孝安天皇(こうあんてんのう、孝昭天皇49年 - 孝安天皇102年1月9日)は、日本の第6代とされる天皇(在位:孝安天皇元年1月7日 - 孝安天皇102年1月9日)。『日本書紀』での名は日本足彦国押人天皇欠史八代の1人であり、実在性については諸説ある。実在すれば、1世紀中頃から2世紀前半頃。また、後漢安帝永初元年(西暦107年)に朝貢した倭国王帥升とする説もある。

概要 孝安天皇, 第6代天皇 ...
孝安天皇
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『御歴代百廿一天皇御尊影』より「孝安天皇」(部分)

在位期間
孝安天皇元年1月7日 - 孝安天皇102年1月9日
時代 伝承の時代
先代 孝昭天皇
次代 孝霊天皇

誕生 孝昭天皇49年
崩御 孝安天皇102年1月9日 137歳
陵所 玉手丘上陵
漢風諡号 孝安天皇
日本足彦国押人天皇(紀)
大倭帯日子国押人命(記)
父親 孝昭天皇
母親 世襲足媛
皇后 押媛
子女 大吉備諸進命
大日本根子彦太瓊尊(孝霊天皇
皇居 室秋津島宮

欠史八代の1人。
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略歴

観松彦香殖稲天皇(孝昭天皇)の第二皇子。母は皇后尾張連祖の瀛津世襲(奥津余曽)の妹の世襲足媛尊。同母兄に和珥臣祖の天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと、天押帯日子命)がいる。父帝が崩御した翌年の1月に即位。即位2年、室秋津島宮(むろのあきつしまのみや)に都を移す。先帝の都からさほど離れていない。即位26年、天足彦国押人命の娘の押媛を皇后として大日本根子彦太瓊尊(後の孝霊天皇)らを得た。即位102年、崩御。

名称

  • 日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと):『日本書紀
  • 大倭帯日子国押人命(おおやまとたらしひこくにおしひとのみこと):『古事記

漢風諡号である「孝安」は、8世紀後半に淡海三船によって撰進された名称とされる[1]

事績

日本書紀』・『古事記』共にほぼ系譜の記載のみに限られ、欠史八代の1人に数えられる。

系譜

系図

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2 綏靖天皇
 
神八井耳命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3 安寧天皇
 
多氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
4 懿徳天皇
 
息石耳命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5 孝昭天皇
 
天豊津媛命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
6 孝安天皇
 
天足彦国押人命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7 孝霊天皇
 
和珥氏
 
押媛
(孝安天皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
8 孝元天皇
 
倭迹迹日百襲姫命
 
吉備津彦命
 
稚武彦命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
彦太忍信命
 
9 開化天皇
 
大彦命
 
 
 
 
 
吉備氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
屋主忍男武雄心命
 
 
 
 
 
 
阿倍氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
武内宿禰
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
葛城氏
 
 
 
 
 

后妃・皇子女

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天皇略系図(初代 - 第10代) SVGで表示(対応ブラウザのみ)

(名称は『日本書紀』を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)

  • 皇后押媛 (おしひめ、忍鹿比売命)
    『日本書紀』本文・『古事記』による。天足彦国押人命の娘で、孝安天皇の姪にあたる。
    ただし、書紀第1の一書では磯城県主葉江の娘の長媛、第2の一書では十市県主五十坂彦の娘の五十坂媛とする[2]
    • 皇子:大吉備諸進命(おおきびのもろすすみのみこと:古事記):日本書紀なし。
    • 皇子:大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと、大倭根子日子賦斗邇命):第7代孝霊天皇

年譜

『日本書紀』の伝えるところによれば、以下の通りである[3]。機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。

  • 孝昭天皇49年
    • 誕生
  • 孝昭天皇68年
    • 1月、立太子
  • 孝安天皇元年
    • 1月、即位
  • 孝安天皇2年
    • 10月、室秋津島宮に遷都
  • 孝安天皇26年
  • 孝安天皇76年
  • 孝安天皇102年
    • 1月、崩御。宝算は137歳、『古事記』では123歳という[2]
    • 9月、玉手丘上陵に葬られた

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孝安天皇 室秋津島宮阯碑
奈良県御所市

宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では室秋津島宮(むろのあきつしまのみや)、『古事記』では葛城室之秋津島宮[4]

宮の伝説地は、『和名類聚抄』の大和国葛上郡牟婁郷と見られ、現在の奈良県御所市室周辺と伝承される[4][2]。同地では八幡神社境内に「室秋津島宮阯」碑が建てられている(北緯34度26分34.33秒 東経135度44分4.80秒[5]

『日本書紀』『古事記』では日本の本州の異称として「秋津島(秋津州)」が使用されるが、元々は上記の宮が営まれた奈良盆地西南部の葛城地方を指した地名であったとする説がある[6]

