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宮城県仙台市にある高等学校 ウィキペディアから
宮城県仙台第三高等学校(みやぎけんせんだいだいさんこうとうがっこう)は、宮城県仙台市宮城野区鶴ケ谷一丁目にある県立高等学校。通称は「三高」(さんこう)もしくは「仙台三高」(せんだいさんこう)。2010年(平成22年)から第Ⅰ期スーパーサイエンスハイスクール(SSH)に指定され、2017年(平成29年)に第Ⅱ期、2022年(令和4年)に第Ⅲ期のスーパーサイエンスハイスクール指定を受けている。
宮城県仙台第三高等学校 | |
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北緯38度17分12.2秒 東経140度54分33.5秒 | |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 宮城県 |
理念 |
心身の健康 真・善・美の追求 愛と知の稔り |
設立年月日 | 1963年 |
共学・別学 | 男女共学 |
課程 | 全日制 |
設置学科 | 普通科・理数科 |
学期 | 前後期制 |
学校コード | D104211020015 |
高校コード | 04103D |
所在地 | 〒983-0824 |
外部リンク | 公式ウェブサイト |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
団塊の世代の高校進学を迎えて高校の増設が急務となっていたことや、同時期仙台市より普通科高校の設置の要望が出されていたことから、これらを受ける形で1963年に開校した。
1968年には宮城県初、全国的にも早い段階で理数科が設置された。
元々は進学実績で県内でも上位となるように生徒の教育指導を行っている。
2009年度より共学化されたが、校章・校歌はそのまま使用されている。共学化を推進したのは、当時の宮城県知事で仙台二高OBの浅野史郎だった。
仙台三高の通用口に職員用は存在しない。教職員、生徒共に同じ通用口から出入りする。事務室脇の通用口は、来客用と校長専用である。同様に教職員用の便所も存在しなかったが、2006年には存在している。新校舎への建て替え後も、「一部トイレの生徒使用禁止」に留まっており、これは初代校長、小針寿一の、常に師弟は共にあるべきという理念による。
仙台三高は制服の自由を採用しているが、これは単なる私服とは全く意味が異なる。即ち単なる『「規制」からの「自由」という考えに立つものではなく、「服装の自由化」を通して自主性・自律性を高めあうという不断の努力が要求される』(生徒手帳内「制服自由化」に思うより抜粋)のであり、これが満たされていない制服の自由に全く意味はないとのことである。1970年3月の文書「制服自由化に思う」を以下に引用する。
数多くの高校において、制服着用が制度化されている 現在、我々はH・R討論を基礎に、服装問題臨時委員会において集約した結果「服装の自由化」が確認された。討論の過程で服装が自由化されることに伴い次のような問題が指摘された。
- ○怠学、非行化の増加の危機
- ○三高生としての集団意識の弱体化、特に応援活動等への非協力
- ○我々の間に貧富の差等の差別感情が持ち込まれることによる、我々相互の信頼感の希薄化
従来、服装は学校によって基準が示され、我々はそれに盲目的に従ってさえいればよかった。
しかし、服装が自由化された現在、我々は自分達の服装は如何にあるべきかを主体的に考えなければならないし、自律的態度を養うことが求められる。
この様な観点を見失っては、「服装自由化」の持つ意義が雲散霧消されてしまうであろう。
この決意を忘れないために、この機会に記しておきたい。
我々は単に「規制」からの「自由」という考えに立つのではなく、「服装の自由化」を通して我々の自主性・自律性を高めていくという不断の努力を惜しまないことを確かめ合おうではないか。
ちなみに、制服自由化が定められた後も、当時の代議委員長は制服着用であった。
