1993年の香港(1993ねんのホンコン)では、1993年の香港の出来事について記す。香港がイギリスの植民地になって153年目、香港の主権が中国へ返還される4年前。
1月
- 1月1日 - 香港中心部中環の蘭桂坊で群衆が将棋倒しとなる事故が発生した[1][2]。1万人を超える人々が新年を祝うため蘭桂坊一帯に集まり、0時を迎えた瞬間群衆の中で押し合いが生じ、午前0時過ぎ、転倒して下敷きとなる人が続出、結局21人死亡、62人重軽傷負の大惨事となった。死者は年齢15~30歳の若者で、内1名は病院で5日間治療受けた後死亡。日本人の死者1名を含む多くの外国人が死傷したため、国際メディアが大きく報道した。
- 1月6日 - 武装した3人組の強盗が旺角信和中心の謝瑞麟ジュエリー株式会社に押し入り[3][4]、総額3百万香港ドルの金品を奪ったうえ、居合わせた1名の女性客を射殺、さらに駆け付けた警官隊にも発砲して1名を負傷させた。警察側も応戦して強盗の内1名を射殺したが残り2名は逃亡した。強盗グループは大型の銃器AK-47を使用していた。
- 1月10日 - 軽便鉄道の天水囲支線が開通、香港総督は開通式を主宰した。
- 1月13日:
- キャセイパシフィック航空の客室乗務員らが、職務規定違反を理由に3人を解雇したことに反発し1月30日まで17日間にわたるストライキに入った。今回のストライキは2億香港ドルの損失となった。
- 立法局は香港総督の政治改革法案を撤回要求する動議を否決した。
- 1月26日 - 香港政庁布政司霍徳はスイスのダボスで開かれた世界経済フォーラム年次総会に参加した。
- 1月30日 - 屯門の青山公路で2階建てバスが横転し負傷者53名。[5]
- イギリス政府の文書館は日本占領時期の香港の機密文書を公開した。
2月
- 2月2日 - 行政局は香港総督の政治改革法案を通じて草案の方式で立法局の審議に提出した。
- 2月4日 - 香港総督のクリス・パッテンはメアリー病院に入院、心臓の血管拡張手術を受けて翌日退院した。
- 2月6日 - 香港政府は政治改革法案を中国側に提示し、中国政府の香港・マカオ担当の魯平は、もし立法局がこの法案を採択するならば、中国側は香港返還後に別に新しい立法機関を設置する旨表明した。
- 2月8日 - 広東省長の朱森林はクリス・パッテンの政治改革法案が「3つの違反、1つの対抗」なことを批判した。
- 2月14日 - 香港ハンセン株価指数が初めて6,000ポイントを超えた。
- 2月18日 - 中国国民党が香港で40年近く発行していた香港時報が廃刊となった。
- 2月19日 - 施偉賢が立法局主席に当選した。
- 2月21日 - 尖沙咀ソールズベリー道の交通事故で2人死亡、4人負傷。
- 2月25日 - 警察当局は3千万米ドルの偽札を作っていた偽造グループを検挙した。
- 2月27日 - 2番のナンバープレートがオークションにかけられ、950万香港ドルの値がついた。収益金は慈善事業に寄付された。
3月
- 3月3日 - 財政司の麦高楽は1993~1994年度の政府財政予算案を発表した。
- 3月5日 - 香港総督のクリス・パッテンは2日間の日程で日本を訪問した。
- 3月12日 - クリス・パッテンの政治改革修正案が発表され、香港ハンセン株価指数は30分で200ポイント余り暴落した。
- 3月15日 - カナダ東岸で貨物船が沈没し、香港人船員29人が死亡した。
- 3月17日 - 中国政府の香港・マカオ担当の魯平は記者会見を開いて、クリス・パッテン香港総督の政治改革法案について、香港の歴史上の『永遠の罪人』になると批判した。
- 3月23日 - 九竜城砦[6]の解体工事が開始された。
- 3月26日 - 沙田源禾通りで2台の2階建てバスが正面衝突事故を起こし25人負傷。[7]
- 3月31日 - 香港総督はブリュッセルとロンドンを訪問した。
4月
- 4月1日 - 香港金融管理局が設立された。香港政庁財政司の直接指揮のもと香港の金融政策と銀行、貨幣の監督責任を持ち中央銀行の役割を担う。初代総裁は任志剛。
- 4月2日 - クリス・パッテン総督はイギリス本国に帰って業務の進捗を報告した。
