Loading AI tools
日本の作曲家 ウィキペディアから
東京府東京市日本橋区(現・東京都中央区)生まれ。化粧品業を営む平尾聚泉の四男として育つ。家は裕福であった。慶應義塾幼稚舎・慶應義塾普通部を経て慶應義塾大学医学部に進んだが、文学部独文科に転じ、1930年に卒業。大学在学中、ピアノをチャーレス・ラウトロプらに、ソルフェージュと音楽理論をヴァンサン・ダンディ門下の陸軍軍楽隊長・大沼哲に、和声学を弘田龍太郎に師事した[2]。また、卒業して8ヶ月後の11月に戸沢妙子と結婚。
1931年、夫婦でパリへ渡航。始めはスコラ・カントルム[3]でギ・ド・リオンクールに作曲を師事して和声学課程を修了したものの、学校紛争に巻き込まれた結果、1935年にリオンクールが創設したセザール・フランク音楽学校に転学。引き続きリオンクールに師事し、1936年に対位法課程とフーガ課程を修了した[1][2]。また、課外でフルートを学び、ガストン・クリューネルに師事した。1936年に帰国。1948年に作曲グループ「地人会」を安部幸明らと結成。作品に、ソプラノとバリトン独唱と管弦楽伴奏のための「隅田川」 (1936年)、管弦楽曲「砧」(1942年)、ヴァイオリン・ソナタ(1947年)、ピアノソナタ(1948年)、などがあり、室内楽がほとんどを占める。
戦後は国立音楽大学教授、日本現代音楽協会委員長などを務めるが、病気のため「オーボエ・ソナタ」(鈴木清三の委嘱、1951年)を最後として、1953年12月、46歳で没。翌年、「木管五重奏曲」(東京管楽器協会の委嘱)に対して毎日音楽賞を追贈される。
妻の平尾妙子(2008年没)と四女の平尾はるなは共にピアニスト。孫の辻功はオーボエ奏者。作曲家・歌手の平尾昌晃(出生名・勇)は甥。
「天長節」(作詞 黒川真頼、作曲 奥好義)をテーマにした変奏曲である(1945年=昭和20年の天長節に外地向け短波放送のため作曲されたが、その後2020年=令和2年の抜粋蘇演まで忘れられていた)。[5]
日本で最初の複数楽章を持った本格的なオーボエ・ソナタである。上記木管五重奏曲の初演に参加していた鈴木清三の提案によって着想されたが、作曲者最後の作品となった[6]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.