4000冊刷っただけで事実上の絶版となった。これについて萩原は、「岩波と東大教授の権威をかさにきて、私を無名のジャーナリストとあなどって不当な攻撃を加えてきた報い」「一篇の雑誌の批判で事実上の絶版に追い込まれるような、吹けば飛ぶようなものを書くのではなく、なぜもっと勉強をして確かなものを書かないのか。岩波書店にも失礼ではないか」[16]と述べたほか、和田の『朝鮮戦争』について「このていどの内容の本なら本屋での立ち読みですます」「電話帳のようにボリュームだけはあるが中身のない本を『業績』と称してエツにいっている和田氏」と批判した[23]。
その後、和田は『朝鮮戦争全史』(岩波書店、2002年)を刊行したが、萩原は「前掲書と同工異曲の本であり、全史とはおこがましい羊頭狗肉の本」「新味のないうえに500ページもの退屈な長談義」であり、和田は『諸君!』1995年4月号の萩原による和田批判に反論しているが、萩原は「彼の反論なるものはすべて誤りないし根拠のない憶測」と断じている。なお、ここでの和田による反論は次のものだった[24]。
対して萩原は次の様な再反論をしている。
結論として萩原は、「私への反論の材料がよほどなかったとみえて朝鮮戦争とは関係のない私の著書『北朝鮮に消えた友と私の物語』まで引き合いに出して反論したつもり」になっているが、「すべて虚偽か根拠のない憶測」であり[31]、「私への反論なるものは、ただの一つの真実もなく、すべて誤りか、根拠のない憶測、創作のたぐいである。反論に7年もかけてこの体たらくである。なぜもっと勉強をして確かなものを書かないのか」[33]、和田は『朝鮮戦争』に対して萩原が「激しい非難を浴びせた」と「まるで被害者のように装う」が、事実は和田と方善柱が発見した資料を「(萩原が)剽窃したかのごとく主張した和田氏の前著の名誉棄損にたいし、私が限定的に反論したにすぎない。今回の新著でも私にわびる言葉はない。和田、方善柱両氏による資料なるものは使い物にならないお粗末なもの」と評している[34]。その後萩原は『諸君!』(2003年8月号)において、「かれ(『朝鮮戦争全史』)のすべての謬論を事実をあげて完膚なきまでに論破した」「いまだに何の音沙汰もない。ふだんはどんな小さな批判にも大仰に反論するが、勝ち目がないとだんまりを決め込むのが彼の癖である。今回の『北朝鮮本をどう読むか』で、『朝鮮戦争全史』でおこなった私への言いがかりを繰り返しているが、まず私の反論にきちんと答えるのが礼儀ではないか」[16]、萩原の反論などもあり、岩波書店は『朝鮮戦争』を4000部刷ったところで中止したが、「今回の新著は、もう一度チャンスを与えようという岩波書店の温情であろうが、いいかげんなことを垂れ流す和田氏の原稿をチェックする見識ある編集者は岩波にはいないのだろうか」と批判、朝鮮戦争は北朝鮮が韓国を侵略したのか或いは韓国が北朝鮮を侵略したのかが最大の争点だが、「この問題では和田氏はなに一つ貢献していない。北朝鮮の文書と同じく重要なロシア側の文書も和田氏が集めたものは一つもない。産経新聞の名雪雅夫モスクワ特派員の発掘した文書や、アメリカの研究者ウィザースビー(Kathryn Weathersby、ジョンズ・ホプキンス大学)女史が集めた100点以上の旧ソ連の資料の提供をうけて和田氏はこの本を書いた。なぜ一つぐらい自分で発掘しないのか」「自分は何一つ手を汚さず、多くの研究者の辛苦の研究によって事実が明らかになったあとでああだこうだと論ずる学者のあと知恵を私は好まない。和田氏は、他人の書いた本を積み上げ、机に座ってハサミとのりで切り刻み、つなぎあわせ、尊大にコメントするだけである。『論証がない』『正しくない』『説得的でない』……いったい何様のつもりなのか」「朝鮮戦争全史を書くには30年早い。和田氏の新著もこれまでの朝鮮戦争研究書籍解題の域を出ない。羊頭狗肉である」と批判している[34]。
和田は「北朝鮮が武力統一を望んで、南を攻撃したことはすでにわかっていたこと」と述べているが、萩原は「わかっていたならなぜそれを立証しないのか。それをあえてしないところにカミングスや和田氏のように開戦責任を曖昧にしようとする特殊な政治的立場がある。これなら北朝鮮にとって痛くもかゆくもない。どころかむしろ北当局に大いに喜ばれ」ると批判している[20]。
萩原は自著『朝鮮戦争 金日成とマッカーサーの陰謀』について、和田が「(萩原の)本の最大の貢献は、開戦時の北朝鮮人民軍の部隊のカムフラージュ番号の解読に成功したことである」と評したことに対し、同書は、1. 朝鮮戦争の開戦が北人民軍の周到な準備のすえの奇襲攻撃によっておこなわれたことを彼らの極秘資料に使って全面的に解明したこと[35]、2, 朝鮮戦争という数百万人もの人命を犠牲にした大戦争の開戦責任、放火者はだれかを明らかにしたこと[35] であるとして、和田の評価は「的はずれである。たんに的はずれというより意図的に的をはずしている」とし、その目的は「本の価値を低めるためであり、読者を誤導ため」であるとした[35]。
