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日本の女優 ウィキペディアから
岡島 艶子(おかじま つやこ、1909年1月9日 - 1989年2月4日)は、日本の女優。本名は仁科 つや(にしな つや、旧姓は小牧)[1]。
サイレント映画時代のスター女優で、松竹キネマ・東亜キネマ・マキノ・プロダクションなどの作品に出演し、純情かれんな娘役で活躍した。戦後は主に東映の作品で端役として出演した。夫は映画監督の仁科熊彦。娘婿は俳優の川谷拓三、孫は共に俳優の仁科貴・仁科扶紀である。
1909年(明治42年)1月9日、愛知県名古屋市中区桑名町に、父・桃太郎と母・あさの娘として生まれる[2][3]。父は東京市の和菓子屋の長男で、後に大谷友四郎の名で歌舞伎俳優となり、名古屋・宝生座の座長を務めて名古屋の団十郎と呼ばれた[3]。その後友四郎は妻子を連れて東京へ戻り、6代目尾上菊五郎らからおやじと呼ばれて、劇界の生き字引として重宝がられた[3]。母は初め森川家に嫁いで2男1女を儲けたが夫と死別し、大谷と茶飲み友達として再婚した[3]。岡島の異父兄である森川貞造も歌舞伎役者となって市川新寿を名乗り、阪東妻三郎とは親友でもあったが、後に吉原の花魁と心中した[3]。
幼い頃から舞踊、琴、三味線などを仕込まれ、6歳の時の1915年(大正4年)に新派の伊井蓉峰・河合武雄一派に子役として出るようになり、明治座で初舞台を踏む[3]。8歳の時には井上正夫一座に入り、浅草みくに座、赤坂演技座、本郷座の連鎖劇に出演する一方、歌舞伎の小芝居にも子役で出演する[3]。この間に泰明小学校に入学している[3]。
1921年(大正10年)9月、満12歳で松竹蒲田撮影所に入社[1]。6代目嵐吉三郎から屋号の岡島屋を贈られて岡島艶子を名乗り、牛原虚彦監督の『狂へる剣技』の曲馬団の少女役で映画デビューする[3]。以来、小娘・舞妓・子守女などの役を演じ、大久保忠素監督の『帰らぬ人形』で初めて大きな役がつく[3]。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災により蒲田の大部分が下加茂撮影所に移り、岡島もこれに同行。翌1924年(大正13年)1月に蒲田へ戻り[3]、2月8日に東栄子、押本映治らとともに準幹部に昇格する[4]。娘役として重用され始め、池田義臣監督の『スヰートホーム』で栗島すみ子と共演、清水宏監督の『峠の彼方』では押本の相手役をつとめ、牛原監督の『小唄集 鈴蘭』では初主演する[3]。
1924年(大正13年)、牧野省三に呼ばれて東亜キネマの女優強化のために入社を説得され、牧野の巧みな話術と人柄に惹かれて即座に入社を承諾。松竹に退社を申し出ると会社側は両親を責めて引き留めにかかり、「そのうちお返ししますから」という両親の頼みで許され、11月に東亜キネマ等持院撮影所に入社する[3]。1925年(大正14年)、賀古残夢監督の『武士道』が入社第1作となり[3]、二川文太郎監督の『墓石が鼾をする頃』では風変わりな少女の難しい役どころを演じて、10代のうちに、泉春子・森静子・マキノ輝子につぐ地位を確立していく[1]。その後はマキノ・プロダクション御室撮影所で『切られの与三郎』『黒髪夜叉』『快傑夜叉王』などに出演し、牧野監督の『闇乃森』では仇討ちに出た夫の留守に夫の友人と密通する妻という大胆な役を、体当たりで演じた[5]。
1926年(大正15年)4月1日、マキノを退社して東亜キネマに入社[6]。同年10月2日には松竹下加茂撮影所に加入し、松竹と提携して請負製作をしていた衣笠映画聯盟の作品に出演する。聯盟の第1作『照る日くもる日』ではヒロインを演じ、『稚児の剣法』では林長二郎の相手役に起用される。続いて『お嬢吉三』『乱軍』でも林と共演するが、1927年(昭和2年)4月16日、千早晶子が林の相手役として入社したことに不服を懐き脱退[7]。勝見庸太郎が牧野の使いでマキノ復帰をすすめに来たこともあり、即座にマキノへ戻る[5]。井上金太郎監督の『いろは仮名四谷怪談』、牧野監督の『忠魂義烈 実録忠臣蔵』、マキノ正博監督の『浪人街 第一話 美しき獲物』などの時代劇出演し、吉野二郎監督の『夏の夜の唄』以降は現代劇が中心となる。1929年(昭和4年)、マキノの映画監督の仁科熊彦と、小笹正人の媒酌で結婚[1][8]。
1930年(昭和5年)、この頃からマキノは経営不振に陥り、8月にマキノを退社する[8]。1931年(昭和6年)に嵐寛寿郎が第2次嵐寛寿郎プロダクションを結成して夫の仁科がこれに同行した際、岡島もこれに参加し、仁科監督の『右門捕物帖 十八番手柄』『戸並長八郎』などで嵐の相手役をつとめる[8]。1932年(昭和7年)には富国映画社に夫婦ともに引き抜かれ、『情熱の波止場』に出演するが、同年6月には資金難で解散し、1933年(昭和8年)に夫妻で宝塚キネマに入るも、こちらもすぐに解散してしまう[8]。その後は実演や新興キネマの映画に頼まれて時折り出演したが、1935年(昭和10年)からは三女の育児に専念する[8]。
戦後は、大河内龍に頼まれて地方巡業の一座を組織し、大河内の『丹下左膳』・岡島の『滝の白糸』の二枚看板で中国・四国・九州を回り、ついで九州劇団や神田千栄子一座に加わる[8]。1955年(昭和30年)、東映と専属契約を結び、『荒獅子判官』『暴れん坊街道』『真田風雲録』などに脇役で出演。その後フリーとなり、他社の作品やテレビドラマにも出演する。1980年(昭和55年)、第4回山路ふみ子映画賞功労賞を受賞。
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