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ホセ・バティスタ (外野手)

ドミニカ共和国の野球選手 (1980 - ) ウィキペディアから

ホセ・バティスタ (外野手)
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ホセ・アントニオ・バティスタ・サントス(José Antonio Bautista Santos[3]; 1980年10月19日 - )は、ドミニカ共和国サントドミンゴ出身の元プロ野球選手外野手三塁手)。右投右打。愛称はジョーイ・バッツ(Joey Bats)[4]2021年開催の東京オリンピック 野球 銅メダリスト。

概要 基本情報, 国籍 ...
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概要 獲得メダル, 男子 野球 ...
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経歴

要約
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プロ入り前

ドミニカ共和国のデ・ラ・サール高等学校を卒業した時には、メジャー球団から契約オファーがなかった。そのため、アメリカ合衆国フロリダ州チポラ大学英語版に進学。当時の体格は身長178cm、体重70.3kgだったが、その後の1年で身長は約5cm伸び、体重は約9kg増えた。チームでは三塁手投手を兼任し、最速94mph(約151.2km/h)の速球を武器に抑えをつとめていた[5]

プロ入りとパイレーツ傘下時代

2000年MLBドラフト20巡目(全体559位)でピッツバーグ・パイレーツから指名され、プロ入り。

オリオールズ時代

2003年のオフにルール・ファイブ・ドラフトボルチモア・オリオールズから指名され、移籍した[6]

2004年4月4日の開幕戦でメジャーデビューを果たした[7]

デビルレイズ時代

2004年6月3日にウェイバー公示を経てタンパベイ・デビルレイズへ移籍した[7]

ロイヤルズ時代

2004年6月28日にカンザスシティ・ロイヤルズへ移籍した。

パイレーツ時代

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ピッツバーグ・パイレーツ時代
(2008年5月11日)

2004年7月30日にジャスティン・ヒューバーとのトレードで、ニューヨーク・メッツへ移籍したが、数分後にパイレーツへ移籍した。これにより1シーズンのうちに異なる5球団で25人ロースター入りした史上初の選手となった[8]

2006年にレギュラーに定着して初本塁打も記録、シーズン全体で16本塁打を放った。この年は外野手として85試合、三塁手として33試合、二塁手として3試合に出場した。

2008年は7月31日のトレード期限当日に加入したアンディ・ラローシュにポジションを奪われ、AAA級インディアナポリス・インディアンスへ降格した。

ブルージェイズ時代

2008年8月21日にロビンソン・ディアス英語版とのトレードで、トロント・ブルージェイズへ移籍した[9]

2009年はシーズン開幕前の3月に開催された第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)ドミニカ共和国代表に選出された[10]。同大会では、控えの外野手として3試合に出場した[11]

シーズンでは、4月に月間打率.317と好スタートを切るが、その後は長期の打撃不振に陥る。主にユーティリティープレイヤーとしての起用が続いていたが、スコット・ローレンアレックス・リオスの放出後はレギュラーに定着。常時出場する機会を得たことが打撃に好影響を与え[6]、9月以降に10本塁打を固め打ちした。年間を通した打率は.235ながら56四球を選ぶ粘り強さを見せ、マルコ・スクータロが故障で離脱してからは1番打者に起用された。オフの12月13日に年俸調停を避け、1年240万ドルでブルージェイズと契約を延長した[12]

2010年は開幕を1番打者として迎えたが、フレッド・ルイスがトレードで加入してからは主に6番での出場が続いた。4月こそ打率.213、4本塁打と振るわなかったが、5月に入ると一気に調子を上げ、月間12本塁打を放った。6月末からは不振のアダム・リンドに代わって3番に定着し、初のオールスターゲーム選出も果たした。7月27日には両リーグ最速で30本塁打に到達。その後も勢いは衰えず、8月23日のニューヨーク・ヤンキース戦で、ブルージェイズの選手としては2003年カルロス・デルガド以来となるシーズン40号本塁打を放った。7月、8月には2ヵ月連続でプレイヤー・オブ・ザ・マンスに選ばれた[13]。同年9月17日の対ボストン・レッドソックス戦で、シーズン48号本塁打を記録。この1本は、1987年ジョージ・ベルが記録したブルージェイズのチーム記録(47本塁打)を塗り替える1発であった。9月24日のシアトル・マリナーズ戦で、フェリックス・ヘルナンデスからソロ本塁打を放ち、メジャーリーグ全体でも3年ぶりとなる1シーズン50本塁打を達成。最終的に本塁打数を54本に伸ばし、2位のポール・コネルコに15本の大差をつけてア・リーグ本塁打王のタイトルを獲得した。5月、7月、8月、9月には月間本塁打数が二桁に達し、更に、124打点(リーグ3位)、109得点(同5位)、100四球(同2位)、351塁打(同1位)、OPS.995(同3位)など、各部門で上位に入った。この著しい飛躍に対し、8月末には地元紙トロント・スターのコラムニストから薬物使用を疑う声も上がったが、「他の選手と同様にいつだって検査には応じている」「これほど本塁打が打てるとは予想していなかったが、常時出場すれば安定した成績を残せると思っていた」と反論した[14]。加えて、シト・ガストン監督とドウェイン・マーフィー打撃コーチのアドバイスの下、スイングの始動を早くしたことが打撃開眼に繋がったと語った[15]

