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かつての日本の製紙会社 ウィキペディアから
本州製紙株式会社(ほんしゅうせいし)は、かつて存在した日本の大手製紙会社である。王子製紙(初代)の後継会社の一つとして1949年に設立。同じく後継会社である新王子製紙と1996年に合併、3代目の王子製紙(現・王子ホールディングス)となった。
紙パルプ業界では、売上高ベースで国内第2位(1991年度時点)の大手企業であった[4]。印刷用紙・段ボール原紙・白板紙などの洋紙・板紙の製造・販売や、段ボール・紙製容器(紙器)の加工・販売などを手がけた。
本州製紙は1949年8月、王子製紙(初代、以下旧王子製紙)の後継会社の一つとして発足した。
前身の旧王子製紙は明治初期の1873年に設立された当時の大手製紙会社である。1933年に富士製紙と樺太工業という大手製紙会社を合併し、計33工場を擁し国内市場の8割強を占める巨大製紙会社となっていた。太平洋戦争後、旧王子製紙は財閥解体の対象となり、最終的に1949年8月過度経済力集中排除法が適用されて3社に解体された。
後継会社3社は苫小牧製紙(後の2代目王子製紙→新王子製紙→3代目王子製紙→王子ホールディングス)、十條製紙(現日本製紙)とこの本州製紙の3社である。本州製紙は旧王子製紙の工場のうち、本州、特に関東から関西地方にかけて立地する製紙工場6か所(江戸川・富士・岩渕・中津・熊野・淀川)と化学薬品工場1か所(名古屋化学)を引き継いだ[5]。生産高のシェアは3社の中では最も低い(苫小牧17.2%・十條16.8%・本州8.5%)が、発足当初から国内第3位の製紙会社であった[6]。発足当初は主に、上質紙を始めとする印刷用紙や、インディア紙・ライスペーパー(紙巻きたばこの巻紙)・グラシン紙などの薄葉紙、電気絶縁紙などの特殊紙、それに白板紙を生産していた[7]。
1954年に、旧王子製紙が戦時中藤倉電線(現フジクラ)に貸与していた富士第2工場が本州製紙に返還され、製紙工場は計7か所となった[8]。
1956年(昭和31年)木下又三郎が(王子製紙副社長のまま)代表取締役に就任。会社再建を目的に、本社、各工場の設備合理化、生産能率の向上、人員の配置転換、人心の一新を講じた。
さらに原木から紙製品までの一貫生産を行う基幹工場の新設計画が打ち出され、
以上三点の視点から、北海道釧路市への立地を決定した。
敷地面積64万坪、建物面積1万2千坪、総投資額77億円と、東洋最大の巨大製紙工場がここに実現する。
(本州製紙社史より抜粋)
1959年(昭和34年)、釧路工場が操業を開始した。 当時の釧路市はまだ人口が少なく[9]、工場従業員の確保は困難であることから、東京から二等車、三等寝台車を連ねた貸切り列車を仕立て、船舶は三井の十勝丸で8回にわけて、大人250人、子供70人、計320人の東京からの大移動を実行し、釧路工場を稼働させた。 生産品は会社の基幹製品とすべく参入した段ボール原紙である[10]。
あわせて、同年から系列の北見パルプ(後の北陽製紙)でも生産を開始[11]、段ボール原紙メーカーの天塩川製紙(同じく後の北陽製紙)を1968年(昭和43年)系列とし、1970年代前半には系列の鶴崎パルプでも生産を開始する[12]など、段ボール原紙の生産体制を整えた。
原紙のほか段ボールそのものの加工体制もあわせて整備され、1963年(昭和38年)の日本聯合紙器製作所(後の本州パッケージ)を系列に加えたのを皮切りに、次々と段ボールメーカーを系列に加えていった。また、1972年(昭和47年)には江戸川工場に自社では初の段ボール生産ラインを設置している[13]。加工分野は段ボールのほかにも、1964年(昭和39年)富士加工事業所を設置して白板紙の1次加工(アルミ箔貼合・ポリエチレン加工・印刷など)を開始、1966年(昭和41年)からは同事業所で2次加工の紙器製造も開始した[14]。
2度のオイルショックによって紙パルプ業界では需要が激減し、業績が著しく悪化した。その影響を受けて本州製紙は、1975(昭和50)年度と1978(昭和53)年度の2回にわたって経常損失を計上した[15](本州製紙の赤字決算は、約50年間でこの2回だけである[3])。
特に段ボール原紙部門は需給ギャップが大きく、釧路工場の操業率は低下した。この対策として一部設備を印刷用紙や新聞用紙に転換することを決定、1977年(昭和52年)と1979年(昭和54年)の2度にわたって転換工事を実施した[16]。また、同様に業績を悪化させていた佐賀板紙・東信製紙・福岡製紙・三興製紙などの段ボール原紙メーカーに経営参加した[17]。段ボールメーカーの集約化も推進し、本州パッケージなど系列計10社が合併して本州ダンボール工業が1979年(昭和54年)に発足した[18]。
特殊紙部門では淀川工場が1974年(昭和49年)に製紙事業から撤退、その後は1971年(昭和46年)に参入したプラスチックフィルム生産設備が稼動を続けていたが、1975年(昭和50年)に新設の滋賀工場に移転した[19]。
グループの競争力強化を目的に、1983年傘下の福岡製紙・東信製紙を合併した。合併により製紙工場は福岡・松本の2工場が追加され、直営の段ボール工場も1工場から9工場に強化された。同時に傘下の段ボールメーカー本州ダンボール工業は、原紙メーカーの佐賀板紙を合併した[20]。さらに1986年、本州製紙は本州ダンボール工業を合併した。旧佐賀板紙の佐賀工場が製紙工場に加わり、直営のダンボール工場は33工場に増加した[21]。1987年には鶴崎パルプから営業権を譲り受けて、大分工場としている[22]。
製紙工場は計11工場となったが、そのうち福岡工場は都市計画に関連して1989年に閉鎖され、設備は大分工場に移設された[23]。
本州ダンボール工業を合併した1986年度の売上高は、王子製紙に次いで業界第2位の規模となった。しかし財務体質の改善が課題として残されていた[24]。そこで1988年、譲渡代金を借入金返済に充当し財務体質を強化することを目的に、子会社の本州コーポレーション(現・王子不動産)に釧路工場を譲渡した[25](1996年の新王子製紙との合併決定後、買い戻している[26])。
1996年10月1日、旧王子製紙の後継会社の一つである新王子製紙(旧苫小牧製紙)と本州製紙が合併し、王子製紙株式会社(3代目、現)が発足した(形式的には新王子製紙が存続会社で社名を変更し、本州製紙は解散している)[27]。新王子製紙は洋紙、本州製紙は板紙を中心に事業を展開していたが、洋紙・板紙の需要変動は必ずしも一致しないため経営リスクが分散できること、その他にも国際競争力の強化、取引先との価格交渉力の強化、といった点を合併の効果として挙げている[28]。
合併前の1994年度の時点では売上高ベースで本州製紙は業界第3位、新王子製紙は第2位であった(首位は十條製紙・山陽国策パルプの再編で発足した日本製紙)[29]が、新王子製紙・本州製紙の再編で発足した王子製紙は日本製紙を抜いて業界首位の製紙会社となった。
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