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大江 邦治(おおえ くにはる、1867年12月9日 - 1968年6月5日)は、日本の牧師、教育者。戦前から戦後にかけての日本アライアンス教団の指導者。[1]
1867年(慶応3年)に伯耆国溝口(現、鳥取県西伯郡伯耆町)に生まれる。鳥取中学(現・鳥取県立鳥取西高等学校)に入学するが、1882年(明治15年)に中退して上京する。
東京電信学校(後の、逓信官吏練習所)に入学して、1887年(明治20年)に卒業し、東京府、岡山県 、山口県下関市、佐賀県の電信局で勤務する。[2]
岡山県岡山市の電信局に勤務していた頃、日本組合基督教会岡山教会(現・日本基督教団岡山教会)に出席するようになり、当時岡山教会牧師の安部磯雄[注釈 1]から洗礼を受ける。[2][1]
1900年(明治33年)鳥取県米子市郵便局に勤務していた頃、日本伝道隊の創設者バークレー・バックストンやパゼット・ウィルクスから伝道者として指導を受ける。[1][注釈 2]1901年(明治34年)には長男の捨一が生まれる。
1906年(明治39年)バックストンが創設した 日本伝道隊に入隊、兵庫県神戸市に出て、ウィルクスと竹田俊造の指導のもと訓練を受ける。鹿児島、佐賀、佐世保で伝道する。また、種子島では、5年間病気療養をかねて聖書研究をしながら伝道する。[3][2]
1926年(大正15年)にアライアンス・ミッションに入会する。[1]
1929年(昭和4年)3月の日本ホーリネス教会の年会で、東洋宣教会の聖書学院の教授に任命された。次男の大江信が副舎監に任命された。[注釈 3]
その後、1931年(昭和6年)アライアンス・ミッションから日本協同基督教会[注釈 4]が独立すると、アライアンスに戻り指導者になる。
戦争中は、1941年(昭和16年)より日本基督教団に統合されるが、戦後1949年(昭和24年)8月に日本基督教団を離脱して日本アライアンス教団を設立する。[4]また、邦治は1950年(昭和25年)、広島市で再建された日本アライアンス神学校の校長に就任する。[1]これより、戦後は、きよめ教会を辞めた長男捨一と共に、日本アライアンス教団の指導者として活躍する。
1962年(昭和37年)にアライアンス神学校を引退し、捨一が引き継ぐ。1968年(昭和43年)広島で101歳で死去する。[2]
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