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ソフィーヤ・ムィハーイリウナ・ロタール[注釈 1](マルシンツィ;1947年8月7日 - )は、ルーマニア系ウクライナ出身の歌手。本名はソフィーヤ・ムィハーイリウナ・ロタール=イェウドクィーメンコ(ロタール=エヴドキーメンコ;ウクライナ語: Софія Михайлівна Ротару-Євдокименко)で、愛称はソーニャ(宇:Соня)がよく用いられる。
ソフィーヤ・ロタール Софія Ротару | |
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2021年のロタール | |
基本情報 | |
出生名 | Софія Михайлівна Ротару |
生誕 |
1947年8月7日(77歳) ソビエト連邦 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国・チェルニウツィー州 ノヴォセールィツャ地区マルシンツィ |
出身地 | ソビエト連邦 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国・キエフ |
学歴 | チェルニウツィー音楽学院指揮・合唱科卒 |
ジャンル | 舞台 |
職業 | 歌手、俳優 |
担当楽器 | 歌 |
活動期間 | 1964年 - |
レーベル |
Artur-Music (2003以降) Extraphone (2002) ユニバーサル ミュージック グループ (1991, 1996) Sintez Records(1991) ワーナー・ミュージック・グループ (1987) ソニー・ミュージックエンタテインメント (米国) (1976) クルゴゾール(1975) メロディア (1972以降) |
共同作業者 | V・イヴァスューク他(下記参照) |
公式サイト | www.sofiarotaru.com/ |
ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国北ブコヴィナのチェルニウツィー州ノヴォセールィツャ地区のマルシンツィに生まれた。ブコヴィナは歴史的にルーマニア・モルドヴァとも関係の深い地域で、ソーニャの一家もモルドヴァ系であった。父はミハイール・フョードロヴィチ、母はアレクサーンドラ・イヴァーノヴナであった。マルシンツィは歌の村として知られていたが、両親はその村でも指折りの美声の持ち主であったという[1]。
父ミハイールは村で最初に共産党へ入党した人物で、大祖国戦争に際しては常に前線に立ち、ベルリン陥落まで従軍した。我が家へ戻ったのは1946年になってからのことで、その後も長らくその恐ろしい年月を忘れることができず、彼の頭には戦闘の恐怖が閃き、戦死した友人たちの顔が浮かんだ。
一家は、ソーニャのほかに2人の兄弟と3人の姉妹からなる5人の子供がいた。姉のジナイーダ(ジーナ)は、子供時代に患った病気のため視力を完全に失っていた。しかし、そのかわりジーナは優れた音感と新しい歌を容易に記憶してしまう力を持っており、幼いソーニャに数多くの民謡を教え込んだ。それは、若い第二の母とも言うべきもので、ソーニャにとって姉は愛すべき教師となった。
少女時代、ソーニャは市場での商売が嫌いで、地獄の仕事だと思っていた。そのかわり、母との農場での作業を好んだ。こうした生活の中、彼女の性格は形作られていった。
初等学校の第1年目から、ソーニャは人前に出て歌うことを始めた。そして、初等学校を通じて教会の合唱団に所属した。青年時代には、ソーニャは劇場へ通い、演劇サークルに入るとともに民謡のアマチュア歌手としての活動も開始した。ソーニャはスポーツにも堪能で、州大会において100 mと800 m競争で優勝を手にしたこともあった。
ソーニャが地区アマチュア芸術家コンクールで優勝したのは1962年のことであった。彼女の歌声に魅了された同郷の人々は、彼女のことを「ブコヴィナの小夜鳴鳥」と呼んだ。
1963年には、チェルニウツィー州のアマチュア芸術家コンクールで優勝を飾った。そして、州代表として共和国コンクールへ参加するため、ソーニャは首都キエフへ向かった。
