Loading AI tools
秋田市の町 ウィキペディアから
手形(てがた)は秋田県秋田市にある大字である。郵便番号は010-0851。住居表示未実施地区。また、大字手形の周辺にあり「手形」を冠した町名を持つ地区の総称でもある。大字手形の人口は6,052人、大字手形を除く手形各町の合計人口は4,076人(2011年2月1日現在, 住民基本台帳による)。
本項では、交通・施設の節では現在の大字手形について、その他の節で特に明記しない場合は地域総称としての手形について述べる。「手形」を冠する各町については手形学園町・手形からみでん・手形休下町・手形新栄町・手形住吉町・手形田中・手形山崎町を参照。
秋田市の東部、旭川中下流域の左岸に位置する。北東部に太平山から連なる尾根の末端である手形山(標高97.8m)があり、西部は旭川、南西部はJR奥羽本線に隔てられている。かつては旭川の右岸に字向搦田が存在したが、1980年(昭和55年)4月1日の住居表示実施に伴う区画整理で右岸域はすべて泉地区に編入された。
平野部の多くが住宅地であり、また秋田県道15号秋田八郎潟線・秋田県道28号秋田岩見船岡線沿いには飲食店や小規模な商業施設が密集している。手形学園町に秋田大学手形キャンパスがあり、文教地区・学生街の色合いも強い。
早い段階から宅地化が進んだ地区中央部(かつての字田中・字深田・字搦田付近)は、住居表示実施に伴い新たな町となって大字から離脱しており、現在の大字手形は南北に大きく分かれ東部の字大沢・字蛇野で細く繋がる形になっている。
地区南部(字山崎・字西谷地・字中谷地・字十七流)は秋田駅に対して北東に隣接する。秋田駅は開業から長い間西口しか無く、東側は「駅裏」と呼ばれる農業地帯だったが、手形を含む駅東地区の宅地化・人口急増に伴い、かつては現在よりも南に大きく広がっていた字西谷地(南端は富士山の北麓近くまで達していた。右の南部写真の下端付近)などが一部分割され、楢山・広面の各一部とともに新たな町である東通になっている。その後1989年に秋田駅東西連絡橋(Weロード)が作られ、1997年の駅舎改築で正式に東口が設置された。以後も秋田駅東地区再開発事業が進行中であり、区画整理・道路拡幅などが続けられている。当地区の幹線道路である都市計画道路明田外旭川線の新道区間が2010年7月29日に暫定開通した[3]。全面開通は2011年度中の予定。
手形地域全体としては、北は旭川南町・新藤田、東は柳田・広面・手形山西町・蛇野、南は東通・東通仲町、西は中通・千秋城下町・千秋北の丸・保戸野金砂町・泉馬場に接する。大字手形としては、西で中通・手形新栄町・手形山崎町・手形学園町・手形田中に接する。
16の小字が設置されていたが、うち4の小字は住居表示実施に伴う区画整理で全域が他地区へ編入され消滅した。
久保田藩主佐竹氏の居城である久保田城の東部に位置する。築城前は旭川の古流路が流れ込む低湿地であり、「手形」の「形」も「潟」の意であろうと考えられている[4]。異説として、字大沢の正洞院(明治初期に廃寺)に弘法大師の手形が捺された仏像があったという伝説もあるが、正洞院は久保田藩初代藩主佐竹義宣の正室の墓所として常陸国に建立され、佐竹氏の秋田転封に伴い移転してきた寺であるため、時代が合わず疑問視されている[5]。
江戸時代以前の資料である「秋田城之介分限帳」「豊臣秀吉朱印蔵入帳」に、手形を示すと考えられる地名は無い[6]。「梅津政景日記」元和6年10月24日(1620年11月18日)の条に「手形之新屋敷、小野崎源三郎殿を始、苅和野衆へ無残相渡候」とあるのが初見であり、これは手形堀反町のことである[7]。同日記の寛永2年3月26日(1625年5月2日)の条に「窪田手方村百姓共侘言申分ハ、田地之内道屋敷江堀川川かけに罷成候間、御検地申請度」とあるのが手形村の初見である[6][7]。享和3年(1803年)の「出羽国郡村仮名附帳」に手形村は向搦田村・搦田村・向田中村・田中村・稲沢村・小沢村・大沢村・蛇野村・野崎村の9村の惣名であると記されており、「六郡郡邑記」によるとこれらはすべて江戸時代に新規開拓された村であるため、築城前には「手潟」はあったものの村はなかったと考えられている[7]。
