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この項目では、長岡市に併合された栃尾市について説明しています。併合後の動向については「栃尾 (長岡市)」をご覧ください。 |
栃尾市(とちおし)は、かつて新潟県に存在した市。2006年1月1日長岡市に編入されて消滅した。豊富な湧水や「栃尾のあぶらげ」(油揚げ)、上杉謙信ゆかりの地として知られている。
刈谷田川と西谷川の合流点に広がる平地に市街地が形成されており、中心街は中世の山城・栃尾城麓の城下町として発展し[1]、近世には長岡藩の代官所が置かれた。古くから繊維産業が盛んであり[2]、「栃尾紬」として知られている。
中心街は雁木のまち並みが多く残っており[3]、表町地区では1990年代末から新潟大学工学部建設学科と共同で雁木を活かしたまちづくりプロジェクトが行われている[1][4]。
長岡市への通勤率は20.7%(平成17年国勢調査)
新潟県のほぼ中央に位置する[注釈 1]。長岡東山連峰を境に越後平野と隣接した栃尾盆地の中央に、守門岳西面を水源地とし信濃川に至る刈谷田川とその支流の西谷川が合流する。市域はこれらの流域に加え、同じく刈谷田川支流の塩谷川、稚児清水川の流域を合わせたかたちとなる。冬季は積雪量が多く、山間部では積雪深4 m超を記録した年もある[5]。
栃尾市(に相当する地域)の人口推移(ただし昭和22年以前の数値は推定[注釈 3])。
1920年(大正9年)
| 33,212人
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1925年(大正14年)
| 33,909人
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1930年(昭和5年)
| 34,118人
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1935年(昭和10年)
| 34,341人
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1940年(昭和15年)
| 33,918人
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1947年(昭和22年)
| 38,530人
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1950年(昭和25年)
| 39,029人
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1955年(昭和30年)
| 38,455人
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1960年(昭和35年)
| 37,681人
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1965年(昭和40年)
| 36,013人
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1970年(昭和45年)
| 34,431人
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1975年(昭和50年)
| 32,324人
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1980年(昭和55年)
| 30,694人
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1985年(昭和60年)
| 29,692人
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1990年(平成2年)
| 27,809人
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1995年(平成7年)
| 26,390人
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2000年(平成12年)
| 24,704人
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2005年(平成17年)
| 23,168人
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2010年(平成22年)
| 21,004人
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2015年(平成27年)
| 18,761人
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出典:総務省統計局 e-Stat / 国勢調査 |
歴代市長
さらに見る 代, 氏名 ...
代 |
氏名 |
就任年月日 |
退任年月日 |
1 |
皆川信吾 |
1954年4月 |
1961年5月 |
2 |
千野勝司 |
1961年5月 |
1966年11月 |
3 |
山井龍三郎 |
1966年11月 |
1970年11月 |
4 |
渡辺芳夫 |
1970年11月 |
1986年11月 |
5 |
杵渕衛 |
1986年11月 |
2002年11月 |
6 |
馬場潤一郎 |
2002年11月 |
2006年3月 |
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産業
- 繊維製品
- 平坦地に乏しく米の収穫量に限界があった山間部では農家が養蚕・機織りや染色を行い、栃尾紬の産地として広く知られていた。明治維新以降は集約化が進み、関係企業がひしめくこととなった[注釈 4]。和服の需要減少により栃尾の繊維産業は織物、ニット製品が主力となった。戦後は高度成長期を迎え好調であったが円高の進行により海外との競争が激化。出荷高も昭和59年をピークに下降、撤退する業者も出た。
- 油揚げ
- 紬に代わり、栃尾という地名がブランド化して定着した商品である。通常の物とは厚みや長さが全く異なる油揚げのルーツは、馬の商談に訪れた農民や馬喰たちが手づかみで食べやすいように変化したものという説が一般的である。
商業
- とちおショッピングモール トッピイ - 食品スーパーのマルイと地元商業者が主導となり、22,127 ㎡の敷地に本棟・別棟計6,520 ㎡の平屋の建物と450台の駐車場、25のテナントを備えたショッピングセンターとして2000年(平成12年)4月にオープン[9]。
- 白鷹町(山形県)
- 上杉謙信による歴史的繋がりや企業の繋がり、共通する地勢などから1972年(昭和47年)5月11日姉妹都市提携[10]。
- 小学校
- 栃尾市立 上塩小学校
- 栃尾市立 下塩小学校
- 栃尾市立 栃尾東小学校
- 栃尾市立 栃尾南小学校
- 栃尾市立 中野俣小学校
- 栃尾市立 荷頃小学校
- 栃尾市立 西谷小学校
- 栃尾市立 東谷小学校
合併以前の廃校については新潟県小学校の廃校一覧を参照。
- 中学校
合併以前の廃校については新潟県中学校の廃校一覧を参照。
- 高等学校
バス
- 越後交通 - 栃尾駅跡に栃尾営業所が置かれている。長岡方面とを結ぶ路線や、旧栃尾市域内の路線を数多く運行している。
注釈
当時は刈谷田川の流路が異なり、栃尾市民会館付近で西谷川と合流していた。市街中心部での氾濫により被害が増大した。後の河川改修で下流に合流地点が移る。
上北谷村の分割に伴う処置。分割時の栃尾町編入住民の比率に基づき、分割以前の上北谷村人口を加算した。
目につきにくい郡部で広い敷地をもった工場として軍の関心が向き、太平洋戦争下においては工場が兵器生産工場の疎開先として利用されたケースがある。
出典
「文化センターが完成」(PDF)『広報とちお』第321号、栃尾市、1983年9月10日、8頁。 “新潟・栃尾市で初のSCきょう開業。”. 日本経済新聞. (2000年4月25日). p. 22 地方経済面 新潟 「合格街道 上来伝」(PDF)『広報とちお』第468号、栃尾市、1996年1月5日、1頁。 『映画年鑑 1969年版 別冊 映画便覧 1969』時事通信社、1969年
- 『市町村名変遷辞典』東京堂出版, 1990年。
- “平成14年度市町村要覧”. 新潟県. 2004年2月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年3月3日閲覧。
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