開校当初は生徒会長制をとっていたが、生徒会活動への無関心化、民主的な生徒会運営などを理由とし、代議員制を採用した。移行中、賛成派・反対派両方の生徒会長が選出され、移行には数年の年月を要している。代議員制の導入により意志決定は代議員会により行われ、全校生徒の投票により選出される役員は、代議員会議長、会計長、監査委員長、応援団長である。 なお、2022年度後期生徒総会において、一部の生徒に過度な負担がかかるなどの理由で、生徒会長制の復活を求める議案が賛成多数により可決した。
上記のように2022年(令和4年)の後期生徒総会において生徒会制に移行されることが決定され、翌年の2023年(令和5年)から1971年に代議員制に移行してから約半世紀ぶりに第十代となる生徒会長が誕生した。
仙台三高は県内のナンバースクールや進学校の中では部活動が盛んであることが知られている。また、高いレベルでの文武両道を謳っており、全国大会に出場するなど目覚ましい成績を残している部活もある。特に県内でも強豪といわれているのが、運動部ではフェンシング、ラグビー、陸上競技、硬式テニス、文化部では放送部、自然科学部である。特に自然科学部はSSH指定校ということもあり、非常に高いレベルでの研究活動を行っており、全国大会常連であり近年では国際大会にも日本代表として出場している。
太平洋の波と、蛍雪の蛍から図案化したものである。当初は開校した土地一帯が通称「重箱山」と称されていたことから、重箱を重ねたものとする案もあったが、初代小針校長が、校地から見える太平洋に着想を得て、この校章となった。
学校で最初に作られたのは逍遙歌であり、校歌ではない。応援歌は殆どが開校時に作られたが、のちに歌われなくなった歌も数曲ある。
本校応援団(正式には應援團)は所謂バンカラスタイルの応援団である。応援団は新入生に対して応援歌歌唱指導を行う。これは校歌、応援歌をはじめ、挨拶や応援の仕方などを新入生に教えるための伝統の行事であり、入学式の翌日、すなわち生徒会入会式・応援団歓迎会後に開始され、約一週間後、新入生の練度に応じて期間が延長される。応援スタイルは開校時に仙台一高の応援団に手ほどきを受け、技法を確立した。
また、応援団は各部活の応援に積極的に参加し、野球部の甲子園予選やラグビー部の花園予選は勿論、応援できない部活(剣道やフェンシング等)にもエールをおくり、親睦を深めている。また、近年では仙台二高の応援団との盛んな交流が行われている。
中央校舎(建築当初は南校舎)・北校舎・西校舎・南校舎の順に建築された。南校舎建築時点で、旧南校舎が、中央校舎と名称が変更になった。三高の校舎設計は、数年前に改築された仙台一高の校舎設計を継承したものであり、また以降開校した各高校に受け継がれている。デザイン上の特徴として、中央校舎の廊下部分に採光小窓があり、これがアクセントとなっていた。環境アセスメントやボーリング調査といった過程が、まだ存在していなかった昭和30年代に建築された校舎であったので、耐震性についてあまり考慮されず、またこの地が非常に軟弱な地盤であったことが明らかになっていなかったために、昭和53年に発生した宮城県沖地震により大きな被害を受けて老朽化が急速に進行、さらに平成17年にも発生した同地震において当建築物は決定的な損害を受け、この時点で近い将来発生する震度5強以上の地震で全壊すると県教育委員会より警告されたため、耐用年数の50年を待たずして耐震性を考慮した校舎の一斉建て替えが決行された。なお、建て替え完了から2年後の平成23年に東北地方太平洋沖地震が発生しており、結果論ではあるが建て替えがなければ倒壊していただろうと考えられる。
開校以来「尚志庵」が営業していたが、現在は食中毒の発生、高齢化に伴い営業を辞退し、2008年の新学期(4月)から「尚志庵」の名前を引き継ぎ新業者が営業を開始している。券売機の設置や日替わり丼、フェアを行うなど近代的な学生食堂へ様変わりしている。
平成17年、中央校舎1階に個人ブース形式の机が並べられた自習室が完成した。新校舎になると共に2階昇降口左に設置された、校内でエアコンが設置されている部屋の一つである。
自転車通学が可能であり実際にもっとも多い通学手段ではあるものの登下校時に坂が連続するため、電動アシスト等の補助動力無しではやや困難である。そのため、共学化してからは地下鉄から乗り換え、バス通学している生徒も少なくない。
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