Remove ads
日本の北海道帯広市にある菓子メーカー ウィキペディアから
北海道を代表する銘菓の1つである「マルセイバターサンド」をはじめとする菓子を製造・販売している。直営店などの店舗は北海道のみで展開しており、北海道内の主要空港などでも商品を取り扱っている。北海道外では通信販売で商品を購入することができるほか、百貨店で開催する物産展などで商品を販売することがある。
各種社内制度が充実しており、従業員の「ワーク・ライフ・バランス」確保に向けての取組みが評価されているほか、メセナや企業の社会的責任(CSR)に積極的な企業であり、「中札内美術村」や「六花の森」、「六花文庫」の運営などを行っているほか、1960年(昭和35年)創刊の児童詩誌『サイロ』は毎月1回の発行を続けている。
名称について「六花」(りっか、ろっか、むつのはな)とは雪の結晶を表しており、社名を変更する際に小田豊四郎が当時の東大寺管長であった清水公照に相談し、「北海道を代表する菓子屋になるように」という願いを込め、北海道の代名詞とも言える雪に因んで名づけた[1]。
六花亭は、「最上の原料を使うこと」「地域に根ざしたストーリーや季節感を現していること」で「六花亭らしさ」を商品にしている[2]。
十勝地方には豊富で良質な原料があるにもかかわらず、「最上の原料を使う」ために、十勝産には拘っておらず、十勝で最上のものがなければ、外所から入手するものもある[2]。小麦粉はその一例であり「マルセイバターサンド」は北米から取り寄せた専用の粉を用いている[2]。商品名やデザインに関しては、十勝の歴史・風土や先人の苦労を投影することを意識しており、「マルセイバターサンド」は依田勉三が興した「晩成社」が北海道で初めて商品化したバター「マルセイバター」に由来している。そのほか、開拓時の苦闘を詠んだ依田勉三の句「開墾のはじめは豚とひとつ鍋」から名づけた「ひとつ鍋」[3]、十勝平野をイメージする「大平原」などがある[2]。
また、六花亭の商品は「十勝の人が日常食べるおやつ」を作ることを常に意識して、毎日おやつとして食べることができる価格帯を想定している[2]。商品づくりでも手作業の方が味が保たれる工程については機械化せずに行っている[2]。
上記商品はいわゆる「土産菓子」であり、空港の総合土産店やオンラインショップ等でも購入が可能である。これらとは別にシュークリームやショートケーキなどの生菓子を直営店や百貨店の売り場で販売している。道民向けの安価で高品質な商品であるが、公式サイト上では一切紹介されず通信販売も行っていない。また「さくさくパイ(本店等限定)」「シュクレー(西三条店限定)」など店舗限定の商品も存在するが、こちらも通信販売などは行っていない。
「六花亭製菓」は、1860年(万延元年)に秋田県出身の藩士・佐々木吉兵衛が箱館(現在の函館市)で創業した老舗であり、現在の「千秋庵総本家」が発祥となっている[4]。その後、明治から昭和にかけてのれん分けする形で、北海道内各地で「千秋庵」が誕生していった[4]。1894年(明治27年)に「小樽千秋庵」が創業すると(1997年廃業)、1921年(大正10年)に小樽千秋庵から独立して「札幌千秋庵」が創業した[4]。そして、1933年(昭和8年)に札幌千秋庵の創業者・岡部式二の弟である岡部勇吉が独立し、帯広に「札幌千秋庵帯広支店(帯広千秋庵)」を創業したが[4][5]、体調不良のため1937年(昭和12年)に経営を甥の小田豊四郎が引き継いだ[1][2]。十勝では豆やビートといった原材料に恵まれていたことから、すでに「伊豆屋高野三郎」(後のイズヤパン、現在の札幌パリ)、「露月」などの同業他社が多くて経営は苦戦していたが、1939年(昭和4年)頃には砂糖の大量購入が功を奏し、「価格等統制令」で砂糖が不足した他社を凌いで地域一番店になった[1][6]。
