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日本の囲碁棋士 (1925-2009) ウィキペディアから
藤沢 秀行(ふじさわ ひでゆき、ふじさわ しゅうこう、1925年6月14日 - 2009年5月8日)は、日本の囲碁棋士。本名:「藤沢 保(たもつ)」[注 1]。棋聖戦6連覇、史上最年長タイトル保持者などに輝いた、昭和を代表する棋士の1人。
年上の甥(姉の息子[1])に藤沢朋斎九段、子(五男)に藤沢一就八段、孫に藤沢里菜七段。また小島高穂九段は大甥(姉の孫[2])に当たる。経済学者の松井彰彦は甥。
太平洋戦争中に「秀行」と呼び名を変えたが、これは当時、山部俊郎とともに世話になっていた、頭山満の三男の頭山秀三の名前に由来する[3]。正しい名前の読み方は「ひでゆき」だが、生涯を通じて「しゅうこう」と呼ばれ続けた。
棋風は豪放磊落であり、厚みの働きを最もよく知ると言われた。ポカ(うっかりミス)で好局を落とすことも多かったが、「異常感覚」とも称される鋭い着想を見せ、「華麗・秀行」とも呼ばれた。「序盤50手までなら日本一」とされ、序盤中盤の局後検討で結論がでない場合は「秀行(しゅうこう)先生に聞こう」というのが、かつての日本棋院での決まり文句だった。
盤上での活躍の一方、盤外では酒、ギャンブル、借金、女性関係など破天荒な生活でも有名であった。癌の手術以前はアルコール依存症の禁断症状と戦いながらの対局を重ねていた。こうした「最後の無頼派」とでも称すべき藤沢の人柄を愛する者は多く、政財界に多くの支持者を抱えるほか、日中韓の若手棋士からも非常に尊敬されている。
高利貸しから億単位の借金がありその大半を好きな競輪につぎ込んだ。政財界に藤沢のファンがおり、そのうちの一人である元法務大臣の稲葉修が「せめて借金先は銀行へ」と替えさせ借金の保証人になったという。1976年に創設された棋聖戦(第1期の優勝賞金は1700万円、現在は4500万円)を六連覇し借金を返済した[4]。
アルコール依存症であり七番勝負のときだけは禁断症状に苦しみながら酒を抜いた。平時から酒をよくたしなみ、午前中にウイスキーを一本あけ、酔うと卑猥な言葉を発し周囲を困らせ若手の一流棋士を捕まえては一局1000円で早碁を打った。泥酔状態でも並の棋士は歯が立たなかったという。
本妻(藤沢モト)との間に3子がいたほか、2人の女性との間にそれぞれ2子をもうけており、子は全部で7人いた[5]。正月になると4人の女性と子供たち全員が一斉に会し正月のあいさつを藤沢と本妻に対して行った。将棋棋士の米長邦雄は「俺とえらい違いだ。恐れ入った」と頭を下げたという[4]。この勝負師を陰で支えた妻・モトは著書『勝負師の妻—囲碁棋士・藤沢秀行との五十年』で彼を襲った数々の難局について述べている。
書の大家でもあり安芸の宮島・厳島神社の鎮座1400年に際し「磊磊」の文字を奉納している[4]。各地で個展を開いたほか、1992年には大相撲の貴闘力の化粧まわしに「気」の文字を揮毫。2007年にはニコニコ動画のコンテンツ「ニコニコニュース」の題字を手掛けた[6]。
門下に天野雅文・高尾紳路・森田道博・三村智保・倉橋正行・金沢真らがいるが、この他にも合宿などで依田紀基・結城聡・坂井秀至ら多数の若手棋士を育てており、中国・韓国棋士も含め藤沢を師と仰ぐ者は多い。来るものは誰でも拒まずに受け入れた研究会『秀行塾』は有名。
自分の門下生以外にも多くの若手棋士の育成に力を注いだ。昭和30年代には、阿佐ヶ谷の自宅で、茅野直彦、当時十代であった林海峰、大竹英雄、工藤紀夫、高木祥一、小島高穂ら十数人による月2回の研究会を行なっていた。これにはその後、さらに若い世代の安倍吉輝、福井正明、酒井猛、石田章、中村秀仁らが加わる。続いて1969年、不動産業のために代々木に事務所を開いたが、ここでも若手棋士が集まっての研究会が行われ、林海峰、曺薫鉉、四谷にあった木谷道場の石田芳夫、加藤正夫、武宮正樹、小林光一、趙治勲らが集まり、事務所を閉じる1978年まで続いた。
