トップQs
タイムライン
チャット
視点
アンソニー・リゾ
アメリカ合衆国のプロ野球選手 ウィキペディアから
Remove ads
アンソニー・ビンセント・リゾ(Anthony Vincent Rizzo,[4] 1989年8月8日 - )は、 アメリカ合衆国フロリダ州フォートローダーデール出身のプロ野球選手(一塁手)。左投左打。現在は、フリーエージェント(FA)。愛称はトニー[5]。
Remove ads
経歴
要約
視点
プロ入りとレッドソックス傘下時代
マージョリー・ストーンマン・ダグラス高等学校在学中の2007年、MLBドラフト6巡目(全体204位)でボストン・レッドソックスから指名され、予定していたフロリダ・アトランティック大学への進学を取りやめて契約[6]。契約後、傘下のルーキー級ガルフ・コーストリーグ・レッドソックスでプロデビューし、6試合に出場した。
2008年にはホジキンリンパ腫の診断を受けるが、化学療法により全快する[7]。この年はA級グリーンビル・ドライブで21試合に出場した。
2009年はA級グリーンビルとA+級セイラム・レッドソックスでプレー。A+級セイラムでは55試合に出場して打率.295、3本塁打、24打点、2盗塁を記録した。
2010年はA+級セイラムとAA級ポートランド・シードッグスでプレー。AA級ポートランドでは107試合に出場して打率.263、20本塁打、80打点、7盗塁を記録した。
パドレス時代
2010年12月6日にエイドリアン・ゴンザレスとのトレードで、レイモンド・フエンテス、ケイシー・ケリーと共にサンディエゴ・パドレスへ移籍した。
2011年は傘下のAAA級ツーソン・パドレスで開幕を迎え、6月9日にパドレスとメジャー契約を結んだ[8]。同日のワシントン・ナショナルズ戦でメジャーデビュー。「7番・一塁手」として先発起用され、2打数1安打、2四球、1三振だった[9]。35試合に出場したが、打率は.143と結果を残せず、7月22日にAAA級ツーソンへ降格[10]。9月4日に再昇格した[11]。この年メジャーでは49試合に出場して打率.141、1本塁打、9打点、2盗塁を記録した。
カブス時代
2012年1月6日にアンドリュー・キャッシュナー、ナ・キュンミンとのトレードで、ザック・ケイツと共にシカゴ・カブスへ移籍した[12]。3月23日に傘下のAAA級アイオワ・カブスへ異動し[13]、そのまま開幕を迎えた。AAA級アイオワでは70試合に出場して打率.342、23本塁打、62打点、2盗塁と活躍した。6月26日にメジャーへ昇格した[14]。昇格後は一塁手の定位置を獲得。この年メジャーでは87試合に出場して打率.285、15本塁打、48打点、3盗塁を記録した。
2013年はシーズン開幕前の1月18日に第3回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)のイタリア代表に選出された[15]。3月4日にカブスと49万8000ドルの1年契約に合意した[16][17]。シーズンでは開幕ロースター入りした。開幕後の5月13日にはカブスと総額4100万ドルの7年契約(2020年・1450万ドル、2021年・1450万ドルの球団オプション付き)に合意した[18][19]。この年は正一塁手として160試合に出場して打率.233、23本塁打、80打点、16盗塁を記録した。
2014年は前半戦で93試合に出場して20本塁打を放つなど活躍した。7月にオールスターゲームの最終投票の候補となり、ナショナルリーグ最多得票を獲得し、オールスターゲーム初選出を果たした。最終的には、前年比 - 20試合となる140試合の出場ながら、ナ・リーグ2位の32本塁打を放ち、自身初の30本の大台突破となった。しかし、得点圏では打率.241と低調(シーズン打率より、約.040低い)に終わった[20]。
2015年は2年連続でオールスターゲームに選出され、「6番・指名打者」で先発出場を果たした。9月29日のシンシナティ・レッズ戦においてシーズン30個目の死球を受け、1986年にドン・ベイラーが記録して以来MLB史上2人目となる30本塁打・30死球の珍記録を達成した[21]。最終的に160試合に出場して打率.278、31本塁打に加え、ナ・リーグ3位の101打点を叩き出し、チームのプレーオフ進出に大きく貢献した。この年は盗塁にも意欲を見せ、自己最多の17盗塁を決めた。オフのMVP投票ではジョーイ・ボットに次いで4位にランクインした。