陵・霊廟

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孝安天皇 玉手丘上陵
(奈良県御所市)

みささぎの名は玉手丘上陵たまてのおかのえのみささぎ宮内庁により奈良県御所市大字玉手にある玉手丘陵上に治定されている(北緯34度27分18.56秒 東経135度44分56.81秒[7][8][9]。宮内庁上の形式は円丘。 陵について『日本書紀』では前述のように「玉手丘上陵」、『古事記』では「玉手崗上」所在とある他、『延喜式』諸陵寮では「玉手丘上陵」として兆域は東西6町・南北6町、守戸5烟で遠陵としている[9]。しかし、中世に陵所在が失われ、元禄年間以来検討されて室村の宮山古墳が擬せられたが、『歴帝陵』の1本および『大和志』が現在の地を推して以来、定説となった。幕末の修陵の時に大いに修治が加えられ、その竣工に際して、慶応元年3月12日に広橋右衛門督が遣わされて修陵奉告が行なわれた。

また皇居では、宮中三殿の1つの皇霊殿において他の歴代天皇・皇族と共に孝安天皇の霊が祀られている。

信仰と地方の伝承

和歌山県和歌山市鳴神にある鳴神社滋賀県米原市にある筑摩神社滋賀県東近江市五個荘伊野部町にある建部神社[10]宮崎県宮崎市塩路にある住吉神社はすべて孝安天皇の勅命によって創建されている。

地方伝承として、鳴神社の社伝によれば、第6代孝安天皇の御代、俄かに潮動が起こり名草郡が冠水、その後治水のために水門神である速秋津日古命を敬斎すれば逃れられると託宣があり、それによって勅使を遣わし祀られたのが鳴神社の由緒であるとされる。

勅命ではないが孝安天皇の御代に創建された神社として静岡県下田市白浜にある伊古奈比咩命神社滋賀県彦根市宮田町にある山田神社[11]宮城県宮城郡七ヶ浜町にある鼻節神社愛知県豊橋市石巻町にある石巻神社埼玉県さいたま市桜区にある月讀社東京都稲城市矢野口にある穴澤天神社、が挙げられる。

孝安天皇を主祭神として祀る神社は横浜市戸塚区にある舞岡八幡宮がある[12]。また高知県長岡郡岡豊村小蓮字宮にある延喜式内社小野神社天押帯日子命(孝安天皇の兄君)が祀られている。

また富士講では孝安天皇92年庚申6月1日(BC301年)に富士山がはじめて人の世に姿を現したという伝説が残されており、60年に一度の庚申の年は御縁年とされ、特に多くの登拝者が山頂を目指したとされている[13][14]

考証

実在性

孝安天皇を含む綏靖天皇(第2代) - 開化天皇(第9代)までの8代の天皇は、『日本書紀』・『古事記』に事績の記載が極めて少ないため「欠史八代」と称される。これらの天皇は、治世の長さが不自然であること、7世紀以後に一般的となるはずの父子間直系相続であること、宮・陵の所在地が前期古墳の分布と一致しないこと等から、極めて創作性が強いとされる。

一方で宮号に関する原典の存在、年数の嵩上げに天皇代数の尊重が見られること、磯城県主十市県主との関わりが系譜に見られること等から、全てを虚構とすることには否定する見解もある[15](詳細は「欠史八代」を参照)。また治世の長さが不自然であることは春から夏までの半年間と、秋から冬までの半年をそれぞれ1年と数えていたとする春秋二倍暦説で説明できるとする向きもある。実際「魏志倭人伝」に「其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀(その俗、正歳四節を知らず、ただ春耕し秋収穫するを計って年紀と為す)」とあることをからこの説の信憑性を増している。また、皇室の存在を神秘的に見せるために長命な天皇を創作するのであれば旧約聖書創世記に出てくるアダムのような飛び抜けた長命(930歳まで生きたとされる)にしてもよいのに、二分の一、四分の一に割って不自然な寿命になる天皇は一人も存在せず、このことも半年暦が使用されていたことを窺わせる。

名称

和風諡号である「やまとたらしひこ-くにおしひと」のうち、「やまとたらしひこ」は後世に付加された美称、「くにおしひと」の「ひと」は天熊人等と同様に神名の末尾に付く名称と見て、孝安天皇の原像は「くにおしひと(国押人)」という名の古い国造りの神であって、これが天皇に作り変えられたと推測する説がある[2]。これとは別に、後世の諡号である「たらしひこ」と「くにおしひと」の合成に過ぎないとする説もある[15]。また本来は皇族出身の大王ではなく、大王家の最大の外戚家である磯城県主出身(事代主神後裔)の大王であり、吉備氏毛野氏日下部氏を輩出した遠祖と見られるため、後世に付け加えられた和風諱号であったとする説もある[16]

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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