広島西飛行場
かつて飛行場であった広島県広島市にあるヘリポート ウィキペディアから
かつて飛行場であった広島県広島市にあるヘリポート ウィキペディアから
広島西飛行場(ひろしまにしひこうじょう、Hiroshima-Nishi Airport)は、広島県広島市西区観音新町にかつて存在した飛行場である。1993年の(新)広島空港開港まではこの飛行場が(旧)広島空港を名乗っていた。
広島西飛行場(閉港) Hiroshima-Nishi Airport (Closed) | |||||||||
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現・広島ヘリポートターミナルビル(2022年) | |||||||||
広島西飛行場時代のターミナルビル(2008年) | |||||||||
IATA: | |||||||||
概要 | |||||||||
国・地域 | 日本 | ||||||||
所在地 | 広島県広島市 | ||||||||
種類 | その他飛行場 | ||||||||
運営者 | 広島県 | ||||||||
開港 |
1993年10月29日 (広島空港としては1961年9月15日) | ||||||||
閉鎖 | 2012年11月15日 | ||||||||
標高 | 3 m (9 ft) | ||||||||
座標 | 北緯34度22分17秒 東経132度25分04秒 | ||||||||
公式サイト | 広島西飛行場[リンク切れ] | ||||||||
滑走路 | |||||||||
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リスト | |||||||||
空港の一覧 |
定期路線があった空港としては日本初の廃港例となった。
現在は広島ヘリポートとして、ヘリポートの機能のみが残されている。
同年、年間乗降客者数が初の100万人突破。
空港ターミナルは1961年の開港時に完成した。開港当初は東京国際空港の旅客ターミナルに次ぐ規模だった。その後、旅客数の増加などにより増改築が行われ、1984年頃には現在とほぼ同じ姿になった。 84年の改修後は増築部に出発ロビーやレストラン・売店などの機能を設置し、既存部分は到着ロビーや手荷物受取所として使われた。 以下では1988年頃から1993年の本郷移転前にかけて設置されていた施設を紹介する。
1993年の本郷移転後はターミナルとしての機能を旧到着ロビー跡に集約し、旧出発ロビーはメイプルプラザと称して物産館やスーパーマーケット、セガのゲームセンターが入る施設に転用されたが、集客に苦戦し数年で閉鎖された。その後は現在までサッカーチームサンフレッチェ広島の事務所として1階部分を使用されている。
ここでは1993年10月当時の路線を示す。
かつての定期就航路線
かつて就航計画があった路線・航空会社
参考資料:
また、ジェイエアは設立当初から2005年の撤退まで拠点空港としていた。
運行本数・運賃・経路等の詳細は、該当項目や公式サイトにて最新情報を確認のこと。
広島空港・広島西飛行場であった当時は、構内を始終点とする路線バスが数多く運行されていた。ヘリポートとなった現在でも、近隣に三菱重工業の広島製作所(観音工場)があることなどから、構内を始終点とするバスが朝晩を中心に運行されている。
定期便就航当時は、広島空港発着便との乗り継ぎに必要な時間が「150分以上[15]」と案内されていた。両空港を直通する公共交通機関はないため、広島駅や紙屋町(広島バスセンター)にて乗り継ぐことになる。
広島の空の玄関口として活用されてきたが、滑走路長が1,800mしかないため、ボーイング767-300クラスの中型ジェット旅客機しか離着陸できず、大型ジェット旅客機[16]は離着陸できないため、増大する航空需要に応えられないという問題があった。用地上の問題から拡張が困難なこともあって、当空港の機能の大部分を1993年(平成5年)に豊田郡本郷町(現・三原市)に新たに建設された新空港(現・広島空港)に移転、その後は広島県管理のその他飛行場である「広島西飛行場」として運営されていた。
広島西飛行場は県営空港であると共に、広島市に所在する唯一の空港であることから、空港管理運営費の赤字分、整備事業費、環境対策費は、広島県と広島市で折半している状況であった[17]。広島市では搭乗率の目標値を掲げて飛行場の利用促進を市の施策目標として掲げていた[18]が、小型プロペラ機であるサーブ340Bによる2路線でも搭乗率は50 %台[18]と、芳しいとは言えない状況であった。
