金杉(かなすぎ)は、千葉県船橋市の地名である。本項では、関連地名の金杉町、金杉台についても記述する。現行行政地名は金杉が金杉一丁目から金杉九丁目、金杉台が金杉台一丁目および金杉台二丁目、金杉町が丁目の設定のない単独町名。郵便番号は金杉が273-0853[2]、金杉台が273-0852[4]、金杉町が273-0854[5]。
金杉の地理
海老川水系念田川(北部)・金杉川(北部)・高根川(南部)が流れているため、川付近では、1980年代まで稲作が盛んに営まれていたが、近年では休耕田が目立つ。金杉周辺の地形は地名の語源となっているように海退によって形成されたものであり、河川周辺の低地は、相当な軟弱地盤となっている。かつては、台地上では畑営まれ、台地上からの浸透水が豊富だった。しかし、昭和40年頃より、宅地開発が進み台地上の多くを占め、浸透水が減少している。このことは、海老川の洪水等の災害や低地の万年湿地化を軽減する作用がある一方で、水質浄化作用の軽減を招いてしまっている。
地名の由来
金杉の地名は、近世以来の村である葛飾郡南金杉村(葛飾郡にあった3つの金杉村の中でもっとも南に位置することから「南」をつけて区別された)」に由来する。なお、金杉の古名は、金曾木(かなそぎ)で、夏見御厨の郷の1つ。
- 「かな」…ヤリガンナ(鉋の古語)でそいだようなという意。カネ(矩)の転で、直角或いは曲がった、の意とする説もある。
- 「すぎ」…「そぎ」(そがれたような傾斜地)の転化
金杉の語源は、以上の通りで、集落が丁度、ヤリガンナで削がれたような形をした台地上の傾斜地に作られたことから付けられたと考えられている。
関連記事「千葉県」・「船橋市」・「八栄村」の記事も参照。
- 飛鳥から平安時代
- 金杉集落に関する初出文献は、『船橋大神宮旧蔵文書(平安時代末期)』の写しで、伊勢神宮へ寄進された夏見御厨の郷の一つとして『金曽木郷』という名称で登場する。ただし、この文書は、船橋大神宮の所領拡大の根拠にしようとした戦国期の偽文書という説があり、疑問視されている部分がいくつかある。この文書によると。それ以降の文献については、江戸時代初期まで確実のものは見当たらない。住民の言い伝えでは、平安時代に荘園開発のため、越後から移住した家(経緯は不明)、戦国乱世の中で甲州武田家の滅亡から落ち延び同地に土着したという家、明治維新時に領地だった同地に帰農したという家などいくつかの伝承が存在する。村の言い伝えでは、草分け六軒と呼ばれる旧家(現在存在しない家も複数ある)が金杉集落の原点といわれている。草分け六軒の分布を見ると少なくとも鎌倉時代末期[7] には、郷村と呼ばれるゆるやかな村落結合が形成されはじめていたと思われる。
- 鎌倉から戦国時代
- 室町期から戦国期になると金杉集落の周辺では、関東管領・古河公方をはじめとする関東の諸氏豪族の争いが長い間続き、集落の安全も脅かされていたようで、どう危機を乗り越えてきたかという逸話がいくつか残されている。例えば、上杉謙信による関東出兵の際には、集落内の越後国出身衆を中心に白旗を掲げ、抵抗の意思がないことを示し、村の安全を確保、後にそのことに由来する白旗神社という名の神社を建立したという。実際、金杉集落の南西側の端(村の入口付近)には金杉城と呼ばれる中世城址跡が残っており、室町時代の板碑も出土している。少し以前まで、旧家には、古い時代の槍や刀なども残されており、城主[8] は誰だったのか定かではないが、村落自衛等のため、武士団のような武装集団が組織されたのではないかと考えられている。このような状況は、1590年に徳川家康の領地となり、刀狩が行われるまで続いたとみられる。
- 明治から太平洋戦争まで
- 明治時代になると小金牧が消滅し、草銭場も金杉村の範囲に含まれ、ほぼ、現在の金杉地区(金杉金杉台金杉町)の範囲となった。金杉村は、周辺の集落と合併し、八栄村という東葛飾郡の中の地方行政体を組織し、役場が金杉集落(現在の金杉十字路周辺に設置され、1937年に船橋市が成立するまで、政治の中心的な地域となった。
地区・地名の沿革
現在の町界は、住居表示整備のため、河川や道路などを基準に境界を定めているため、旧村の境界とは一致しないので注意が必要である。
- 古代
- 中世
- 近世
- 近代
- 現代
- 補足
- 金杉6丁目にある御滝公園に隣接した御滝不動尊金蔵寺に「滝不動」の由来となった御滝が今でも流れている。現在の金蔵寺が立地している地域周辺の小字を見てみると「滝不動」に関連する地名が多く存在し、1950年頃までは、隣接する現在の南三咲の一部を含む東部一体は「御滝不動」と呼ばれていた。
- 船橋市立夏見総合運動公園がある地域は、「夏見台」という地名になっているが、かつては、金杉村の一部で、地主の寄付によって運動公園が造られた。
地区の成立ち
- 平安期 - 昭和初期
- 旧家(草分け)の殆どは高台(山)の上に存在する。各家ごとの伝承や本家分家の分布を調査してみると、中世城址を要(金杉1 - 3丁目と9丁目周辺)に北東側に集落が形成されて来たと考えられる。また、1880年-1886年にかけてつくられた迅速測図[14] と1956年(昭和31年)の白地図を比較すると1960年以前まで目立った開発が行われておらず、城址、各民家の入口、神社仏閣の参堂と接するように一本の村道が有機的な線を描きながら南北に伸びていることが確認で出来るなど、中世頃までの集落の構成・構造についてある程度確認することが可能である。また、村の村道や耕作道などについても現在でも一部確認することが可能で、小道や坂によっては呼称がつけられている。
- 村の入口(入口付近の細い道端には道祖神を確認することが出来るほか、その周囲の道は、外敵を防ぐためか、一層道幅が狭く、両側には土塁が存在する)は、金杉城址のすぐ南側にあり、台地から低地へと傾斜している。また、その周辺の台地(船橋市立医療センター周辺の台地)には「馬立場」という小字が見られることから、集落内で使用した馬(軍馬・農耕馬)を放牧、あるいはつないでおく様な場所が存在したのではないかと考えられている。
金杉出身の著名人
- 湯浅市太郎(元政治家、八栄村第2代村長、惣右衛門家・ハナ)
- 石井良三郎(元政治家、八栄村第3代村長、源左衛門家・カド)
- 米井實(元政治家、八栄村第4代村長、庄左衛門家)
- 湯浅丑松(元政治家、八栄村第6代村長、惣右衛門家・ハナ)
- 鈴木敬(元政治家、八栄村第?代村長、紋右衛門家)
- 金湊(元大相撲力士)
- 中村和一(元帝国陸軍軍人)
- 奥山道郎(元帝国陸軍大尉、義烈空挺隊隊長、生まれは三重県、千葉中卒)
最寄り駅
その他、千葉県道8号船橋我孫子線(船取県道)と千葉県道288号夏見小室線が町内を走り、金杉十字路で交差する。
世帯数と人口
2017年(平成29年)11月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
さらに見る 丁目, 世帯数 ...