2016年はシーズン序盤低打率に陥ったが、6月は月間打率.372と調子を上げ、前半戦終了時点で打率.299、21本塁打を記録し、ナリーグ最多得票で3年連続のオールスターゲームに選出された。シーズン最終成績は155試合出場、32本塁打、109打点、打率.292、OPS.928だった。2年連続の出場となったポストシーズンはサンフランシスコ・ジャイアンツとのディビジョンシリーズでは敵地での第4戦の第2打席にマット・ムーアから中前安打を記録するまで13打数無安打という不振に喘ぎ、ディビジョンシリーズ4試合での安打はこの1本のみで打率.067、0打点という極度の不振に陥った。ロサンゼルス・ドジャースとのリーグチャンピオンシップシリーズでも第3戦までは本塁打、打点ともに0で11打数1安打、3四球、3三振という成績だったが、第4戦、5回の第3打席でペドロ・バエズからソロ本塁打を放ってからは復調し、リーグチャンピオンシップシリーズの6試合通算では打率.320、2本塁打、6打点の成績をマークした。チームにとって71年ぶりとなったクリーブランド・インディアンスとのワールドシリーズでも第3戦までは11打数2安打、本塁打0、1打点、打率.182という成績だったが[22]、第4戦以降は調子を上げ、第6戦の9回にはマイク・クレビンジャーから2点本塁打を放つなど、シリーズ通算では7試合で打率.360、1本塁打、5打点の成績をマークした[22]。チームは第5戦から3連勝で108年ぶりにワールドシリーズ優勝を果たした。オフにゴールドグラブ賞一塁手部門を受賞した。
2017年は過去に自身が悪性腫瘍のホジキンリンパ腫を克服した経験から、この病気に苦しむ子どもや家族のための基金を設立し、がん患者の支援にも取り組んでいることが評価され、ロベルト・クレメンテ賞を受賞[23]。
2018年4月10日に背中の問題で、自身初めて故障者リストに入った[24]。5月23日のインディアンス戦の前に、インターリーグ中に17本塁打を記録し、カブス歴代4位にランクした[25]。7月23日のアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦でジョー・マドンを説得し、自身初登板を記録した。A.J.ポロックに対し2球目で中飛に打ち取った[26]。最終的に153試合に出場して打率.283、25本塁打、101打点で20死球はナ・リーグ3位の記録だった[27]。オフにはアトランタ・ブレーブスのフレディ・フリーマンと一塁手のゴールドグラブ賞の票が同票になったため、自身2度目の受賞となった[28]。
2019年シーズンは146試合に出場し、打率.293で、27死球はナ・リーグ最高の成績だった。これで自身としては合計で145の死球を受けたことになる。27本塁打、94打点だった[29]。
ヤンキース時代
2021年7月29日にアレクサンダー・ビスカイーノ、ケビン・アルカンタラ、金銭とのトレードで、ニューヨーク・ヤンキースへ移籍した[30]。オフの11月3日にFAとなった[31]。
2022年3月17日にヤンキースと2年総額3200万ドルで再契約した[32]。オプションとして、同年オフに契約を破棄してFAになれるオプトアウトの権利が付く[32]。同年は自己最多タイとなる32本塁打を記録した。オフにオプトアウトの権利を行使してFAとなった[33]。ヤンキースからは1965万ドルのクオリファイング・オファーを提示されたが、これを拒否した[34]。その後、11月15日にヤンキースと2年総額4000万ドルで再契約した[35]。2023年と2024年の年俸はいずれも1700万ドル[36]。また、2025年の契約は1700万ドルのチームオプションとなり、破棄された場合は600万ドルが支払われる[36]。
Remove ads
詳細情報
年度別打撃成績
- 2024年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
WBCでの打撃成績
年度別投手成績
- 2024年度シーズン終了時
年度別守備成績
- 2024年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
- 各年度の太字年はゴールドグラブ賞受賞年
表彰
- シルバースラッガー賞(一塁手部門):1回(2016年)[38]
- ゴールドグラブ賞(一塁手部門):4回(2016年、2018年 - 2020年)
- プラチナ・ゴールド・グラブ賞:1回 (2016年)
- フィールディング・バイブル・アワード:1回(2016年[39])
- ハート&ハッスル賞:1回(2015年)
- ロベルト・クレメンテ賞:1回(2017年)[23]
- Topps ルーキーオールスターチーム:一塁手部門(2012年)
表彰
- MLBオールスターゲーム選出:3回(2014年 - 2016年)
背番号
- 27(2011年)
- 44(2012年 - 2021年途中)
- 48(2021年途中 - 2024年)
代表歴
Remove ads
脚注
関連項目
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads