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フランスの哲学者 ウィキペディアから
アンリ=ルイ・ベルクソン(Henri-Louis Bergson [bɛʁksɔn]発音例、1859年10月18日 - 1941年1月4日)は、フランスの哲学者。出身はパリ。日本語では「ベルグソン」と表記されることも多いが、近年では原語に近い「ベルクソン」の表記が主流となっている。
作曲家でピアニストのミハウ・ベルクソンの子として、パリのオペラ座からそう遠くないラマルティーヌ通り (現在のパリ9区 Rue Lamartine) で生まれる。父ミハウはポーランド系ユダヤ人で、母はイギリス人だった(妹のミナは、イギリスのオカルティスト、マグレガー・メイザースと結婚し、モイナ・メイザースと名乗った)。誕生後数年は、家族とイギリス・ロンドンで生活を送る。母によって、早くから英語に慣れ親しんだ。彼が9歳になる前に、彼の家族は、フランス、ノルマンディー地方マンシュ県に移り居を構える。
パリ9区のリセ・フォンタネ(現在のリセ・コンドルセ)で古典学と数学を深く修めた後、パリ大学で人文学を専攻し、パリ高等師範学校に入学した。そこでの哲学担当の教授たちは、新カント派ばかりであったため、ベルクソンは、教授たちに反発しながら、一方でハーバート・スペンサーの著作を熟読して、実証主義、社会進化論への理解を深めた。それらを通し自己の哲学大系を形成していった。1881年に受けたアグレガシオンでは、現代心理学の価値を問う試問に対し、現代心理学のみならず心理学一般を強く批判する解答をした。そのため、審査員の不興を買うことになり、ベルクソンは2位での合格となった。
合格後、リセ教師となったベルクソンは、アンジェのリセ・ダビッド=ダンジェ (Lycée David-d'Angers) 、クレルモン=フェランのリセ・ブレーズ=パスカル (Lycée Blaise-Pascal de Clermont-Ferrand) などで教師として教えるかたわら、学位論文の執筆に力を注ぐ。そして、ベルクソンは、1888年にソルボンヌ大学に学位論文「意識に直接与えられたものについての試論」(英訳の題名は「時間と自由意志」)を提出し、翌年、文学博士号を授与される。この著作の中で、ベルクソンは、これまで「時間」と呼ばれてきたものは、空間的な認識を用いることで、本来分割できないはずのものを分節化することによって生じたものであると批判した。そして、ベルクソンは、空間的な認識である分割が不可能な意識の流れを「持続」("durée")と呼び、この考えに基づいて、人間の自由意志の問題について論じた。この「持続」は、時間/意識の考え方として人称的なものであり、哲学における「時間」の問題に一石を投じたものといえる。
1896年には、ベルクソンは、哲学上の大問題である心身問題を扱った『物質と記憶』を発表した。この本は、ベルクソンにとって第二の主著であり、失語症についての研究を手がかりとして、物質と表象の中間的存在として「イマージュ("image")」という概念を用いつつ、心身問題に取り組んでいる。
すなわち、ベルクソンは、実在を持続の流動とする立場から、心(記憶)と身体(物質)を「持続の緊張と弛緩の両極に位置するもの」として捉えた。そして、その双方が持続の律動を通じて相互にかかわりあうことを立証した。
1900年よりコレージュ・ド・フランス教授に就任し[1]、1904年にはタルドの後任として近代哲学の教授に就任する。1914年に休講(1921年正式に辞職)するまでそこで広く一般の人々を相手に講義をすることになる(ベルクソンは結局、大学の正式な教授になることはなかった)。その講義は魅力的なものであったと伝えられ、押しかける大勢の人々にベルクソン本人も辟易するほどの大衆的な人気を獲得した。主にこの時期に行った講演がベースとなる『思想と動くもの』という著作で「持続の中に身を置く」というベルクソン的直観が提示されることとなる。
1907年に第三の主著『創造的進化』を発表する。この本の中で、ベルクソンは、当時人口に膾炙していたスペンサーの社会進化論から出発し、『試論』で意識の流れとしての「持続」を提唱した。そして、『物質と記憶』で論じた意識と身体についての考察を生命論の方向へとさらに押し進めた。これは、ベルクソンにおける意識の持続の考え方を広く生命全体・宇宙全体にまで推し進めたものといえる。ダーウィンの進化論における自然淘汰の考え方では、淘汰の原理に素朴な功利主義しか反映されていない。しかし実際に起こっている事態は異なる。それよりはるかに複雑かつ不可思議な、生を肯定し、生をさらに輝かせ進化させるような力、種と種のあいだを飛び越える「タテの力」、「上に向かう力」が働き、突然変異が起こるのである。そこで生命の進化を推し進める根源的な力として想定されたのが、"élan vital"「エラン・ヴィタール 生命の飛躍(生の飛躍)」である。ベルクソンはここで、普遍的なものが実在するという大胆かつ前科学的な立場を肯定しており、経験論、唯名論に対する少数派、中世的な実在論に身を置いている。
