橘孝三郎

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橘孝三郎

橘 孝三郎(たちばな こうざぶろう、1893年〈明治26年〉3月18日1974年〈昭和49年〉3月30日)は、日本政治活動家農本主義思想家。農本ファシストであり、超国家主義者でもあった。

概要 たちばな こうざぶろう 橘 孝三郎, 生誕 ...
たちばな こうざぶろう

橘 孝三郎
生誕 1893年(明治26年)3月18日
日本 茨城県東茨城郡常磐村(現在の水戸市
死没 1974年(昭和49年)3月30日
国籍 日本
職業 政治運動家
運動・動向 愛郷会、愛郷塾
親戚 立花隆(従甥)
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生涯・人物

茨城県東茨城郡常磐村(現水戸市)生。茨城県立水戸中学校(現水戸第一高等学校)を経て第一高等学校に進むが中退。大杉栄石川三四郎の著作を通じてエドワード・カーペンタークロポトキンなどのアナキズムに影響を受けている。アンリ・ベルグソン、特に「エランビタル」に強い影響を受けた他、トルストイ白樺派柳宗悦康有為などからも影響を受ける。

郷里で農業に従事する傍ら、講演活動を行い、1929年(昭和4年)11月に愛郷会を結成。茨城県那珂、久慈、東茨城、鹿島、行方各郡に支部が形成された。農本主義にもとづく青少年教育を目指し、1931年(昭和6年)4月15日、水戸市外に勤労学校愛郷塾を設立。設立に当たり風見章と知己となり、資金援助を受けた。井上日召とも知己となり、1932年(昭和7年)の五・一五事件では塾生7人を率いて東京の変電所を襲撃。爆発物取締罰則違反と殺人及び殺人未遂により無期懲役の判決を受けた。1940年(昭和15年)、恩赦により出獄[1]

第二次世界大戦後は公職追放を経て[2]、郷里で執筆活動に専念。追放解除後の1959年(昭和34年)に全日本愛国者団体会議の顧問に就任した[1]

著書

  • 『天皇論』天皇論刊行会
  • 『愛国革新本義』1932年5月20日

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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