育英高等学校
兵庫県神戸市にある高等学校 ウィキペディアから
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育英高等学校(いくえいこうとうがっこう、英: Ikuei Senior Highschool)は、兵庫県神戸市長田区長尾町二丁目にある私立高等学校。
育英高等学校 | |
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北緯34度40分6.8秒 東経135度8分5秒 | |
過去の名称 |
神戸育英義塾 甲種育英商業学校 育英商業学校 錦華女子商業学校 育英中学校 |
国公私立の別 | 私立学校 |
設置者 | 学校法人武井育英会 |
理念 | 各有能(おのおののうあり) |
校訓 | 責任を持つ・希望を持つ・誇りを持つ |
設立年月日 | 1902年6月27日設立認可[1] |
創立記念日 | 10月7日 |
創立者 | 庄野一英 |
共学・別学 | 男女共学 |
課程 | 全日制課程 |
単位制・学年制 | 学年制 |
設置学科 | 普通科 |
学科内専門コース |
総合進学コース 文系進学コース 理系進学コース 特別進学文系コース 特別進学理系コース |
学期 | 3学期制 |
学校コード | D128310000164 |
高校コード | 28518J |
所在地 | 〒653-0855 |
兵庫県神戸市長田区長尾町二丁目1番15号 | |
外部リンク | 公式ウェブサイト (携帯) |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
錦華女子商業学校を除き[4]、2014年度まで男子生徒のみの男女別学、2015年度から男女共学[8]。
湊村発足及び神戸市への編入前における兵庫県八部郡石井村字道佛259番地の2の[1]石井村役場があった場所に校地が存在し、1907年12月に西200メートルに移転[注 1]、1913年2月14日に兵庫県神戸市の区政施行後における兵庫区東山町にあたる、兵庫県神戸市兵庫港地方字指上に移転する[10][11][注 2]。1913年5月に兵庫県立第一神戸中学校の旧校舎及び1907年12月建築の[9]旧校舎を移築する[13]。
1908年5月2日に本科が新設され、その1ヶ月後の6月2日に制服が制定される[14]。本科新設に併せ体操科において兵式体操が授業の一環として実施されており、甲種育英商業学校開校後の1915年においても体操科における兵式体操の導入は継続されていた[17]。
猟師協力の下、レクリエーション・集団行動訓練・疑似軍事訓練を兼ねた兎狩が頻繁に行われ、神戸育英義塾発足当時には名物行事として扱われていた[18][注 3]。
1915年、開校間もない頃の日本は教育勅語の奉読中の動作不敬を問題視する時代背景にあった[20][注 4]。甲種育英商業学校においても例外ではなく1916年2月、奉読中の生徒が動作不敬であったことを理由に2日間の停学処分を命じられたなど、奉読中の態度や姿勢は厳しく監視された[22][注 5]。奉読中の私語や咳払いも不敬とみなされた[23][注 6]。
「林間授業」と称した校外学習が存在し、天気の良い日は新湊川土手で頻繁に授業が行われた[25]。開校前後から部活動が本格化し、特に「講演部」「編集部[注 7]」などの言論活動は神戸育英義塾から盛んであった[18][注 8]。1917年時点で校内に植物園、銃器庫が存在した[12]。
校地は1930年10月の移転まで[27]引き続き兵庫県神戸市兵庫区東山町にあたる場所に存在した[11]。1924年の11月に兵庫尋常高等小学校の旧校舎を移築する[11][注 9]。1930年10月の校地移転後は1945年5月1日の行政区再編以降における[28]長田区の一部である[27]須磨区西代柳谷10番地に校地を置く[16][注 10]。移転当時の木造校舎は建築家の清水栄二が設計に携わっており、木造建築でありながらペディメント部分にパラボラアーチ状の曲線が用いられている[30]。
学用品の購入の便宜と生徒の商業実習を兼ね、生徒・教職員のための消費組合が設立されていた[18]。1921年には育英消費組合規約が制定され[18]、学校職員が就任する組合長・副組合長・幹事・理事とは別に生徒も委員として組合の運営に参加することができ[18]、平等に議決権が与えられている[31]。
