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乾 正厚(いぬい まさひろ、生年未詳 - 明治3年5月25日(1870年6月23日))は、土佐藩士。板垣退助家の分家乾左八正春の養子。幼名楠弥太。字は市郎平(いちろべい)。変名は板垣深次郎。土佐藩藩士本山彦弥茂良の嫡男。家禄は28石8斗。妻は土佐藩士明神源八善秀の姉。本山只一郎の義弟にあたる[1]。
ゆえあって、文政4年7月28日(1821年8月25日)、片坂限西へ追放処分とされた、本山茂良(彦弥)の嫡男として生まれ、初名を「本山楠弥太」と称した。実弟に本山茂邁がいる。本山家の分家の本山茂養(伊平)に養育され、本山茂任(只一郎)の義兄弟として育つ[1]。
文政13年11月24日(1831年1月7日)、土佐藩主・山内豊資御代、実父本山茂良の実兄乾正春が病気で無嗣子のため、楠弥太が正春の養子となることを仰せ付けられる[2]。
天保2年3月28日(1831年5月10日)、養父正春の跡目五人扶持切府高十石之内の七石を下し置かれ、格式そのまま新御扈従を仰せ付けられた[1]。
天保10年6月18日(1839年7月28日)、敏衛様、郁松様(山内豊矩)附きを仰せ付けられる[1]。同年10月2日(太陽暦11月7日)、同役御附御免。同年10月15日(1839年11月20日)、敏衛様、郁松様(山内豊矩)附きを仰せ付けられる。同11年1月30日(1840年3月3日)、同役を御附御免。同年7月14日(太陽暦8月11日)、兵部様、郁松様(山内豊矩)附きを仰せ付けられる。同年8月12日(太陽暦9月7日)、同役御附御免[1]。
同12年4月25日(1841年6月14日)、雅五郎様附きを仰せ付けられ、役料米八石を下し置かれる。同15年1月30日(1844年3月18日)、土佐藩主・山内豊熈御代、同役を差免がれ役料米を除かる。同年7月25日(太陽暦9月7日)、式部様附きを仰せ付けられる。7月27日(太陽暦9月9日)、同役御役御免[1]。
弘化2年3月15日(1845年4月21日)、山内大学様(山内豊栄)附きを仰せ付けらる。3月21日(太陽暦4月27日)、同役御役御免。同年5月13日(1845年6月17日)、登五郎様(山内豊樹)附きを仰せ付けられる[1]。8月27日(太陽暦9月28日)、同役御附御免[1]。
同年9月16日(1845年10月16日)、内膳様(山内豊矩)附きを仰せ付けられる。同年11月21日(太陽暦12月19日)、同役御役御免。同3年9月28日(1846年11月16日)、再び内膳様(山内勝矩)附きを仰せ付けられ、役料米八石を下し置かれる。同4年12月1日(1848年1月6日)、来春、内膳様(山内豊矩)が江戸表へ御越しになられる事になったため、その御供を仰せ付けられる[1]。
嘉永2年10月2日(1849年11月16日)、土佐藩主・山内豊信御代、内膳様(山内豊矩)附の御役御免仰せ付けられ、役料米を除かる。同3年12月5日(1851年1月6日)、大学様(山内豊栄)附きを仰せ付けらる。同12月17日(1851年1月18日)、御役御免。同4年1月9日(1851年2月9日)、督三郎様(山内豊積)附きを仰せ付けらる。同1月10日(太陽暦2月10日)、御操替を以って、登五郎様(山内豊樹)附きを仰せ付けらる。同月13日(太陽暦2月13日)、登五郎様(山内豊樹)附きを御役御免。同年8月18日(太陽暦9月13日)、大学様附を仰せ付けらる。同8月20日(1851年9月15日)、御役御免[1]。
安政元年10月19日(1854年12月8日)、鏆三郎様附きを仰せ付けらる。同年12月21日(1855年2月7日)、鏆三郎様附きを仰せ付けられ、役料米八石を下し置かれる。安政2年4月14日(1855年5月29日)、人員削減のため御役御免。役料を除かる。同年5月29日(1855年7月12日)、鏆三郎様附きを仰せ付けらる。同7月17日(1855年8月29日)、御役御免[1]。
同年8月19日(太陽暦9月29日)、鏆三郎様附きを仰せ付けらる。同11月4日(1855年12月12日)、御役御免。同年11月27日(1856年1月4日)、鏆三郎様附きを仰せ付けらる。同3年日4月7日(1856年5月10日)、御附御免。同3年6月28日(1856年7月29日)、鏆三郎様附きを仰せ付けられ、役料米八石を下し置かれる。同5年1月15日(1858年2月28日)、これまでの役料米八石の内「五石」御加増分として引き置かれ「三石」はそのまま役料として下し置かれた[1]。
万延元年1月30日(1860年2月21日)、土佐藩主・山内豊範御代、鏆三郎様附きを差免がれ、役料米を除かる。文久元年4月27日(1861年6月5日)、雅楽助様附きを仰せ付けらる。同5月6日(1861年6月13日)、御役御免[1]。
同2年3月30日(1862年4月28日)、御詮議振を以って「御小性組」を仰せ付けらる。同年12月11日(1863年1月30日)、臨時御用立陣を以って、来る12月20日(1863年2月8日)より、北山中国路を通り江戸表へ差立てるよう仰せ付けられる[1]。