また、享保15年(1730年)「享保郡邑記」には手形村の他に「山崎村」の記述があり、正保以前に開拓された鋤延新田で、肝煎は手形村に居住した上で黒印郷帳を受けていたものとされる[8]。文化12年(1815年)の「秋田風土記」に山崎村の記述は無く、この頃までに手形村へ編入されたものと見られている[5][8]。
久保田城に近接した地区は「手形」の名を冠する侍町となり、手形上町、手形堀反町、手形谷地町上丁・下丁、手形新町上丁・下丁、手形休下町、手形本新町、手形西新町、手形東新町の10町があった。特に手形上町は重臣屋敷が集まる三ノ丸の一角であり、手形堀反町も高禄の家臣が住む屋敷町であった。これらの町名は手形休下町を除きすべて1966年(昭和41年)4月1日の住居表示実施に伴う町名整理で消滅しており、唯一名が残った手形休下町も区画は大きく変更されている。
なお手形上町は、同じく三ノ丸である上中城町と共に、明治以降に区画が大きく変更されている[9]。江戸時代の区画に対し昭和初期からの区画は、南側が上中城町に編入されており、逆に北側は北ノ丸の丘陵部を編入していた[10][11]。1901年(明治34年)「秋田市詳密地図 附商工人名記」と1902年(明治35年)「秋田市全図」の間で手形上町・上中城町の記載位置に変化があるため[12]、区画変更はこの頃と考えられる。
以下はすべて住居表示実施に伴う変更。
実施前 | 実施年月日 | 実施後 |
---|---|---|
手形字扇田 | 昭和55年4月1日 | 旭川南町(一部) あさひかわみなみまち |
(残存)手形字扇田 | ||
手形字大沢 | 昭和56年4月1日 | 手形山西町(一部) てがたやまにしまち |
(残存)手形字大沢 | ||
手形字大松沢 | 昭和41年4月1日 | 手形田中(一部) てがたたなか |
(残存)手形字大松沢 | ||
手形字上川原 | 昭和55年4月1日 | 旭川南町(一部) あさひかわみなみまち |
手形からみでん(一部) てがたからみでん | ||
(残存)手形字上川原 | ||
手形字搦田 | 昭和41年4月1日 | 手形からみでん(一部) てがたからみでん |
手形田中(一部) てがたたなか | ||
手形字才ノ浜 | (残存)手形字才ノ浜 | |
手形字十七流 | 平成7年10月1日 | 東通一丁目(一部) ひがしどおりいっちょうめ |
東通二丁目(一部) ひがしどおりにちょうめ | ||
(残存)手形字十七流 | ||
手形字田中 | 昭和41年4月1日 | 手形学園町(一部) てがたがくえんまち |
手形からみでん(一部) てがたからみでん | ||
手形田中(一部) てがたたなか | ||
手形字中台 | (残存)手形字中台 | |
手形字中谷地 | 平成7年10月1日 | 東通一丁目(一部) ひがしどおりいっちょうめ |
東通六丁目(一部) ひがしどおりろくちょうめ | ||
(残存)手形字中谷地 | ||
手形字西谷地 | 昭和41年4月1日 | 手形山崎町(一部) てがたやまざきちょう |
平成7年10月1日 | 東通一丁目(一部) ひがしどおりいっちょうめ | |
東通六丁目(一部) ひがしどおりろくちょうめ | ||
東通七丁目(一部) ひがしどおりななちょうめ | ||
昭和54年4月1日 | 東通仲町(一部) ひがしどおりなかまち | |
平成18年2月1日 | ||
(残存)手形字西谷地 | ||
手形字深田 | 昭和41年4月1日 | 手形学園町(一部) てがたがくえんまち |
手形田中(一部) てがたたなか | ||
手形山崎町(一部) てがたやまざきちょう | ||
手形字蛇野 | (残存)手形字蛇野 | |
手形字向搦田 | 昭和55年4月1日 | 泉馬場(一部) いずみばば |
泉東町(一部) いずみひがしまち | ||
手形字山崎 | 昭和41年4月1日 | 手形新栄町(一部) てがたしんさかえまち |
手形山崎町(一部) てがたやまざきちょう | ||
(残存)手形字山崎 |
南西部をJR奥羽本線が通り、秋田駅東口に近接している。但し駅本屋の所在地は中通七丁目、駅東口の所在地は東通仲町、線路用地は千秋城下町・千秋北の丸・千秋中島町であるなど、手形そのものに所在する施設・構造物は無い。
強調は上り下りいずれかが大字手形にある停留所。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.