1980年からは、入段したばかりの依田紀基、安田泰敏、院生の藤沢一就、小松英樹らで第三次研究会を始め、場所もよみうりランドの自宅に移した。この研究会はその後も弟子の森田、三村、高尾の他にも人数が増え、1984年からは年に2回の合宿を行うようになる。このメンバーは秀行軍団などとも呼ばれる。
1981年からは研究会のメンバーとともに訪中し、中国の棋士との手合や指導を行うようになる。これには聶衛平、劉小光、江鋳久、曹大元、若手の馬暁春、張文東らが参加した。この毎年1987年までと、それ以後の断続的な訪中は、中国の実力レベル向上に大きく寄与したと言われている。
「命がけで得た技術をなぜ他国に教える必要があるのか」という声もあるなか、中韓両国の若手棋士に惜しげもなく技術を伝授した[4]。
1999年に行われた引退三番碁では、第1局(4月16日)で常昊、第2局(4月30日)で曺薫鉉、第3局(5月14日)で高尾紳路と、日中韓の棋士が対戦相手を務めた。引退碁が行われたのは本因坊秀哉以来。死後の2010年6月には北京市に「藤沢秀行記念室」が設立された[7]。
父の藤沢重五郎は相場師として名を挙げた人物で、賭博にも熱中したが囲碁でも三段の免状を持っていたとされ、田村保寿(のちの本因坊秀哉)と「鬼池田」と呼ばれた素人名人との対戦を企画するなどしている[8]。何人もの女性相手に、合計19人の子供をつくった。囲碁の他にも、剣道三段、将棋五段、柔道三段(起倒流柔術)。
妻の藤沢モトには、藤沢と暮らした人生を描いた著書が『勝負師の妻―囲碁棋士・藤沢秀行との五十年 』『大丈夫、死ぬまで生きる 碁打ち 藤沢秀行‐‐無頼の最期』の二冊ある。
三男の藤沢嘉浩はアマチュア囲碁強豪。四男の藤沢秀敏は将棋の奨励会に入会したが、初段になれず年齢制限で退会した[9]。五男のプロ棋士藤沢一就は新宿で囲碁教室を開催しており、15人のプロ棋士を輩出している[10]。
一就の長女であり、秀行の孫にあたる藤沢里菜は、2010年4月に当時史上最年少となる11歳6か月で棋士となり、数々の女流タイトルを獲得している[11]。
1952年頃より日本棋院理事を務め、1960年には渉外担当理事となる。日本棋院の財政基盤改善策として名人戦創設を図る。読売新聞との契約をまとめ、1961年から第1期旧名人戦が開始、最高位タイトルを持っていた秀行も13人のリーグ戦に参加する。翌年8月の最終局まで9勝2敗のトップを走っていたが、最終局で橋本昌二に敗れて9勝3敗となり、呉清源 - 坂田栄男戦の勝者とプレーオフとなると思われた。しかし呉-坂田戦は呉の白番ジゴ勝ち(コミ5目で)となり、当時の規定でジゴ勝ちは正規の勝ちより下位とされていたため、藤沢の第1期名人位が決まった。
1978(昭和53)年、藤沢は棋聖戦で、本因坊・十段・碁聖の三冠を保持する加藤正夫の挑戦を受けた。第4局まで1勝3敗となり、カド番に追い込まれた第5局。黒の藤沢は高中国流の布石を採用した。
黒模様に白が△と打ち込んできた瞬間、黒の藤沢は▲の鉄柱に打ち、この白を皆殺しにすることを決意する。
白が1にツケてきた時、藤沢は2時間57分の考慮で黒2にトンだ。この一世一代の大長考で以下の攻め合いの変化を読み切り、加藤の大石を撲殺。この勝利で流れをつかみ、以下3連勝で逆転の防衛に成功した。高尾紳路と藤沢里菜は、「日本棋院100周年 棋士が選んだこの一手」に、この黒2のトビを選んでいる。
ほか、極めて多数の(100冊を軽く超える)棋書を書き下ろしている(その多くは棋士にして囲碁ライターである小西泰三の構成による)。
ほかに本人の壮絶な生きかたを記したエッセイとして
また
は夫人(正妻)による著書。 (本人の碁でなく)本人と妻の生きかたに焦点を当てたNHKによるテレビ番組が、DVD化されている。
棋士が技術伝授でないビデオに出演するのは極めて異例のことである。
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