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日本の政治家 (1945-2024) ウィキペディアから
太田 誠一(おおた せいいち、1945年〈昭和20年〉10月30日 - 2024年〈令和6年〉12月4日)は、日本の政治家、経済学者。自由民主党所属で衆議院議員(8期)を務め、小渕内閣で総務庁長官、福田康夫改造内閣で農林水産大臣をそれぞれ歴任した。
太田 誠一 おおた せいいち | |
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生年月日 | 1945年10月30日 |
出生地 | 日本 広島県 |
没年月日 | 2024年12月4日(79歳没) |
死没地 | 日本 東京都 |
出身校 | 慶應義塾大学大学院経済学研究科博士課程修了 |
前職 | 福岡大学助教授 |
所属政党 |
(自由民主党→) (自由党→) (新進党→) (無所属→) 自由民主党(加藤派→古賀派→古賀派) |
称号 |
旭日大綬章 衆議院永年在職議員 経済学博士(慶應義塾大学大学院・1973年) |
配偶者 | 太田保子 |
親族 |
祖父・櫻内幸雄(元衆議院議員) 大叔父・櫻内辰郎(元参議院議員) 伯父・櫻内義雄(元衆議院議員) 従姉甥・福田達夫(衆議院議員) 義父・亀井光(第6-9代福岡県知事) |
公式サイト | 太田誠一 公式ウェブサイト(2008年9月15日時点のアーカイブ) |
第47代 農林水産大臣 | |
内閣 | 福田康夫改造内閣 |
在任期間 | 2008年8月2日 - 2008年9月19日 |
内閣 |
小渕内閣 小渕第1次改造内閣 |
在任期間 | 1998年7月30日 - 1999年10月5日 |
選挙区 |
(旧福岡1区→) 福岡3区 |
当選回数 | 8回 |
在任期間 |
1980年6月23日 - 2003年10月10日 2005年9月12日 - 2009年7月21日 |
財務行政に詳しく、大蔵政務次官(竹下改造内閣)、衆議院大蔵委員長、自民党財政部会長などを務めたほか、宏池会会長代行、自民党人権問題調査会会長なども歴任した。
福岡県福岡市出身(広島県生まれ)[1]。父は元博多大丸会長の太田清之助[1]。
太田家は、江戸期に遠賀から博多に出て、油屋で財を築いた初代清蔵以来、当主は清蔵を襲名している[1][2]。祖父の4代清蔵(元第一徴兵保険社長)が実業家として大成した[2]。福岡教育大学附属福岡中学校を卒業後に上京、伯母の家から慶應義塾高等学校へ進学する。同居していた従姉が福田貴代子であり、貴代子の姉の夫である毎日新聞記者・斎藤明から聞く話に刺激を受けた[3]。
1968年3月に慶應義塾大学経済学部経済学科(数理経済学専攻[4])卒業後、1973年3月に慶應義塾大学大学院経済学研究科に進学、福岡正夫門下として学び、大学院の二年先輩に宮尾尊弘がいた。1972年の理論計量経済年次大会では最適制御理論を応用した投資行動モデルを発表[5]、1973年3月に博士課程を修了する。
1976年4月には福岡大学経済学部助教授(経済原論担当[6])に着任。1977年9月にはアメリカ合衆国のブラウン大学の客員助教授に就任する。福岡教育大付属中のクラスメートだった後藤晃に誘われたブラウン大学のH.ライダー教授による「最適成長論」のセミナーで知り合った佐藤隆三が同僚にいた[7]。
1979年に自由民主党公認で第35回衆議院議員総選挙に出馬したが落選。1980年の第36回衆議院議員総選挙で初当選した。1988年には竹下改造内閣で大蔵政務次官を務めた。1989年8月に行われた総裁選挙では亀井静香・平沼赳夫・園田博之と共に石原慎太郎の推薦人になるも石原は48票しか獲得できず、海部俊樹に敗れた[8]。亀井静香によると、太田はこの時に派閥のしがらみを無視して推薦人があと一人足りずに苦労していた石原慎太郎の推薦人となったが、それまで石原慎太郎とは特に親しい関係ではなかったという[9] 。
1993年7月18日投開票の第40回衆議院議員総選挙後に行われた7月21日の両院議員総会で壇上に総裁の宮澤喜一、幹事長の梶山静六、総務会長の佐藤孝行、政調会長の三塚博がいる前で「(選挙がこのような結果になったのは)宮澤総裁はC級戦犯だと思っている。A級戦犯、B級戦犯の方もいる。その方々には責任を取ってもらいたい」と発言し、宮澤は翌22日に辞任を表明した[10][9]。1994年に自民党を離党し、新井将敬や柿澤弘治ら7人で自由党を結成。同年4月に首相の細川護熙が辞意を示した際は後任に自民党の渡辺美智雄の擁立を目指したが頓挫[要出典]。その後、新進党への合流を経て、翌1995年7月に自民党へ復党する。
議員立法によりコーポレート・ガバナンスに関する商法改正に取り組み[11]、ストックオプションの導入に尽力した[12]。 1998年の小渕内閣において総務庁長官・中央省庁改革等担当大臣を務めた。法務委員会に長く居たので、当初法務大臣を打診されたが、なぜかいい反応を示さなかったという。内閣官房長官に内定していたために同席していた野中広務が、死刑執行の署名をするのが嫌なのではと思い、行政改革担当の総務庁長官に就任することになったと言う[13]。
2003年の第43回衆議院議員総選挙で民主党の藤田一枝に敗れ落選。直前に発生したスーパーフリー事件に関する「集団レイプする人は、まだ元気があるからいい。まだ正常に近いんじゃないか」[14]などの発言が影響したとされる[15][16]。2005年の第44回衆議院議員総選挙では藤田を破って当選し、政界へ復帰。
2008年8月に福田改造内閣で農林水産大臣に就任。しかし、事故米不正転売事件により9月19日に辞任した。
2009年8月30日の第45回衆議院議員総選挙では公明党推薦、実践倫理宏正会支持で立候補したが、藤田に再び敗れ落選した。2010年11月の福岡市長選挙では、当選した高島宗一郎の選対責任者を務めた[17]。
2011年2月、政界からの引退を表明した[17]。政治活動での思い出として中央省庁の再編成など国の形を変える行政改革を成し遂げたことをあげた[18]。
2024年12月4日、入院先の東京都内の病院で死去した[20]。79歳没。関係者によれば、亡くなる2か月前ほどから病気療養のため入院していたが、死没当日に容態が急変したという[21]。
これ以外にも福田赳夫・福田康夫・越智通雄・越智隆雄・千野志麻・新井章治・吉國一郎・中部幾次郎・中部謙吉などと縁戚関係にある。
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