文久3年1月8日(1863年2月25日)、臨時御用立陣を以って江戸表へ差立てられ、京都に通過の際、御詮議振を以って京都在留を仰せつけらる[1]。
同年1月26日(1863年3月15日)、江戸表の智鏡院様(山内豊熈の夫人・候姫[3])御帰国御用を以って、用意調(ととのい)次第、江戸表へ差立るよう仰せ付けらる[1]。八月十八日の政変の後、同年8月23日(1863年10月5日)、貞誠院様附き御祝儀本締役と御弘式役を兼帯仰せ附けられ、役料米八石を下し置かれた。この勤務のため、同年9月7日(1863年10月19日)、京都へ差立てられ、来る9月21日(太陽暦11月2日)、乗船するよう仰せ付けらる[1]。
元治元年5月15日(1864年6月18日)京都において小目付役(小監察)と御軍備御用を兼帯仰せ付けらる。従来の役料米もそのまま下し置かれた。同年同月同日(1864年6月18日)京都において前記の役職に加えて、尹宮様(中川宮朝彦親王)御用向を勤めるよう仰せ付けられ、この分の役料として白銀50枚を成し遣わされた[1]。
元治元年5月17日(1864年6月20日)、京都において前記の役職そのままに加えて、文武調(ととのえ)役、かつ探索御用を兼帯するよう仰せ付けらる。同2年1月27日(1865年2月22日)、前記の役職を差免れ役料米を除かる[1]。
元治元年7月15日(1864年8月16日)、長州兵の入京を阻止せんと薩摩藩士・吉井幸輔、土佐藩士・乾正厚、久留米藩士・大塚敬介の3名が正親町実徳邸を訪ね、従来の朝命を維持し「長州の嘆願を許可せぬよう」家中を通じて伝える[4]。同日、議奏・正親町三条実愛邸にも同上の3人が訪れ「長州へ処置は追討之外無き」ことを伝えた[5]。
更に翌7月16日(1864年8月17日)、同上の3人は尹宮朝彦親王邸を訪れ、薩摩藩士・大島吉之助(西郷隆盛)、吉井幸輔、久留米藩士・大塚敬介、田中紋次郎らが会し重ねて長州藩士の入京を阻止せん事を議す[6]。翌7月17日(1864年8月18日)、意見書をまとめて連署で朝廷に建白[7]。その決意を求めた(禁門の変)。
長門宰相父子之儀、去年八月以来、勅勘候。未其藩臣歎願とは乍申、人數兵器を相携、近畿所々へ屯集奉要、天朝候姿無紛候處、寛大之御仁恕を以て、再度理非分明之被爲在御沙汰候得共、今以抗言不引拂段甚如何にも奉存候。就而者、譬申立候筋條理有之共、決而此儘御許容被爲在儀、萬々有御座間敷と奉存候得共、自然右邊御廟議にも被爲在候而者堂々たる天朝之御威光乍ら廢替、實以御大事之御場合に奉存候。方今夷難相迫り不容易御時際、一旦 朝權、地に落候而者、後日何を以て皇威振興可仕哉。甚不可然儀に付、速かに斷然と御處置被爲在候様状而奉懇願候。不肖我々共禁裡警衛相勤候儀も全く 朝威不廢替様盡力仕候。武門當然何分難黙止奉存に付、三藩在京之重役共一同申談奉歎願候事。
(元治元年)七月十七日
松平修理大夫内
吉井幸輔(友實)
松平土佐守内
乾市郎平(正厚)
有馬中務大輔内
大塚敬介
右 同
田中紋次郎[8]
これらを受け朝廷は、元治元年7月17日(1864年8月18日)夜、大会議を開く事となり、関白・二條斉敬、右大臣・徳大寺公純、中務卿宮、尹宮、有栖川帥宮、山階宮、内大臣・近衛忠房らが参内し徹宵会議を行い、ついに長州藩を追討する旨を決定した。これにより、翌7月18日(太陽暦8月19日)、大納言・正親町三條実愛、六條有容、柳原光愛、野宮定功らは長州藩の京都留守居役・乃美織江を六條家に呼び出し、「天龍寺以下、伏見屯集の浪士を今日中に引拂可申様、若又於相距者、追討被仰出候事」と厳令を伝えた。また、公卿一同には、「方今之形勢、可及戰爭計難候得共、被動玉座候儀、無之旨被仰出候事」と発令した。乃美織江は、右の旨を山崎と天龍寺の屯営に急報。男山に布陣していた益田右衛門介の本陣では、長州藩の諸将が軍議を開き、入江九一、久坂玄瑞らは一旦、退却して再起を図る戦略を述べるも、進軍を主張する来島又兵衛、真木保臣らの意見から遂に「諸隊同時に三道から進軍し、君家の冤を雪(そそ)ぐ可し」と決した。よって久坂らはここに水盃をして討死を覚悟した。追討総督の一橋慶喜は、先手となる伏見方面へは、大垣藩をして守らせ、彦根藩を二番手に布陣。桃山の要害は会津、桑名の両藩に守らせ、丸岡藩、小倉藩は山崎方面、鯖江藩、仁正寺、園部藩は豊後橋の警固につかせた。
元治元年8月30日(1864年9月30日)、朝彦親王へ『関東風聞書』を奉呈し幕府側の情勢を伝える[9]。
元治元年9月2日(1864年10月2日)、朝彦親王より将軍・徳川家茂の上坂周旋を相談される[10]。正厚は「上の者と相談する」旨を告げて帰った[10]。
元治元年9月4日(1864年10月4日)、朝彦親王へ「土佐藩としては将軍・徳川家茂の上坂周旋は難しい。この件は朝彦親王より会津藩へご相談されますように」と返答[11]。朝彦親王は、会津藩士・手代木直右衛門を呼びこの旨を相談し承諾を得た[11]。
