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東海道五十三次

東海道にある53の宿場 ウィキペディアから

東海道五十三次
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東海道五十三次とうかいどうごじゅうさんつぎは、江戸時代に整備された五街道の一つ、東海道にある53の宿場を指す。古来、道中には風光明媚な場所や有名な名所旧跡が多く、浮世絵和歌俳句の題材にもしばしば取り上げられた。

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歌川広重『東海道五十三次』より「日本橋

なお、東海道の一部とされる大坂までの4宿(伏見宿淀宿枚方宿守口宿)を加えて、近年では東海道五十七次と唱えることもある(→#東海道五十七次)。

また、奈良時代の律令制による東海道では、延喜式によると、伊勢の鈴鹿駅から常陸の雄薩(おさか)駅まで55駅が設置されている。 道標に、一里塚東海道の一里塚一覧)が、江戸幕府参勤交代のため、各宿場本陣脇本陣旅籠)が指定された。

五十三次の一覧

要約
視点
概要 節内の全座標を示した地図 - OSM ...

数は品川宿からの通し番号である。江戸と京の間は里程1248、487.8キロメートル (km)。 

東海道五十三次には、旅籠が全部で3000軒近くあったといわれ、宿場ごとによってその数は著しい差があった。人口の多い江戸や京都周辺や、箱根峠七里の渡しなど、交通難所を控えた宿場も多かった[1]。特に旅籠の数が多かった宿場は、七里の渡しの港があった宮宿(熱田宿)が247軒とその数は群を抜き、その対岸の桑名宿も120軒あった[1]。宮宿は旅籠の数では、東海道はもとより日本一大きな宿場町であった[1]。他に100軒を超えたのは、岡崎宿の112軒である[1]箱根八里の東麓に位置する小田原宿は95軒、西麓の三島宿にも74軒の旅籠があり、その手前の大磯宿(66軒)、平塚宿(54軒)、藤沢宿(45軒)と比べると多かった[1]。このほか旅籠の多い宿場は、品川宿(93軒)、川崎宿(72軒)、戸塚宿(75軒)、浜松宿(94軒)、四日市宿(98軒)、草津宿(72軒)、大津宿(71軒)があった[1]

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東海道五十七次

東海道の終点(西の起点)を京・三条大橋に置くと東海道は53の宿を継いでいく「東海道五十三次」となるが、江戸幕府は、大坂・京橋(のちに高麗橋)までの道筋に、伏見宿淀宿枚方宿守口宿を置き、後にこの4宿を通る延長部分も含めた区間を東海道と規定する文書[注釈 1][注釈 2]を発出している[2][注釈 3]。そこで、品川宿から大津宿の53宿に、この4宿を加えて、近年「東海道五十七次」ということがある[4]。この名称は、東海道の宿場制度制定(慶長6年(1601年))から400周年を控えた1999年に新聞に掲載されるなど、およそ20世紀末ごろから一般に用いられるようになった[5]

延長部分の4宿へは、大津宿の先の追分(髭茶屋追分)で三条大橋への道と分かれ、大津街道を通り伏見宿に至り、伏見宿から京街道[注釈 4]の淀宿・枚方宿・守口宿を経て大坂・京橋に至る。すなわちこの経路をたどると、京・三条大橋には至らない。そのため、京(洛中)を避ける参勤交代の経路として用いられた[6]。この東海道の延長部分は大津街道の一部(伏見宿から髭茶屋追分まで)と京街道の一部(大坂・京橋から伏見宿まで)により構成される[4]。この大津街道は京に向かわないため京街道とは言われないことから、東海道の延長部分全体を指して京街道と呼ぶのは誤りである。

また、この京街道は大坂からは途中の淀宿あるいは伏見宿までは東海道(の延長部分)と同じ経路であるが、淀または伏見から東海道を外れ、淀から鳥羽街道を経て東寺口(鳥羽口)、また伏見からは伏見街道を経て五条橋口[7]あるいは竹田街道を経て東洞院通(竹田口)[8]と、三条大橋とは異なる京(洛中)の出入口に通じている。

以下に大津宿から大坂まで(延長部分の4宿)について記す。数は品川宿からの通し番号である。

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脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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