また、飛行場の北側で滑走路の延長線上を東西に横断する広島南道路の建設方法を巡って、飛行場の機能維持を求めてトンネル方式を主張する広島市と工費縮減の観点から橋梁方式を主張する広島県との間で対立があったが、2004年5月31日に開催された藤田雄山広島県知事と秋葉忠利広島市長とのトップ会談によって橋梁方式での建設に合意し、滑走路北端部を340 m南側に移動する必要がある[17]ことから、飛行場機能の縮小が避けられない状況となっていた。広島市は、リージョナルジェットによる羽田空港への直行便復活を模索していたが、空港の管理者が広島県ということもあり、具体的な方向性には乏しい状況だった。
2007年(平成19年)10月17日、藤田広島県知事は定例記者会見での質疑応答の中で「県としては西飛行場そのものをもはや必要としていない」、「安佐南のほうの方でしたら広島空港に行ったほうが早い。西飛行場のほうが便利だっていう方はごく一部」と、空港機能を広島空港に集約し、西飛行場を廃止させたい意向を表明する[19]。これにより、広島西飛行場の存廃問題が一躍クローズアップされることとなった(ただし、航空路線を広島空港に集約させたいとの広島県の意向は、この会見より前からの基本的スタンスであった[20])。
ちなみに、2005(平成17)年度の旅客数は67,059人、2008(平成20)年度の旅客数は56,453人[21]であった。
2009年(平成21年)9月16日付の読売新聞は、ジェイエアが広島西飛行場を含む国内7空港からの撤退を決めたと報じた(実際に撤退を発表したのは2010年〈平成22年〉4月28日[22])。定期路線が無くなった時点での運営からの撤退を検討していた広島県は2009年(平成21年)10月22日、広島西飛行場の管理運営から撤退する方針を固め[23]、今後、広島市が存続を希望するなら単独で赤字負担をするよう広島市に申し入れた。
広島市は単独負担を拒否する構えであったが、2010年(平成22年)1月27日に行われた藤田の後任である湯崎英彦広島県知事と秋葉広島市長との会談で、知事は県市共同で運営するヘリポートに転換するよう提案した。市長は東京(羽田)線誘致を視野に入れ、市営化かヘリポート化かを2010(平成22)年度中に判断することで合意する[24]。広島市では「広島西飛行場あり方検討委員会」を設置して市営空港化の検討を行い、2010年12月27日秋葉市長は湯崎知事との会談で市営空港として運営する旨の方針を表明[25]し、翌年2月市議会に「広島シティ空港条例制定案」を提出したが、否決された[26][27]。湯崎知事は3月8日の記者会見で「本会議で市営化を否決された場合は、市の重大な意思決定だと受け止める」として西飛行場を廃港し、市に提案していた県市共同運営のヘリポートに転換する手続きを早期に進めるとして[28]、3月14日には「広島県広島西飛行場条例を廃止する条例」を公布した。秋葉の後任として当選した松井一實は2011年(平成23年)5月27日の湯崎知事との会談で市営化断念とヘリポート化受け入れを表明し[29]、この時点で2012年末での廃港・ヘリポート化が事実上決着した。
その後、広島県は「広島県広島ヘリポート条例」を公布、広島西飛行場を広島ヘリポートとして運用することを決定した。2012年(平成24年)11月15日午前0時をもって広島西飛行場としては廃港され、同時に広島ヘリポートとしての業務を開始した[30]。今後は滑走路北端を横切る広島南道路の工事の進み具合に合わせて敷地面積を縮小させ、並行してドクターヘリの拠点として出動に備える医師や看護師が待機、研修する拠点を2013(平成25)年度末までに1億円かけて整備された。
2019年(令和元年)5月、大和ハウス工業(大阪市北区)が、広島西飛行場跡地に開発する産業団地「広島イノベーション・テクノ・ポート」の着手を発表した[31]。立地を生かしてテナント企業のニーズに応え、建物着工開始は2022年4月、事業完了は2023年春をそれぞれ予定する[32]。
1971年8月3日13時22分頃。東亜国内航空所属のYS-11「おき」(製造番号2038)が訓練中にオーバーラン。乗員3人は全員無事。左プロペラなどを損傷した[33][34]。
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