慶応2年4月26日(1866年6月9日)、整之助様附きを仰せ付けらる。同4月27日(1866年6月10日)、御役御免。同年6月6日(1866年7月17日)、長防探索御用のため、予州北合等表辺へ差立られ、用意調(ととのい)次第早々出足を仰せ付けらる。出達の日や詳細は別書面にて伝えらる[14]。変名は板垣深次郎。
同年5月21日(1867年6月23日)、土佐藩士・乾退助、谷干城らが、中岡慎太郎の仲介により薩摩藩家老・小松帯刀の京都滞在先の寓居において、同藩士・西郷隆盛、吉井幸輔らと薩土討幕の密約を結ぶ[15]。
同年6月28日(1867年7月29日)、少將様(山内豊範)御納戸役を仰せ付けられ、役料米を下し置かれる[1]。
7月17日(太陽暦8月16日)、中岡慎太郎の意見を参考にした乾退助によって土佐藩銃隊設置の令が発せられる。
7月22日(太陽暦8月21日)、乾退助は古式ゆかしい北條流弓隊は儀礼的であり実戦には不向きとして廃止し、新たに銃隊編成を行い、士格別撰隊、軽格別撰隊などの歩兵大隊が設置。近代式銃隊を主軸とする兵制改革を行った。さらにこの日、中岡慎太郎が、土佐藩・大目付(大監察)本山只一郎に幕府の動静を伝える密書を送る。中岡は本山宛の書簡に「…議論周旋も結構だが、所詮は武器を執って立つの覚悟がなければ空論に終わる。薩長の意気をもってすれば近日かならず開戦になる情勢だから、容堂公もそのお覚悟がなければ、むしろ周旋は中止あるべきである」と書き綴っている。
8月6日(太陽暦9月3日)、乾退助が、東西兵学研究と騎兵修行創始の令を布告。
明治元年2月10日(1868年3月3日)、御役御免。役料米を除かる[1]。
同年3月13日(1868年4月5日)、小目付役(小監察)格式御馬廻を仰せ付けられ、役料二人扶持十二石を下し置かる。御軍備御用と文武調(ととのえ)役を兼帯し、取抜勤め致道館掛を仰せ付けらる[1]。同年4月15日(1868年5月7日)、同役を以って吏代とし、浦戸より乗船にて京都へ差立らる。同年閏4月3日(1868年5月24日)、従来の役職はそのままを以って、関東へ差立られ、役職は大御目付役(大監察)を仰せ付けられた[1]。
同年閏4月13日(1868年6月3日)、外吏を仰せ付けられ、費用の筋もこれあるべきにつき、格分月金15両を下し置かる旨、大坂表にて仰せ付けらる。同年7月6日(1868年8月23日)、京都へ在勤中、急御用を以って土佐へ帰着。同年12月17日(1869年1月29日)、小目付役(小監察)と兼帯の諸役を差免がれ、役料を除かる。格式御小性組を仰せ付けらる[1]。明治2年1月(1869年2月)、京都において板垣退助、後藤象二郎らと写真を撮影[16][17]。
明治3年5月25日(1870年6月23日)死去。正厚は無嗣子ゆえ板垣退助の次男・板垣正士を後嗣として家を継がしめた[18]。
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乾正行 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
乾正祐 | ①乾正直 | 乾友正 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
乾正方 | ②乾正房 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
乾正清 | ③乾吉勝 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
乾直建 | ④乾正英 | 乾正愛 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
乾正聰 | ⑤乾正壽 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
乾信武 | ⑥乾正春 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
乾正成 | 乾正勝 | 本山茂良 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
板垣退助 | ⑦乾正厚 | 本山茂邁 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
板垣鉾太郎 | ⑧乾正士 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
板垣守正 | 板垣正貫 | ⑨乾一郎 | 川瀬美世子 | 中村朝子 | |||||||||||||||||||||||||||||||
板垣正明 | 板垣退太郎 | ⑩髙岡眞理子 | 川瀬勝世 | 杉崎光世 | 中村純子 | ||||||||||||||||||||||||||||||
髙岡功太郎 | 井深美香 | 中村直敬 | 中村和敬 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
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