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日本の実業家 (1961-) ウィキペディアから
川原 ひろし(浩史)(かわはら ひろし、1964年3月13日 - )は、日本の実業家。ラーメン店「なんでんかんでん」を経営している株式会社なんでんかんでんHD代表取締役社長。歌手、タレント、 俳優、催眠術師(十文字幻斉の一番弟子)。
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7年間太田プロダクションに所属していたが、現在は、個人事務所オフィスありがとうございます、2017年からカロスエンターテイメント業務提携。
貿易会社を経営する父義充、母京子との長男として、博多区冷泉町に生まれる。祖父の儀夫は、福岡でも名を馳せた投資家で、かなりの財を成したと言われる。また、大叔父(祖父の弟)は博多名物の辛子明太子の考案、開発者で「ふくや」の創業者・川原俊夫[1]、父は貿易関係の経営者であった[1]。母方が芸術系の家系であったこともあり、4歳から福岡クラシック音楽の名門福岡音楽学院附属幼稚園に入園。 入園当初、ヴァイオリンを習っていたが、ヴァイオリンの先生が父兄と教育方針で対立、ピアノ、声楽に転向、小学校高学年まで通っていた。またこの頃からラーメンが大好きで、お年玉や小遣いを貯めては小学生ながら一人でラーメン屋まで出かけていた。福岡市立当仁小学校卒業後大阪府寝屋川市香里園にいた親戚に預けられていたが中学2年の時、福岡の福岡市立当仁中学校、3年生からは福岡市立高宮中学校に戻っている。大阪の時代に歌手にも憧れを持つようになり、最初に夢中になったのは西城秀樹[1]。「ちぎれた愛」が大好きで、幼い頃から声楽を学んでいたこともあって歌が上手く、人前で色々と披露することが大好きで、小学校のとき先生に頼み、授業の1時間を"川原ひろしショー"にしたことがある[1]。 中学生に入るとアコースティックギターを始めて吉田拓郎や井上陽水をコピーしたり作曲もするようになる。[1]。当時ギターをやれば女性によくもて、自身もよくもてたという[1]。高校に進学するとロックに夢中になり、ディープパープルのリッチー・ブラックモアが好きで、将来はロックギタリストになりたいと腕を磨いたが[1]、卒業寸前になり、やはりクラシック音楽の魅力には勝てないと、ピアノを猛練習、オペラ歌手を目指すようになる[2]。
一年間浪人した後[1]、一時期は、オペラ歌手に憧れ音大を目指したこともあったが、断念。幼い頃から親戚づきあいしていたバーニングプロダクション所属第一号歌手(タレント)であり、レコード大賞新人賞の本郷直樹を頼り、歌手を目指し上京。たまたま雑誌に掲載されていた作曲家の募集に応募したことがきっかけで東芝レコードから「打碁一代」という曲で作曲家としてデビューした。作曲家デビューとはいえ、嬉しくて博多で行われた同窓会でしかし自分で歌を歌いたいということで、両親がシャンソン、旦木が好きだった影響もあってか、シャンソンタンゴ歌手として活動する。作曲家デビューした際のプロデューサーが、日本シャンソン界の殿堂でもある銀パリのプロデューサーでもあったこともあって、銀巴里のステージにも立つ。 居酒屋で父の大学の時の友人の講談師神田勢山と飲むことになり、昭和の大御所漫才師のWけんじが前座歌手を探していると聞いて紹介を受け、その場で弟子として共に行動するようになる[1]。そのかたわら司会やお笑いにも興味を持ち、漫才コンビを組んだ後、漫談家になったこともある。また、春日八郎、和田弘とマヒナスターズ、[[]]等の司会など、歌以外の仕事も受けていた[3]。店を出すまでの3年間はWけんじと行動をともにした[1]。
上京してうどんのつゆの黒さとラーメンの違い、特に東京に「とんこつラーメン」が無かったことに驚いたこと、川原は、師匠の宮城けんじの応援もあり「博多ラーメン」を修得するためにいったん帰省、主に実家の台所で研究を重ねていた。再上京し1987年7月、東京都世田谷区の幹線道路・環七通り沿いにとんこつラーメン店、『なんでんかんでん』を開業、5年後には日商120万円を超える日も出るほどの繁盛店となった。“なんでんかんでん”の成功をきっかけにこれまで若者が敬遠しがちだったラーメンもトレンディーなビジネスとなった。2009年 文化の日、ラーメンを日本の文化にした功績が認められ、【東久邇宮文化褒賞】受賞。 川原自身も、2001年に放送が開始されたテレビのバラエティ番組『マネーの虎』(日本テレビ系列)に投資家として出演したことがきっかけでブレイク、独特のキャラクターで多くのテレビ出演をこなすなど、タレント活動も平行して行った[2]。2003年にはミュージシャン・氏神一番とともに音楽バンド「ラーメンロック」を結成、2003年6月4日には同名のCDを発売[4]、日本テレビ歌スタ!!のオープニングソングなど、多くのテレビ挿入歌も歌っている。
2015年までに全てのなんでんかんでん店舗が閉店した[5][6] が、2018年9月に高円寺に店舗を再オープンしている[7]。2019年11月に高円寺店を閉店して2020年2月に渋谷へ移転したが[8]、渋谷店はコロナ禍のため2020年6月に閉店した[8]。
なんでんかんでんの公式サイトにある「なんでんかんでん伝説」によると[9]、特に固い麺を表す「粉落とし(こなおとし)」は、川原が命名した呼称である。創業当時の顧客からのリクエストに答えたことから誕生した。
また、海苔にプリントする技術“プリント海苔”は、川原と海苔メーカー大政が共同開発、特許取得した商品であり、広告や販促品として広く使われている。なお、大政はなんでんかんでんフーズの関連会社となっている。
現在、大政は葬祭関連をやっており、川原は取締役となっている。なんでんかんでん閉店後に「これだけ豚骨ラーメンを東京に広めたので、布教活動は終えたかなと思います。」という言葉を残している[10]。その後、講演活動や歌手、タレント、 俳優、催眠術師、接客繁盛術セミナー講師等の活動を行っている。
その他 多数出演
その他多数出演
その他多数出演
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志に他多数出演
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