1964年、ソーニャは17歳にして共和国人民芸能フェスティバルで優勝を手にした。彼女の写真は雑誌『ウクライナ』1965年第27号の表紙を飾った。そして、ソ連人民芸術家のドムィトロー・フナチュークは同郷人に「彼女はあなた方の名士となるだろう」と語った。
共和国フェスティバルでの優勝を契機に、ソーニャは歌手となることを決意した。その年に学校を卒業したソーニャは、チェルニウツィー音楽学院に入学した。しかし、彼女はすぐに大きな後悔を味わった。地元の音楽学院には声楽科がなかったのである。ソーニャは、仕方なく指揮・合唱科に入学した。在学中に、ソーニャは初めてモスクワのクレムリン宮殿で舞台に立った。また、この時代にソーニャはのちの夫アナトーリイ・エヴドキーメンコと知り合った。アナトーリイ(トーリク)はソーニャの同郷人で、チェルニウツィー大学に学び、ニージュニイ・タギールで職に就いていた。彼は子供時代に音楽学校に通い、大学時代には学生演劇のオーケストラのトランペット奏者で、自分の楽団を持つことを夢見ていた。そして、彼は「ウクライナ」誌の表紙を飾った美しい少女に一目惚れをした。
トーリクとの出会いにより、それまで考えもしなかったことであったが、ソーニャは歌手として演劇楽団に参加することになった。オーケストラの楽器に何があるのかすら知らなかったソーニャが早く楽団に馴染めるように、リーダーのトーリクは初めは彼女に馴染みの深いウクライナやモルドヴァのメロディーを選んで演奏するようにした。その後、徐々にそれ以外の曲も取り入れていった結果、大学を卒業する頃にはソーニャは一流の舞台俳優に成長することができた。
1968年に音楽学院を卒業すると、ソーニャは自分と同名のブルガリアの首都ソフィヤで行われた第9回全世界青年・学生フェスティバルに参加した。そして、民謡部門で金メダルと最高賞を獲得した。また、その日は奇しくも彼女の誕生日であった[2]。
その年の9月22日、ソーニャは生まれ故郷のマルシンツィでアナトーリイ・エヴドキーメンコと結婚した。ハネムーンでは、トーリクの勤務地であったノヴォシビルスクに赴いた。彼は、そこで大学に通いながらレーニン記念工場の従業員として働いていた。若い夫婦は、第105軍事工場寄宿舎に住まった。ソーニャはすべての家事をこなし、夕べにはクラブ「休息(オーッドィフ)」で歌った。そして、3ヶ月を過ごしたのち両親の元へ去った。
結婚1年もすると、ソーニャは子供が欲しくなった。しかし、夫婦には生活費の余裕もなく、また夫トーリクは子供より自分の学業を続けることを望んだ。方策を考えたソーニャは、夫に子供ができたと嘘をついた。そうこうするうち、やがてそれは現実となった。1970年8月24日、ソーニャは故郷で最初の子供を生んだ。父親の生き写しのようなその子は、ルスラーンと名付けられた。夫は自分の楽団を連れて故郷へ赴いた。そして、町中が音楽を奏でて祝福した。
仕事の面でも、この時期ソフィーヤはひとつの躍進を遂げた。第9回全世界青年・学生フェスティバルでの優勝により、彼女はウクライナ・テレビ映画スタジオのミュージカル映画 『チェルヴォーナ・ルータ』の主役に大抜擢された。監督はロマーン・オレクシーフ[注釈 2]、作品中の全15曲の歌(ウクライナ語)の作詞作曲はヴォロドィームィル・イヴァスュークら数人、脚本はイヴァスュークとヴァスィーリ・ジンケーヴィチ、ナザーリイ・ヤレムチュークらであった。映画は1970年にイヴァスュークによってエレーナ・クズネツォーヴァのために書かれた同名の歌を元にしており、ドネツクからヴェルホヴィーナへ向かう列車の中で出会った、カルパティアの美しい少女と、ドネツクの若い炭鉱夫との優しい純愛が、カルパティア山脈の豊かな自然を背景に数々の音楽により描かれる物語である。イヴァスュークとソーニャとの出会いも実に運命的なものとなり、イヴァスュークの深い精神は若いソーニャに大きな影響を与えた。一方のイヴァスュークも、ソーニャと出会って以来つねに彼女とその抜きん出た歌声を意識して歌を書くようになった。二人の活動はそれまで黙殺されてきたブコヴィナやウクライナの文化に輝かしい貢献を残した。そして、イヴァスュークの歌はソーニャに一気にスターへと羽ばたく翼を与えた。(但し、劇中で「チェルヴォーナ・ルータ」を歌ったのはソーニャではなく、相方の青年ボリス役のヴァスィーリ・ジンケーヴィチである。ソーニャの歌うシングルレコード「チェルヴォーナ・ルータ」がメロディヤから発売されたのは翌1972年。)
