海陽町
徳島県海部郡の町 ウィキペディアから
徳島県海部郡の町 ウィキペディアから
海陽町(かいようちょう)は、徳島県の南部に位置する町。海部郡に属している。
かいようちょう 海陽町 | |||||
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国 | 日本 | ||||
地方 | 四国地方 | ||||
都道府県 | 徳島県 | ||||
郡 | 海部郡 | ||||
市町村コード | 36388-0 | ||||
法人番号 | 8000020363880 | ||||
面積 |
327.67km2 | ||||
総人口 |
7,570人 [編集] (推計人口、2024年10月1日) | ||||
人口密度 | 23.1人/km2 | ||||
隣接自治体 |
海部郡牟岐町、美波町、那賀郡那賀町 高知県:安芸郡東洋町、北川村、馬路村 | ||||
町の木 | 松 | ||||
町の花 | さつき | ||||
海陽町役場 | |||||
町長 | 三浦茂貴 | ||||
所在地 |
〒775-0203 徳島県海部郡海陽町大里字上中須128 北緯33度36分07秒 東経134度21分07秒 | ||||
外部リンク | 公式ウェブサイト | ||||
ウィキプロジェクト |
徳島県で最も南側に位置する町であり、太平洋に面している。
そのため、沿岸部は南海トラフ巨大地震による津波の被害を大きく受けることが予想されており、津波避難施設の設置が進められている。
また、2021年(令和3年)11月に同町に本社を置く阿佐海岸鉄道がデュアル・モード・ビークル(DMV)の運行を世界で初めて開始させ、鉄道ファンなどの間で話題となった町でもある。
北側には海部山地の険しい山々があり、ここに降り注いだ多量の雨水により同町の代表的な河川である海部川が形成される。海部川の流域は同町の広い範囲を占めており、太平洋へと開ける河口に市街地が位置している。 今後発生が予見されている南海トラフ巨大地震の際には、町内に最大12mの津波が到達することが予想されている。これは徳島県の市町別で2番目に大きな値となっている[1]。
典型的な太平洋側気候であるので降水量が非常に多く、強い台風の影響を受けることもしばしばある。
海陽(2009年 - 2020年)の気候 | |||||||||||||
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月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 21.1 (70) |
24.3 (75.7) |
25.7 (78.3) |
28.8 (83.8) |
30.2 (86.4) |
34.5 (94.1) |
36.0 (96.8) |
36.9 (98.4) |
35.8 (96.4) |
31.5 (88.7) |
27.4 (81.3) |
24.3 (75.7) |
36.9 (98.4) |
平均最高気温 °C (°F) | 12.0 (53.6) |
12.7 (54.9) |
15.6 (60.1) |
19.7 (67.5) |
23.9 (75) |
26.1 (79) |
30.0 (86) |
31.8 (89.2) |
28.8 (83.8) |
24.4 (75.9) |
19.4 (66.9) |
14.3 (57.7) |
21.6 (70.9) |
日平均気温 °C (°F) | 5.9 (42.6) |
7.2 (45) |
10.3 (50.5) |
14.6 (58.3) |
19.0 (66.2) |
22.2 (72) |
26.1 (79) |
27.4 (81.3) |
24.2 (75.6) |
19.4 (66.9) |
13.8 (56.8) |
8.2 (46.8) |
16.5 (61.7) |
平均最低気温 °C (°F) | 0.2 (32.4) |
1.7 (35.1) |
4.7 (40.5) |
9.2 (48.6) |
14.0 (57.2) |
18.8 (65.8) |
22.9 (73.2) |
23.7 (74.7) |
20.3 (68.5) |
14.8 (58.6) |
8.6 (47.5) |
2.6 (36.7) |
11.8 (53.2) |
最低気温記録 °C (°F) | −7.3 (18.9) |
−6.7 (19.9) |
−2.7 (27.1) |
0.0 (32) |
5.2 (41.4) |
11.8 (53.2) |
17.7 (63.9) |
17.1 (62.8) |
11.5 (52.7) |
5.9 (42.6) |
−0.4 (31.3) |
−4.2 (24.4) |
−7.3 (18.9) |
降水量 mm (inch) | 77.8 (3.063) |
133.8 (5.268) |
186.7 (7.35) |
286.9 (11.295) |
250.2 (9.85) |
453.0 (17.835) |
433.0 (17.047) |
311.8 (12.276) |
402.8 (15.858) |
341.3 (13.437) |
152.7 (6.012) |
117.3 (4.618) |
3,195.9 (125.823) |
平均降水日数 (≥1.0 mm) | 4.6 | 6.9 | 9.2 | 9.8 | 9.2 | 14.4 | 14.3 | 12.0 | 13.1 | 10.0 | 7.3 | 5.4 | 116.5 |
平均月間日照時間 | 202.7 | 172.6 | 199.5 | 201.4 | 215.8 | 137.1 | 169.2 | 223.0 | 154.4 | 165.8 | 171.4 | 195.8 | 2,209.8 |