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トロント・ブルージェイズ時代
(2011年6月5日)

2011年はシーズン開幕前の2月17日に5年総額6400万ドル(2016年の球団オプションも含めると6年総額7800万ドル)で契約延長に合意した。バーノン・ウェルズ(7年1億2600万ドル)、アレックス・リオス(7年6983万5000ドル)、カルロス・デルガド(4年6800万ドル)に次いで球団史上4位の大型契約となった[16]。開幕後も本塁打を量産し、前半戦だけで31本塁打を放った。オールスターゲームのファン投票では1994年ケン・グリフィー・ジュニアが記録した606万9688票を大きく上回る史上最多(当時)の745万4753票を集めた[17]。後半戦は足首の故障などもあってペースダウンしたが、43本塁打で2年連続の本塁打王となり、前年の成績はフロックとの声を一蹴した。打率も3割に乗せ、両リーグ最多の四球を選ぶなどバッティングの確実性が向上した。オフには母国ドミニカ共和国のメディアに対し、過去2年間で16回ものドーピング検査を受けていたことを明かした。それ以前の2年間では合計3回だったことも明かし、表向きにはランダム抽出とされているドーピング検査が一部の選手に対して"狙い打ち"されているのではないかとして話題になった[18]

2012年は4月に打率.181、3本塁打と絶不調だったが、5月は9本塁打を放って復調。6月は14本塁打を固め打ちし、自身5度目の月間MVPを受賞した[19]。前半戦でリーグトップの27本塁打を放ち、オールスターゲームのファン投票ではア・リーグ外野手3位に入り、3年連続の出場を果たした。オールスター前日に行われた本塁打競争では決勝まで進出し、プリンス・フィルダーには及ばなかったものの準優勝となった[20]。7月16日のニューヨーク・ヤンキース戦でスイングの際に左手首を痛めて途中交代し、故障者リスト入りした[21]。8月末に一旦戦列に復帰したが、復帰2試合目で左手首痛が再発し、手術を受けてシーズンを終えることが決まった[22]

2013年はシーズン開幕前の3月に開催された第3回WBCドミニカ共和国代表での参加を希望したが[23]、故障明けのため球団から許可されなかった[24]。シーズンでは、故障もありながら2年ぶりの規定打席に到達したが、本塁打は前年より1本増の28本に留まり、2年連続で30本塁打に届かなかった。

2014年6月18日のニューヨーク・ヤンキース戦で、通算1000安打に到達した[25]。オールスターゲームにはファン投票で両リーグ最多の5,859,019票を集め、5年連続の出場を果たした[26]。オールスターゲーム前日のホームランダービーには、ア・リーグの主将として出場した[27]。シーズンの出場試合数155は2010年に次ぐ自己2番目の多さであり、150安打・35本塁打・100打点・100得点・100四球・出塁率.400・OPS0.900のラインをいずれも3年ぶりにクリアするなど、エドウィン・エンカーナシオンと共にチームを引っ張った。

2015年4月21日のオリオールズ戦で通算250本塁打を記録した[28]。また同日の試合では、デルモン・ヤングの右前打を一塁で刺そうと無理な送球を行い、右肩を痛めた。この直後に背後を通過する投球をされたが、本塁打を放った。打球を見届けた後に、バットを投げ挑発し二塁手のライアン・フラハーティに暴言を吐いた。その後の攻守交代の際に、アダム・ジョーンズと口論となった[29]。9月30日のオリオールズとのダブル・ヘッダーでは、第1試合で本塁打を放ち[30]、実に4年ぶりとなるシーズン40本塁打をクリア、チームも15対2で大勝して地区優勝を決めた。最終的には153試合に出場、2シーズン続けて大きな故障なくシーズンを乗り切った。バッティング面では打率こそ.250と決して高くなかったものの、40本塁打・114打点はいずれもジョシュ・ドナルドソンに次ぐチーム2位、リーグ順位はそれぞれ5位と3位というハイレベルな成績だった。また、110四球はリーグ1位で、打率に対して出塁率が高かった(出塁率.377はリーグ5位)。

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トロント・ブルージェイズ時代
(2016年2月25日)