ウクライナ語の歌「チェルヴォーナ・ルータ」は、ソーニャにとってのみならず詩人で作曲家のイヴァスュークにとっても最初のヒット曲のひとつとなった。そして、当時、ロシア語以外で書かれた歌がソ連内でヒットとなることは他に例を見ないことであった。イヴァスュークはブコヴィナの感動的な美しさに驚嘆し、無垢な愛とすべての壁を越える信頼や幸福をそれに重ねてこの歌を書いた。
「チェルヴォーナ・ルータ」の直訳は「赤いヘンルーダ」だが、一般的にはカルパティア山脈南部から東部の、ブルガリアからルーマニア・ウクライナにかけての高地に広く自生する薬草「ロドデンドロン・ミトリフォリウム」の別名で[3]、この花は元々赤い(ピンクがかった明るい紫色)。一方、正式な学名ではない口語「チェルヴォーナ・ルータ」が「ロドデンドロン・ミトリフォリウム」以外にも、黄色いロドデンドロン(ツツジ属の灌木)[4]、ヘンルーダ(花は黄色)[5]、ハクセン(花は白色からピンク色)[6]、オドリコソウ(花は白色)[7][注釈 3]、北米原産のタイマツバナ(花は赤色)[5]など、数々の植物を包含している可能性はあり[7]、カルパティア地方には、「チェルヴォーナ・ルータ (植物)」と「イヴァーナ・クパーラ(露: イワン・クパーラ)の前夜」を巡り、以下の言い伝えがある。
尚、英語版ソフィーア・ロタール Sofia Rotaru#1968-1973 には、
とあるが(2023年7月現在)、「1年に1晩、ごく短時間しか咲かない」はシダ類に多い伝承なので、ツツジ属・ミカン科・シソ科に絞り込まれている「チェルヴォーナ・ルータ (植物)」に該当するかは要検証事項であり、英語版筆者の思い違いの可能性がある。
映画は1971年に公開され、大きな成功を収めた。この成功によりソーニャはチェルニウツィー楽団に呼ばれ、その名も「チェルヴォーナ・ルータ」という自分の楽団を立ち上げた。ソーニャは、自分自身の「チェルヴォーナ・ルータ」を見つけたのである。楽団長には、夫のアナトーリイ・エヴドキーメンコが就任した。このとき、彼は妻への愛から自身の学業を捨てたのである。
翌1972年、ソーニャはイヴァスュークが1970年に書いた歌「噴水」(ヴォロフラーイ)でテレビ・コンクール『もしもし、天才をさがしているんです !』で優勝を飾った。また、リヴィウで開催された国内フェスティバル「ペースニャ73(歌73)」に参加して「噴水」を歌い、優勝した。このフェスティバルにはこれ以降も幾度か参加しており、「噴水」で優勝を収めている。
その後、ソーニャは劇団を連れて1972年にはポーランドへ、1973年にはブルガリアのブルガスへ赴いた。 1974年には当時の西ドイツの歌手ミヒャエル・ハンゼンとデュエットを組んだ。また、この年にはキシナウ芸術大学を卒業した。また、ポーランドのソポトで行われた音楽フェスティバルに参加し、イヴァスュークの歌などを披露した。
1975年の8月から9月にかけて、ソーニャはブコヴィナ・テルノーピリ州のロズトクィ村で撮影された『いつも歌がそばにいる』に出演、イヴァスュークの歌を6曲歌った。
1976年、キリスト教の祝日であるクリスマスを祝ったことからソーニャの一家は迫害を受け、長年暮らしたチェルニウツィーからクリミア半島南部のヤルタへの引越しを余儀なくされた。これと同時にチェルニウツィー楽団を退団し、クリミア楽団に移った。
1979年4月24日、長年ソーニャを支えてきたイヴァスュークは、何者かに電話で呼び出されたきり、この日を最後に二度と我が家へ帰らなかった。5月18日、彼の遺体がリヴィウ近郊の森林で偶然発見された。享年30。5月22日には彼の葬式が営まれた。樹木での縊死で、当時は自殺と発表されたが、今日では、イヴァスュークがソ連当局によって暗殺されたことは明らかであると考えられている。彼の芸術活動は反体制的であったとされ、以降10年に亙ってその軌跡は闇に葬られた。しかし、幸いにもソーニャは当局の弾圧を逃れた。
イヴァスュークが非業の死を遂げたのち、ソーニャのレパートリーにはテオドローヴィチ兄弟をはじめとするモルドヴァ出身の作曲家による曲目が加えられた。しかし、これはのちにソフィーヤ・ロタールはモルドヴァの歌手であるかウクライナの歌手であるかという議論の生じる要因となった。実際には、彼女がロシア語を含め言語に拘泥せずに歌っていることから彼女自身のアイデンティティーはソ連人であり、モルドヴァ人かウクライナ人かという民族主義の問題にはあまり興味を持っていないものと推測されている。
1988年、ソーニャは舞台歌手の部門でソ連人民芸術家の名誉称号を授与された。これ自体は、彼女のそれまでの業績を考慮すれば、まったく公正なものであるといえた。しかし、これは同時に彼女のロシア語の歌のレパートリーがウクライナを席巻する可能性を引き起こす目的へと変換されたのであった。ウクライナの愛国者はそれまで自分たちの祖国を代表する歌手だと思ってきたソフィーヤが体制側に傾いたと看做し、祖国への裏切りであると評した。批判は、ソ連がとった彼女に対する国家的なプロデュース体制により加速され、さらに経済改革を行っている最中にも拘らず、国家が彼女のコンサート活動への援助を行うことにしたことによりさらに刺激された。
ソ連社会の行き詰まってきた1980年代後半、ウクライナではそれまで抑圧されてきたウクライナ文化の見直しが活発化していた。そうした中、社会的に抹殺されたイヴァスュークの掘り起こしも行われるようになった。死後10年となる1989年、彼の功績を記念する音楽フェスティバル「チェルヴォーナ・ルータ」が開催された。ソーニャもこれに参加することを望んだが、折りしも巻き起こっていた批判が大規模な煽動に発展することを避けるため、彼女はこれを断念せざるを得なかった。しかし、1991年、ソーニャは「チェルヴォーナ・ルータ」を含めウクライナ語で歌われるイヴァスュークの歌のリミックスを多数発表した。これ以降、それまであった批判は鳴りを潜めた。
ソ連の崩壊後、音楽界における商業主義の台頭によりソフィーヤ・ロタールは市場での主導的立場を失った。その一方で、固定した聴衆層を持つようになった。その中には、ヨーロッパやアメリカ合衆国などに住む亡命ロシア人も含まれている。一方、地元であるウクライナでは若い世代を含めより幅広い層から支持を受けている。
ソフィーヤの家族では、彼女以外にも姉妹のアウリーカがソリストとしてプロレベルにまで達した。そして、1980年代にはイタリアでプロ活動を始めたが成功せず、1992年を以ってプロへの夢を断念した。
世紀の変わり目に前後して、ソーニャは父母、そして長年連れ添った夫アナトーリイを失った。夫は私生活面のみならずプロデューサーとして彼女を支えてきた。その後しばらく、ソーニャは巡業活動を停止した。新しい段階を迎えたのは2003年で、ソーニャはモスクワのロシア・コンサートホールにその姿を現した。そして、それ以降次々と新曲を発表していった。ルスラーン・クヴィーンタ作曲の「カリーナが一本」、オレーク・カカレーヴィチ作曲の「白いダンス」、コンスタンチーン・メラーゼの「私は彼を愛していた」や「世界で一人の人」などを歌い、またヴィターリイ・クローフスキイ作詞の歌もいくつも歌っている。
2006年には、ウクライナ議会の選挙に積極的に参加し、ヴォロドィームィル・ルィトヴィーン率いるルィトヴィーン国民ブロックから国会議員選挙に立候補した。国内の各都市を回る政治的な宣伝のための大規模な慈善ツアーを行ったものの、党は発言権を得るために必要な票を集めることができず、議席を獲得することができなかった。
ソ連時代、ソフィーヤ・ロタールはロシアのアーラ・プガチョーヴァと人気を二分する大歌手となった。ウクライナの独立後も引き続き大きな評価を得ている。ソフィーヤは、これまでに400以上の歌を世に送り出した。そして、「チェルヴォーナ・ルータ」、「歌は私たちの間にある」(ピースニャ・ブーデ・ポミージュ・ナース)、「噴水」(ヴォドフラーイ)、「桜桃」(チェレムシーナ)をはじめ、その中の多くがウクライナ演劇の代表歌となった。また、長年の活動の間にアメリカ大陸、ヨーロッパ、アジア、オーストラリアの多くの国を巡業しており、海外で発売されたレコードも少なくない。
現在、ソフィーヤ・ロタールは活発に巡業活動を行っており、各芸能人の集まるコンサートやテレビ番組にも参加している。また、相変わらずの美声やスタイルのよさも評判である。ソフィーヤ・ロタールは、今以てウクライナやロシアの音楽界において重鎮というべき地位を維持している。現在も故郷チェルニウツィーには帰らず、気候のよいヤルタのニクィータ居住区に居を構えている。
主な出演舞台
主な出演映画・テレビドラマ
国内外で発売された主な音楽ディスク
主なレコード
主なCD
代表曲
ヴォロドィームィル・イヴァスューク(1949-1979)
アルノ・ババジャニャン(1921-1983)
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