1923年4月1日に創立者の庄野一英校長が急死し[32]、同年10月29日に兵庫県立第一神戸中学校出身の池長孟[33]校長が就任してからは[注 11]同校の「昼食を屋外で立ち食いする」という、特徴的な校則が模倣された[24][注 12]。季節問わず[38]生徒は校舎外での昼食の立ち食いを強制され、寒い日も水道水を飲用するため蛇口に並んだ[24][注 13]。雨天の日に限って講堂の使用を許可され、校務員室で生徒は大きな薬缶から白湯を弁当箱の蓋などに入れてもらえた[24]。奇抜な教育方針ながら[34]池長校長就任後は、同じ大日本帝国陸軍出身の教育者である[34][40]「各有能(おのおののうあり)[41]」「士魂商才」を掲げていた庄野校長在職時とはまた大きく違った校風に変容していった[35]。
1925年7月に学校教練が本格的に授業に取り込まれ[42]、1937年には政府による戦争とそれを支える体勢の構築に国民を総動員する政策が次々と実施されることになり[注 14]、育英商業学校にもその思想統制の影響はおよび、学校の雰囲気はより厳粛なものに変遷する[38]。
生徒は厳寒期でも毛糸の下着の着用は禁止され[38]、ズボンのポケットは手を入れることができないように縫い付けることになっており[43]、時計・革靴・万年筆などの使用も贅沢品であるとの理由で許されなかった[44]。登校時には正門で週番の上級生による服装・持ち物の点検を受けることとなっており[注 15]、ボタン・ホックの掛け方、ゲートルを巻く位置をチェックされた[24]。中には南京豆の薄皮をタバコの屑と間違えられ、注意される生徒もいた[24][注 16]。点検後、奉安殿に向かって最敬礼し、朝礼・ラジオ体操の後、ラッパ鼓隊の吹奏に合わせて教室まで行進した[38]。校外においても制服・制帽・巻ゲートルを着用し、教師や上級生に合ったときには軍隊式の敬礼をしなければならなかった[44]。また渡り廊下で処罰生徒名の掲示なども行っていた[24]。1930年2月には衆議院議員総選挙の候補者の応援演説を行ったと思われる生徒が5日間の停学処分を受けるなど、校内で過剰な政治活動をする生徒も取り締まった[23]。
満洲事変後の国家主義・軍国主義的傾向が強まった国風の後押しもあり[45]、神戸育英義塾を含む明治末期から1945年の日本の敗戦まで、学校教練を始めとした軍事予備教育が生徒の学校生活を深く縛り付けていた[17][注 17]。
1917年時点で既に存在した銃器庫の他[12]、校地移転後においても校舎の斜め横に兵器庫があり、学校教練で用いる三八式歩兵銃が三十年式銃剣と一緒に約200丁ガンラックに掛け並べられていた[24][注 18]。戦時体制中、1944年8月からは校舎が[48]山本航空機部品製作所の工場に[49]、グラウンドは工員用の野菜栽培地に転用された[49][注 19]。第二次世界大戦末期の時点で既に学校教練と並行して掘られていた防空壕・防火池もグラウンドに存在した[50]。
1944年2月11日午後7時頃、失火のため[3]中央玄関付近から出火する[51]。水利の便が悪く消火活動が滞り[51]、午後8時30分に鎮火するも[51]校舎本館が全焼し、事務室のみ残る[29]。
1945年終戦後10月22日からはGHQの軍国主義・極端な国家主義的な思想及び教育の排除へと運ぶ政策が進められた影響もあり[52]、教育方針が一変する[48]。学校教練は禁止された他、集団行動訓練も禁じられた影響で朝礼は行われず、体育や遠足においても号令や隊列を組むことは憚られた[48]。終戦後においても日本本土空襲による負傷者や空襲を避けるために地方へ疎開していた生徒、海軍飛行予科練習生などに志願していた生徒は、しばらく学校に戻ることができず生徒数は激減する[48][注 20]。学校に復帰した生徒も服装は様々であり、軍事教育で顕著であった規律や秩序は失われていた[48]。1946年4月に登校者が増加し、不十分ながら授業の形態も整い始める[46][注 21]。
1943年10月に兵庫県を通じて教育ニ関スル戦時非常措置方策が育英商業学校に下達される[4]。これにより男子商業学校であった育英商業学校は国民学校令等戦時特例により、工業学校・農業学校・女子商業学校いずれかに転換することを余儀なくされる[55]。財団理事会での会議を経て1944年3月13日に育英商業学校を生徒募集停止とし、4月1日から錦華女子商業学校を併設した[4][注 22]。制服は制定されていない[49][59]。同年3月7日[60]、決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱が閣議決定され、育英・錦華女子商業学校では5月より勤労動員が開始されており[29]、8月に校内に設けられた山本航空機部品製作所の工場における作業員として錦華女子商業学校の生徒が動員された[49]。