丁目 | 世帯数 | 人口 |
金杉一丁目 |
59世帯 |
139人 |
金杉二丁目 |
90世帯 |
172人 |
金杉三丁目 |
133世帯 |
302人 |
金杉四丁目 |
295世帯 |
623人 |
金杉五丁目 |
653世帯 |
1,535人 |
金杉六丁目 |
341世帯 |
774人 |
金杉七丁目 |
992世帯 |
2,147人 |
金杉八丁目 |
683世帯 |
1,531人 |
金杉九丁目 |
233世帯 |
503人 |
計 |
3,479世帯 |
7,726人 |
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小・中学校の学区
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[15]
町内会・自治会
- 金杉町会(かなすぎちょうかい)
- 通山睦自治会(つうやまむつみじちかい)
- 金杉旭町会(かなすぎあさひちょうかい)
- 御滝さくら町会(おたきさくらちょうかい)
- グリーンヒルズ金杉自治会(ぐりーんひるずかなすぎじちかい)
- みずほ町会(みずほちょうかい)
- 良友町会(りょうゆうちょうかい)
- パナタウン金杉自治会(ぱなたうんかなすぎじちかい)
- 金杉みどり町会(かなすぎみどりちょうかい)
- 御滝町会(おたきちょうかい)
- 金杉桜ヶ丘自治会(かなすぎさくらがおかちょうかい)
金杉台(かなすぎだい)は、金杉北部の地名。一帯が金杉台団地。
隣接町名
- 金杉(北東 - 東 - 南東 - 南 - 南西)
- 金杉町(南西 - 西 - 北西 - 北)
- 二和西
世帯数と人口
2017年(平成29年)11月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
さらに見る 丁目, 世帯数 ...
丁目 | 世帯数 | 人口 |
金杉台一丁目 |
622世帯 |
1,141人 |
金杉台二丁目 |
792世帯 |
1,398人 |
計 |
1,414世帯 |
2,539人 |
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小・中学校の学区
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[15]
- 金杉団地分譲自治会(かなすぎだんちぶんじょうじちかい)
- 金杉団地自治会(かなすぎだんちじちかい)
1940年成立の金杉町は、住居表示実施により大部分が金杉1〜9丁目・金杉台1〜2丁目となったが、一部地区が住居表示未実施地区として残存している。金杉町として残存するのは、金杉台・金杉と馬込町に挟まれた細長い町域と、金杉1丁目南方の地区である。特筆すべき施設はない。
隣接町名
- 南鎌ケ谷(鎌ケ谷市)(北 - 北東 - 東)
- 金杉台(東 - 南東)
- 金杉(南 - 南西・飛び地北西 - 北 - 北東)
- 夏見台(西)
- 馬込町(西 - 北西 - 北)
- 高根町(飛び地北東 - 東 - 南東)
- 夏見町(飛び地南東 - 南 - 南西 - 西 - 北西)
小・中学校の学区
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[15]
- 「ふるさとの地名」船橋市の地名を探る(船橋市史談会)
“船橋市町丁別人口”. 船橋市 (2017年11月24日). 2017年11月30日閲覧。
江戸時代に名主を務めた石井外記の家が城主だったとする説がある
資料が少なく、いつ、いかなる経緯で開発されたのかは明確にはわからないが、1138年-1311年にかけての約200年間の開発状況と村落での聞き取り調査(平将門についての逸話が残されていること)などを総合すると10世紀頃には集落があったのではないかと推測されている。なお、開発の形式については、国衙の援助の元開発された公領なのか、武士、土着国司、郡司などの地方豪族や有力農民層(田堵・名主)などの開発領主によって開発された荘園なのか、あるいは開拓者の私田として新開地されたものがはじまりなのかわからない。研究者によっては、平安時代前期までは、意富氏(千葉氏の祖とも)の領地であったとする人もいる。
戸籍法の成立に伴い、戸籍編成の単位として大区小区制と呼ばれる行政区域が設定され、4・5丁(町)もしくは7・8村をもって区が編成、戸長・副戸長が置かれた。大小区制は、1877年(明治11年)7月に郡区町村編制法の公布に伴い廃止、再び郡・町村が復活し、行政単位となる。
住居表示に関する法律(1962年施行)に基づき住居表示が施行され、金杉台1〜2丁目、金杉1〜9丁目が成立し、住居表示未実施地区(市街化調整区域)が「金杉町」として残った。