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古代日本の皇族。讃岐公(讃岐国造)・酒部公の祖。 ウィキペディアから
神櫛皇子(かみくしのみこ(かみくしおう)/かむくし-/かんくし-/かんぐし-、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。
『日本書紀』では「神櫛皇子」、『古事記』では「神櫛王」、他文献では「神櫛別命」「神櫛命」「五十香彦命」とも表記される。『日本書紀』『古事記』とも事績の記載はない。
『日本書紀』によれば、第12代景行天皇と、妃の五十河媛(いかわひめ)との間に生まれた皇子である。同書では、同母弟として稲背入彦皇子(いなせいりひこのみこ)の名を挙げる。
一方『古事記』では、景行天皇と、針間之伊那毘能大郎女(播磨稲日大郎姫)との間に生まれた皇子とする。また同母兄として、櫛角別王・大碓命・小碓命(日本武尊)・倭根子命の名を記載する。
墓は、宮内庁により香川県高松市牟礼町牟礼の神櫛王墓(かみくしのみこのはか、北緯34度20分35.24秒 東経134度7分17.26秒)に治定されている[1][2]。宮内庁上の形式は上円下方。
この墓は、明治2年(1869年)に高松藩知事の松平頼聰によって再営された[3]。毎年、王の命日と伝える10月20日に「正辰祭」と称する祭が斎行されている[3]。
『古事記』では、神櫛王を木国之酒部阿比古・宇陀酒部らの祖とする。
『新撰姓氏録』には、次の氏族が後裔として記載されている。
『続日本後紀』承和3年(836年)3月19日条によると、後裔を称する讃岐国寒川郡の讃岐公永直・讃岐公永成らが朝臣姓を賜り、右京三条二坊に貫付されている[4]。
また『日本三代実録』貞観6年(864年)8月17日条によると、同じく後裔を称する右京の讃岐朝臣高作・讃岐朝臣時雄・讃岐朝臣時人らが「和気朝臣」姓を賜っている[5]。
『日本書紀』では、神櫛皇子を讃岐国造の祖とする。
香川県に伝わる讃留霊王(さるれお、讃王)伝説によれば、景行天皇23年に讃留霊王は勅命を受け、讃岐入りして瀬戸内の悪魚退治を行い、同地に留まり仲哀天皇8年9月15日に125歳で薨去したという。この讃留霊王について、東讃では神櫛王のこととし(櫛梨神社社伝等)、西讃では武卵王(たけかいごのみこ:日本武尊の子)のこととしている。
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