1945年8月16日に文部次官通牒の動員解除により事実上の動員解除となり[61]、21日に戦時教育令の廃止が決定され[62]、同月に育英・錦華女子商業学校も軍事教育を撤廃する[29]。終戦に伴い教育ニ関スル戦時非常措置方策も効力を喪失し、錦華女子商業学校は開校当初の目的と存在意義を失う[55]。在校生の卒業を待たずして1946年3月22日に錦華女子商業学校は廃校となり、同日に育英商業学校は生徒募集を再開する[6][注 23]。
学制改革に伴い、1947年4月1日に育英中学校を併設する[6]。1946年に入学した育英商業学校の生徒を中学二年生とし新一年生を迎えたが、当時は1944年本校舎全焼後の[29]再建がままならない状況であったため新一年生は2クラス80名の収容が限界だった[63]。入学者減少のため1955年2月28日に[6]生徒募集停止となる[64]。
1969年11月末まで丸刈り校則が存在した[6][注 24]。1969年5月1日から屋内プールが存在していたが[6]1982年9月4日にプール撤去跡の工事がされており[67]、跡地には1983年9月6日に[6]第二体育館が建造された[68]。2015年に校舎の耐震補強工事と中庭の改修が竹中工務店によって施工され[69]、同年に少子化による入学者減少への対策の一環として男女共学化を施行する[8]。生徒数は2023年10月4日時点で1046人である[70]。「厳しさの中に自由あり[注 25]」「熱血学校」と謳っている[72]。
校章の中心に「育」という字を配置し「はぐくむ(慈しみ育てる)」ことが教育の中心思想であることを表現している[73]。「育」という字の周囲が菊の花びらになっているのは以前、校地が新湊川の畔に位置していた為、その湊川にゆかりの深い菊水に因んであしらったものである[73][注 26]。
1990年度以前[75]
「IKUEI」の最初の2文字である「I」と「K」をモチーフに図案化している[73]。「I」の部分は歴史と伝統を一本の芯として表現、「K」の部分は神戸の風に乗って変化する赤いリボンが歴史と合わさり、一つの新しいかたちを創ることにより、男女共学化への歩みを進めることが表現されている[73]。リボンの一部分にはスクールカラーであるブルーが入っている[73]。
第一学年の初めから、総合進学・文系進学・理系進学・特別進学(文・理系選択)コースの四つのコースを設けている。かつては一括して募集し、入学後に本人の希望や能力・適性等に応じて各コースに割り振られていたが、現在は出願時にいずれかのコースを選択している。進級前にテストを受け、そのテストの点数によっては任意、又は総合進学コースへ強制的にコースの変更が行われる場合がある。
硬式野球部の1993年夏(第75回)での優勝をはじめ、全国制覇の経験のある部活動も存在する。
運動部の一部では練習時間の確保のため、総合進学コースの生徒しか入部できない。
氏名 | 在職期間 | 備考 | |
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初代 | 庄野一英 | 1915年7月3日[14] - 1923年4月1日[16] | 創立者[41] 1923年4月1日に脳内出血再発により死亡[16] |
二代目 | 池長孟 | 1923年10月29日[16] - 1942年3月31日[29] | 美術品収集家[34] 1923年6月12日に理事就任[16] |
三代目 | 武井尹人 | 1942年3月31日[29] - 1960年3月30日[138] | 資産家[139] 学校法人武井育英会初代理事長[41] 二代目理事長である武井功の父[140] |
四代目 | 永松忠雄 | 1960年4月1日[138] - 1970年3月31日[6] | |
五代目 | 姉崎岩蔵 | 1970年4月1日[6] - 1979年3月31日[141] | |
六代目 | 松田毅 | 1979年4月1日[141] - 1987年3月31日[67] | |
七代目 | 中野紀一郎 | 1987年4月1日[67] - 1991年3月29日[142] | |
八代目 | 森下一男 | 1991年4月1日 - 1994年9月30日[142] | 持病により1994年9月30日退職[142] |
九代目 | 森木畯一 | 1995年4月10日 - 1998年3月31日[143] | |
十代目 | 石井邦道 | 1998年4月8日[143] - 2001年[3] | |
十一代目 | 中島寛 | 2001年4月 - 2006年[3] | |
十二代目 | 阪本勝彦 | 2006年4月 - 2017年[123] | |
十三代目 | 内橋紀裕 | 2017年4月[123] - 2024年[144][145] | |
十四代目 | 清瀬欣之 | 2024年4月[145] - 現在[146] |
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