- 4月3日 - 深圳の出入国検問所でコンピュータの故障が発生、羅湖駅と紅磡駅が閉鎖されて利用者に影響が出た。
- 4月13日 - 大新銀行は永安銀行を買収した。
- 4月21日 - 立法局は死刑制度廃止を正式に可決した。(香港で最後に死刑が執行されたのは1966年11月16日)
- 4月27日 - 地下鉄で荃湾駅に向かっていた8両編成の列車が、5両目と6両目の連結部の不具合により後ろ3両を大窩口駅のトンネルに残したまま運行を続けた。車掌は列車が荃湾駅に到着した後でやっと事故に気付いた。5両目と6両目の通路には乗客いなかったため死傷者は無かった。香港地鐵有限公司は10日後に調査レポートを公表、事故原因が連結部品の経年劣化および定期検査がないために発見できなかったことを指摘した。[8]
- 4月28日 - 中国とイギリスは1994年と1995年の香港の議会選挙の手配などの政治改革の問題の第1回会合を2日間の日程で北京で再開した。
6月
- 6月1日 - 立法局の梁錦濠議員は選挙での収賄容疑で懲役3年の実刑判決を受けた。
黄家駒は
フジテレビの
河田町の旧跡のビル(左図)の第4録画室の出演するゲームの番組の時に、3メートルの高い台の上で水に浸されて滑って転ぶため、地面に落ちて、左側のおでこは当たって重傷は人事不省になって、
東京女子医科大学病院(右図)が受けて応急手当に送ります。
[13]
7月
- 7月1日:
- 香港電気通信管理局が設立された。
- クリス・パッテン総督は業務の進捗を報告するため本年2度目の帰国。
- 7月2日 - 夜、黄家駒の遺体が香港に到着し、フジテレビの番組監督村上光一およびBEYONDの残り3名は香港ホテルで記者会見を行った。[21]
- 7月4日 - 香港葬儀所は霊堂を設けて黄家駒への弔問を受け付け、夜には商業放送は土瓜湾高山劇場で入場無料の追悼コンサート『永遠に家駒をしのびます』を開催した。2,600席の会場は超満員となり、ファンは極度の哀悼を表現して、泣き声は止まらなかった。[22]
黄家駒は香港葬儀所が出棺した後で、埋葬する将軍澳華人永遠墓場。
- 7月5日 - 黄家駒は仏教式で出棺、多くのBEYONDファンが行列し柩の安置された霊堂に入り追悼、中では感情を抑えきれないファンが、大声で彼の名前を呼んだ。納棺の儀式は12時ごろ終了、この時霊堂の周囲には数千人のファンが取り囲み、霊柩車が葬儀所出発するときには、霊柩車に殺到して現場は混乱した[23]。警察が交通規制を敷き、遺体は埋葬される将軍澳華人永遠墓場に到着した。約500人のファンも詰めかけ[24]、大声で「彼は生きている」と唱和した。
- 7月10日 - 台風3号が香港を襲い、皇家香港天文台は1番警備信号[25]を発表した、負傷者は無かった。
- 7月11日 - フジテレビは東京・増上寺で黄家駒のために追悼会を開催した。[26]
- 7月13日 - 土瓜湾の小学校校長が女性下役を殺害して逮捕された。
- 7月25日 - 69M線(九竜バス)の天水囲の屏夏通りと洪天通りの境界で2階建てバスが横転し負傷者40名。[27]
- 7月26日 - 香港の公共プールでアメーバが検出された。
9月
- 9月1日 - 城市バス(中国語:城巴)の経営する香港島南区の26条バス線が正式運航開始。[30]
- 9月9日 - 銃をもった5人組が尖沙咀の銀行を襲い、現場に到着した警察と銃撃戦となり警察は強盗2人を射殺、警官2人と通行人6人が負傷した。
- 9月12日 - 台風15号が広東西部に上陸して、皇家香港天文台は3日連続して1番警備信号[31]を発表した。男性1人が洪水に流され死亡。
台風16号は
香港と
マカオに対して深刻な影響をもたらして、香港は3番目の
8番疾強風~暴風信号[31]を出して、マカオは2番目の
9番全強風と暴風信号[32]を出します。
10月
香港放送は十大中国語の金曲の授賞するコンサート(第16回)
マカオの気象庁は香港の方法を参照して、現行に熱帯低気圧の信号は1917年に始って、そして1931年に修正したことがあります、同様に1番、3番、8番、9番、10番に分けます。