ベルクソンは国の内外で名声が高まっていき、公の場にも多く引っぱり出された。第一次世界大戦下の1917から1918年にはフランス政府の依頼で、非常にデリケートかつ困難な任務である、アメリカを説得する外交特務使節で派遣され職責を果たした。大戦後の1922年には、国際連盟の諮問機関として設立された国際知的協力委員会(ユネスコの源流)委員に任命され、第一回会合では議長となって、明晰かつ無駄のない言辞で手腕を振るった(ちなみに、当時の国際連盟事務次長であった新渡戸稲造とも面識があった)。1930年にフランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を授与される。
ベルクソンの文章は、明快かつ美しい文章で書かれているため、散文としての評価も高く、1913年から14年には、スコットランドのエディンバラ大学で、ギフォード講義を行った。1927年にはノーベル文学賞を受賞している。
こうした公的活動の激務のなかでも、ベルクソンの著作を書く意欲は衰えず、1932年に最後の主著として発表されたのが『道徳と宗教の二源泉』である。この著作では、社会進化論・意識論・自由意志論・生命論といったこれまでのベルクソンの議論を踏まえたうえで、人間が社会を構成する上での根本問題である道徳と宗教について「開かれた社会/閉じた社会」「静的宗教/動的宗教」「愛の飛躍("élan d'amour")」といった言葉を用いつつ、独自の考察を加えている。人間の知的営為に伴うように、創造的な(想像的な)働き「創話機能(function fabulatrice)」という営為がなされており、現実と未来、期待、希望とのバランスが回復されている。それが宗教と道徳の起源となっており、社会発展の原動力となってきたのである。ここには生命の進化の原理であるエラン・ヴィタールの人間社会版とも言える内容が展開されていて、大哲学者が晩年に人類に託した希望の書と呼べる内容になっている。また「創話機能」は、20世紀初期にフロイトにより発見された無意識の働きと、同時代的に繋がっており、後にはベルクソン研究も行ったジル・ドゥルーズ[注釈 1]によって、著作の中で結びあわされる。
晩年には、カトリック信仰に傾きながら、進行性の関節リウマチを病み、苦しんでいた。1939年に第二次世界大戦が始まると、ドイツ軍の進撃を避け田舎へと疎開するが、しばらくしてパリの自宅へ戻っている。これは、反ユダヤ主義の猛威が吹き荒れる中、同胞を見棄てることができなかったからだといわれている。清貧の生活を続けるも、1941年の初頭に凍てつく寒さの中、ドイツ軍占領下のパリの自宅にて風邪が悪化したことにより、ひっそりと世を去った。ドイツ軍占領下ということもあって、参列者の少ない寂しい葬儀を終えた後、パリ近郊のガルシュ墓地に埋葬された。
葬儀に参加したポール・ヴァレリーは、
「 | アンリ・ベルクソンは大哲学者、大文筆家であったが、それとともに、偉大な人間の友であった | 」 |
と弔辞を述べて、ベルクソンを讃えている。
ベルクソンの死から26年を過ぎた1967年、その功績が讃えられ、パンテオンにベルクソンの名が刻まれ、祀られることとなった。
その著作と生涯によって、フランスおよび人類の思想に栄誉をもたらした哲学者 ── アンリ・ベルクソン — パンテオンに刻まれた碑文
生きた現実の直観的把握を目指すその哲学的態度から、ベルクソンの哲学はジンメルなどの「生の哲学」といわれる潮流に組み入れられることが多く、「反主知主義」「実証主義を批判」などと紹介されることもある。だが実際のベルクソンは、当時の自然科学にも広く目を配りそれを自分の哲学研究にも大きく生かそうとするなど、決して実証主義の精神を軽視していたわけではない(アインシュタインが相対性理論を発表するとその論文を読み、それに反対する意図で『持続と同時性』という論文を発表したこともある)。
一方で、ベルクソンは新プラトン主義のプロティノスから大きな影響を受けていたり、晩年はカトリシズムへ帰依しようとするなど、神秘主義的な側面ももっており、その思想は一筋縄ではいかないものがある(ベルクソンは霊やテレパシーなどを論じた論文を残してもおり、それらは『精神のエネルギー』に収められている)。 因みに、1913年、英国心霊現象研究協会の会長に就任している。
こうした点から、ベルクソンの哲学は、しばしば実証主義的形而上学、経験主義的形而上学とも称される[2]。
ベルクソンの哲学は、当時の人々だけでなく、後の世代にも大きい影響を与えた。その影響は、弟子のガブリエル・マルセル、ハイデッガー、ジャンケレヴィッチ[注釈 2]、ウィリアム・ジェームズ、サルトル、バシュラール、レヴィナス、メルロ=ポンティ[注釈 3]、アルフレッド・シュッツ、エティエンヌ・ジルソン、ジャック・マリタン、ドゥルーズ、西田幾多郎、九鬼周造、篠原資明といった哲学者たちのみならず、政治哲学者のジョルジュ・ソレルや人類学者のレヴィ=ストロース、作家のプルースト、稲垣足穂、遠藤周作[3]など幅広くに及んでいる。
小林秀雄は、1958年から1963年に〈ベルクソン論〉「感想」を『新潮』に連載したが未完に終わり、生前は未刊行であった。新版の『小林秀雄全集 別巻1』(各・新潮社、2002年)、および『小林秀雄全作品 別巻1・2』(現行かなづかい・語注入り、2005年)で刊行された。
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