出典1:Japan Meteorological Agency | |||||||||||||
出典2:気象庁[2] |
海陽町と全国の年齢別人口分布(2005年) | 海陽町の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 海陽町
■緑色 ― 日本全国 | ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
海陽町(に相当する地域)の人口の推移
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総務省統計局 国勢調査より |
古い時代には、海運が盛んな地域だった。豊富な森林資源と強力な海運力が、古い時代のこの地域の繁栄をもたらした。川の水力や風と海流と人力という燃料なしの航海術で遠距離への出荷が可能になっていたのであり、特産だった木材も刀剣も近代以前は海運なしには成立しない。
海部地区「芝遺跡」から出土した3世紀の県外他地域産土器の数は県内最多。調査面積も少なく推測の域を出ないが、この3世紀の時期に徳島・高知ルートとして海上ルートが開発されたと考えられる。弥生時代終わり頃から古墳時代始め頃の土器は、徳島・香川・高知・岡山・関西[3]。
この節の加筆が望まれています。 |
大里古墳(地図 - Google マップ)は県南最大の横穴式円墳。県指定史跡[4]。
935年「土佐日記」成立。これによって、紀貫之が阿波南部を船で帰京したことがわかる。寄港地には諸説ある。江戸期前半に土佐藩主参勤交代の港として使われ、江戸期を通じて藩の重要な港だった東洋町甲浦港が当てられることが多い。
1290年代、加賀の大乗寺開基家富樫氏の縁族という海部の郡司によって、曹洞宗中興の祖と言われる瑩山紹瑾[注釈 1]が、吉田の城満寺に招かれた。
1300年代後半、7万88枚の古銭が大里に埋蔵された。
史料に見える中世海部氏について。
このように、中世海部氏は文献上ではまず京都に登場してその名を知られる。中世阿波と細川氏の関係は深い。
旧海南町若松の御崎神社(祭神・猿田彦命)に県最古の鐘「永享の古鐘」が奉納されていた。銘文「阿州海部郡 細野村御崎 御宝前鐘也 永享四(1432)年11月吉日 願主 衛太夫」
1445年東大寺伝来史料「兵庫北関入船納帳」によれば海部船籍の船の兵庫への入港数は「四国一」、全体で見ても10位である[9]。
「兵庫北関入船納帳」というのは、東大寺の荘園であった兵庫北関(現神戸市兵庫区)において、文安2年(1445年)1年間にチェックされた入船の貨物状況を記録した帳簿である。林屋辰三郎が発見した。中世の関税台帳としては、同種史料がドイツハンザ同盟都市に1点残存しているのみという、極めて稀有の文献。記載内容は、入船月日・船籍所在地・貨物名。数量・関銭額・納入月日・船主名・問丸名。
千葉県佐倉「国立歴史民俗博物館」では、その貴重性のため「兵庫北関入船納帳」の複製が展示されている。
入港船数15隻以上の四国の港湾[10]
以上のように、中世阿波海部の海運は「四国一」なのである[11]。
前項のとおり、1445年当時は海陽町から神戸まで盛んに船が往来していた。積荷は木材である。このような遠い所から京都まで木材のような大きな物を運んだのは、日本では室町中期まで植林が行われず、浪費するばかりで木がなくなってしまったことによる。
南北朝の動乱で、京都・畿内近国は戦場と化し森林資源の浪費に拍車をかけた。京都五山の造営が始まった頃には畿内の森林は伐り尽くされ、用材は遠隔地の山奥へと求められた。
しかし大木があるだけでは伐り出しても運べない。海に近いか、いかだ流しができる大河川の流域沿いであることが必須である。その結果、東山道の美濃・飛騨と、南海道の阿波・土佐が選ばれた。
「兵庫北関入船納帳」によれば、
由良の木材も他の史料で、阿波方面の物資を扱っていたことがわかっているので、阿波産である。室町中期の阿波は、年間2万8千石以上の木材を畿内地方に搬出していた。そして、海部と宍喰、つまり現海陽町だけで、1445年、兵庫北関通過の阿波産木材の約半数になるのである[12]。
室町時代頃から「海部氏」の生産奨励によって「海部刀」が生産された。海部城主によって作られた海部刀も現存する。戦国時代に長宗我部元親の侵攻により海部城が落ちてからは衰退した。だが、慶長19年(1614年)の大阪冬の陣で蜂須賀至鎮臣下が海部刀を使い活躍して徳川家康と徳川秀忠より感状(感謝状)を下賜されたこともあり、江戸時代は徳島藩主蜂須賀氏に保護され、刀工・氏吉一族[13]は徳島城下に移って[注釈 2]幕末まで鍛刀した[14]。
1575年長宗我部元親が陸路に侵入し、瓦を使っていた県内三城の内の一つ「海部城」が落城した。城主が姻族の加勢のため讃岐に出征中で、戦力不在のため無血開城だった[16]。
木材の集散や海路の監視所として、海部川河口の「城山」は古くから重要拠点だった。城山はかつては周囲を海部川が巡り、海に臨む「島」だった。戦後に埋め立て造成が進んだ。ここに城が築かれたのはいつなのか、諸説あっても根拠の提示はなされていない。
戦時中は城山山麓に大規模な退避壕を構築[17]。城山山上には陸軍の監視所が設置され、監視員のための防空壕が構築された。それらの作業は浅川以南の各町村から奉仕隊が交代で出動し、のべ人員は1万人を数えた[18]。
町内には牟岐線・阿佐東線(阿波室戸シーサイドライン)が通っている。中心となる駅は阿波海南駅であり、全ての普通列車が停車する。町内にある駅は次の通り。
なし。
地域高規格道路は町内を通過していないが、阿南安芸自動車道の計画(阿南 - 安芸西IC間)があり、町内には浅川インターチェンジが浅川付近に、海部インターチェンジが多良付近に、宍喰インターチェンジが久保付近にそれぞれ設置される予定である。
なし。
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