2016年5月15日のテキサス・レンジャーズ戦でルーグネッド・オドーアに対して守備妨害を行ったが、これに激高したオドーアに突き飛ばされた後に殴打され乱闘となり、退場処分を受けた[31][注 1]。17日にMLBから1試合の出場停止処分が科せられ、異議申し立てを行った[33]が却下され、処分が確定した[34]。6月18日には、守備時にフェンスにぶつかって15日間の故障者リスト入りとなった[35]。これらもあり、レギュラーシーズンでは116試合の出場に留まったが、規定打席には到達。22本塁打を放って通算300本塁打を達成したほか、出塁率は.366をマーク。OPSは0.800を超えた (0.817) 。オフに球団は1720万ドルのクオリファイング・オファーを提示した[36]が、11月14日に拒否しフリーエージェント(FA)となった[37]

2017年1月18日にブルージェイズと1年1800万ドル(2018年、2019年の契約オプション付き)で再契約した[38]。シーズン開幕前の2月8日に第4回WBCドミニカ共和国代表に選出され、2大会ぶり2度目の選出を果たした[39]

シーズンでは4月27日のセントルイス・カージナルス戦で2013年4月14日のロイヤルズ戦以来の三塁手として出場した[40]。4月29日のタンパベイ・レイズ戦で通算1000安打を記録した[41]。7月4日のヤンキース戦で通算900打点を記録した[42]。8月11日のパイレーツ戦でシーズン20本塁打を記録し、8年連続シーズン20本塁打以上となった[43]。オフの11月4日にオプションは行使せず、FAとなった[7]

ブレーブス時代

2018年4月19日にアトランタ・ブレーブスとマイナー契約を結んだ[44]。5月4日にメジャー契約を結んでアクティブ・ロースター入りした[45]。加入後は主に三塁を守った。打撃では12試合で打率.143、2本塁打、5打点と振るわず、5月20日にFAとなった[46]

メッツ時代

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ニューヨーク・メッツ時代
(2018年8月1日)

2018年5月22日にニューヨーク・メッツと契約を結んだ[47]

フィリーズ時代

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フィラデルフィア・フィリーズ時代

2018年8月28日に後日発表選手または金銭とのトレードで、フィラデルフィア・フィリーズへ移籍した[48]。オフの10月29日にFAとなった[7]

フィリーズ退団後

2018年のフィリーズ退団後はどのチームにも所属していなかった。

2020年3月12日に2020年オリンピック野球アメリカ大陸予選ドミニカ共和国代表に選出された[49]が、同日にCOVID-19の影響で延期となった[50]

2021年5月20日に延期されていた2020年オリンピック野球アメリカ大陸予選ドミニカ共和国代表に選出された[51]。ドミニカ共和国代表は同予選での出場権獲得とならなかったものの、最終予選へ進出した。この最終予選にバウティスタは選出されなかったものの[52]、ドミニカ共和国は1位でオリンピック出場権を獲得した[53]。7月9日に2020年オリンピック本戦の野球ドミニカ共和国代表に選出された[54]

2023年3月5日にブルージェイズの球団殿堂に相当する「レベル・オブ・エクセレンス」に登録されることが発表された[55]。8月11日にブルージェイズと1日契約を結びブルージェイズのメンバーとして引退することとなった[56]。翌12日のシカゴ・カブス戦の試合前にセレモニーが挙行された[57]

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選手としての特徴

一塁、二塁、三塁、外野を守れるユーティリティープレイヤーである。2009年頃までは三塁手としての出場機会が多かったが、主に右翼手を務める。

MLBでも珍しいアッパースイングから本塁打を量産する極端なプルヒッターである。2010年9月30日に放ったシーズン54号本塁打(通算113本目)が自身初の右方向への本塁打であり、それまでは全て中堅から左方向の本塁打だった[6][58]。中堅から左方向の打球の割合が8割以上で[59]、相手チーム側は極端にレフト側に偏ったシフトを敷くことが多い[60]。しかし、安定して四球を選ぶことができるため、通算出塁率は通算打率に比べて1割近く高い。2010年はリーグ2位の100四球を記録。50本塁打と100四球を同時に達成したのは史上14人目である[61]

人物

父親はスペイン人である[62]

2人娘の父であり、長女(第一子)が2011年4月に、次女(第二子)が2012年11月に誕生した。

ドミニカ共和国出身で母国語スペイン語であるが、8歳から英会話を習っており、ネイティブ顔負けの非常に流暢な英語を話す[63]

詳細情報

年度別打撃成績

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  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績

内野守備
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外野守備
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  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

表彰

記録

背番号

  • 14(2004年 - 同年途中)
  • 59(2004年途中 - 同年途中)
  • 27(2004年途中 - 同年途中)
  • 50(2004年途中 - 2005年途中)
  • 7(2005年途中 - 同年終了)
  • 19(2006年 - 2008年途中、2010年 - 2017年、2018年8月29日 - 同年終了)
  • 23(2008年途中 - 2009年、2018年 - 同年5月19日)
  • 11(2018年5月22日 - 同年8月27日)
  • 12(2018年8月28日)

代表歴

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脚注

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注釈

関連項目

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外部リンク

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