萩原は、和田の萩原に対する反論は「あれが足りない、これが抜けている、と重箱の隅をつつくあら捜し」であり、和田の著作は年表を綴るように事項を並べているが、「私はもともと年表など書くつもりはないのだ。凡庸な学者がおのれの甲羅に似せて穴を掘るのは、それはそれでよい。だが、それをジャーナリストの仕事にまで当てはめさせようとお門ちがいもはなはだし」く[36]、萩原が朝鮮戦争における北朝鮮の戦先攻を北朝鮮の内部文書で明らかにしたことが、「和田はそれが口惜しく、自分も1990年に主張していたという。朝鮮語の一次資料にも当たらない者が、そして当たるだけの朝鮮語の力のない者が、なぜそういうことが言えるのか。事実と資料による裏づけのないものはただの駄法螺にすぎない。これなら研究はいらない。子供でも言えるのだ」として、和田の萩原への非難は「すべてデマか根拠のない憶測」「これが研究者とか学者を名乗る人間の言辞であろうか」と批判している[36]。萩原は、和田は「拉致は証拠がない」とデマを書いたことから、国民的な反発を受けたが、その核心は「和田は人を非難するなら、なぜ直接その人に取材をしないのか、取材すれば誤報や誤解は防げたはずだ」というものであり、対して和田の答えは「取材したから真実がわかるものでもない、真実の探求などどうでもいい」というものであり、「自分の主観的判断を至上とするきわめて傲慢な言いぐさ」であり、萩原は和田のデマの手口として①あからさまなデマを流す②つまらぬ部分を褒めて重要なものを無視することにより読者の目をくらませる③表むき評価するとみせかけてその裏でけなす④デマを垂れ流すのに必須の要件は取材や真実究明の作業をしないことを挙げており[36]、佐々木春隆(防衛大学校教授)・小此木政夫・桜井浩(久留米大学教授)らの『朝鮮戦争 金日成とマッカーサーの陰謀』への評[注 1]と和田の「最大の貢献は人民軍部隊のカムフラージュ番号の解読」という評との乖離が大きいことは「あえて異をたてて私の成果のごくささいなものを誉め真の功績を黙殺するのは、私の本の意義を低め、読者の目をくらますため」「手のこんだある種の政治的狙いをもっている」「この一文が一貫してプロのデマゴーグの手法にのっとている」[21] として、和田は萩原が和田及び方善柱の資料を使用しながらそのことを隠しておりモラルに反するという批判は①あからさまなデマを流すに該当、「萩原の最大の貢献はカモフラージュ番号の解読」だというのは②つまらぬ部分を褒めて重要なものを無視することにより読者の目をくらませるに該当し、和田が学者らしく公平さで萩原を評価していると錯覚させ、もっとも重要な箇所から目を背けさせる効果を狙っており、和田の「印象深い資料である」と誉めておきながら「疑問に感じる」と腐す行為を、萩原は「本全体にうさんくさい印象を与える」「小細工」と批判している[37]。また萩原は「(和田が)デマと中傷だけをこととする支離滅裂な文章を発表」してデマゴーグ役を買った理由を「私の本で打撃をうけた者とはいうまでもなく北朝鮮の金日成・金正日父子と朝鮮労働党である。彼らの40余年にわたる国家的虚偽を私の本は白日の下にさらした」ことを挙げており、「私の本にもっとも打撃をうけた者や組織の意向を代弁」するために「彼ら(金日成・金正日・朝鮮労働党)の憎悪が和田氏の一文に反映」しており、「一文で彼はあきらかに北側の意向を代弁することで自身の正体をかなり鮮明」にして、和田が『思想』(1990年9月号)掲載論文を発表した後の1991年1月に平壌に招かれて、黄長燁と懇談して歓待されており、和田は著書『金日成と満州抗日戦争』(1992年、平凡社)の前書きに「私の論文を読んで平壌に招いて下さった黄長燁先生と討論して下さったヒョン・ドゥヒョク、チェ・ジンヒョク先生たち……に深く感謝したい」と記しており、萩原は「黄長燁らはこれにも当然目をとおしている。そのうえで乏しい外貨事情のなかから和田氏を平壌に招き、ごちそうし、歓待した。その意図は明白である。和田氏になにかを期待しているのである。彼らがタダ飯を食わせることはけっしてない」として、その目的を萩原は「和田氏の一連の著作が平壌政権にとって好ましいからである。朝鮮戦争についての和田氏の『研究』なるものが他愛もないもので、北朝鮮にとって痛くもかゆくもないどころかむしろ彼らにとって好ましいものであることはすでにのべた。この線で大いにやってほしいということであろう」と推測している。さらに萩原は、和田が平壌に歓待された1991年1月は、ベルリンの壁の崩壊、ニコラエ・チャウシェスク、エレナ・チャウシェスク夫妻の処刑の1年後であり、「北の最大の後楯ソ連の崩壊のはじまりという北朝鮮にとって存亡の危機の時期」であり、「その時期に乏しい外貨を割いて北朝鮮が和田氏を招いたのは、彼らの生き残りをかけた必死の工作の一環」であり、政治家の賄賂やジャーナリストの取材先との癒着と同様に、「(北朝鮮は、社会主義国のなかでも最悪の独裁国家であり、国中が監獄といっても過言ではない人民抑圧、人権抹殺の国である)独裁国家と親しい関係を結ぶなどとは、あってはならないこと」「その国の最高指導者の一人と親しくメシを食うなどは論外」「デマと中傷の一文をみるにつけ、タダ飯を食うとこういう汚いこともやらされるということを和田氏は肝に銘じるべき」と厳しく指弾、岩波書店に対しても「意図的な文書の流布に手を貸したことは、社会の公器としての出版を悪用する行為」であり、事情を賢察、良識ある措置を講じるべしと直言している[38]。
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