「第二次世界大戦」のため、1943年(昭和18年)に小田豊四郎が招集されると店舗は「偕行社」の売店となったほか、工場疎開によって休業を余儀なくされた[1]。1946年(昭和21年)に小田豊四郎が帰還すると店の運営を再開し、戦後に「カボチャ饅頭」などの製造を開始した[1][6]。1952年(昭和27年)には帯広市からの依頼によって『帯広開基70周年記念式典』用の最中「ひとつ鍋」を開発し、初のオリジナルヒット商品となった[6]。以後は和菓子を中心に製造・販売していたが、次第に酪農を生かした洋菓子を開発するようになった[6]。1963年(昭和38年)にはマドレーヌの「大平原」が誕生した[6]。1967年(昭和42年)、小田豊四郎がヨーロッパへ視察研修へ行った際、視察先の菓子店でチョコレートが主力商品となっていることを目の当たりにし、「日本でもチョコレートの時代が来る」と感じた小田豊四郎が帰国後の翌年からチョコレートの製造を始めた[2]。白いチョコレートの製法を聞くと「北海道の雪のイメージにも合う」ということで試行錯誤を重ねて、日本国内初となる「ホワイトチョコレート」が誕生した[2]。日本国有鉄道(国鉄)による「ディスカバー・ジャパン」のキャンペーンによって広尾線(現在は廃線)愛国駅から幸福駅への切符が「愛の国から幸福へ」としてブームになると、ホワイトチョコレートは帯広を訪れた通称「カニ族」と呼ばれた若者達などから口コミで全国的に知られるようになった[2]。他社でもホワイトチョコレートを販売するようになると商圏を札幌圏など北海道内に拡大して展開しようとするが、すでに「千秋庵製菓」(札幌千秋庵)などが店舗を構えていることなどから活動は狭められた[6]。そこで、1977年(昭和52年)に「千秋庵」の暖簾を返上し、「六花亭製菓」と改名した[2][6]。
「六花亭」への改名記念で発売したのが「マルセイバターサンド」であり、これが大ヒット商品となり販売網を拡大していった[6]。1978年(昭和53年)には「帯広工業団地」に工場を建設した。1987年(昭和62年)には中札内村の柏林約30ヘクタールを取得し、製菓工場を中心に地域文化を醸成する「地域開発計画」を企画・立案した[7]。このプロジェクトは、「坂本直行記念館」開館を皮切りに敷地内に美術館やレストランなどが点在している「中札内美術村」、マルセイバターサンドの製造工場「六花亭中札内ファクトリーパーク」とその周辺をランドスケープした「六花の森」となって地域に根ざしている。
2015年(平成27年)には札幌市に「六花亭札幌本店ビル」が開業し[8]、店舗やギャラリー「柏」、ホール「ふきのとうホール」があるほか、テナントとして「ヤマハミュージック札幌店」などが入居している[9]。
2024年10月に米カリフォルニア州に新店舗を開設する。この新店舗は初の道外出店とともに、初の海外進出となる。道内へのインバウンド(訪日外国人客)が増加する中、社員の語学力や接客をさらに向上させる一環。新店舗は、ロサンゼルス郊外のランチョクカモンガ市にある商業施設「ビクトリアガーデンズ」に設ける[10]。
六花亭では、1960年(昭和35年)から従業員の心の健康診断を年2回実施しているほか[18]、1991年(平成3年)から全施設の完全禁煙化を実施している[18]。また、従業員の「ワーク・ライフ・バランス」実現に向けた取り組みが盛んであり、1989年(平成元年)から正社員や非正規雇用に関わらず「年次有給休暇」100%取得を実現しているほか、「バースデー休暇」や「メモリアルデー休暇」、自己研鑽のため最長2か月までの「公休制度」、有給ではないが、従業員6人以上のグループ旅行に限って旅費の8割を会社が助成する「社内旅行制度」などの休暇制度を設けている[19]。また、育児休業の取得を奨励して日常化しているほか、2006年(平成18年)から社内託児施設「ごろすけ保育園」を設置している[20]。
各種社内制度に特色があり、「1人1日1情報」では日々の雑感から職場への不満など、個人の思いを「情報」として会社に提供することを奨励している。提供された情報は日刊の社内新聞『六輪』に実名で掲載している。年に1回社内公募が行われる「公休利用制度」では、書類選考によって選ばれた従業員に2週間から最長2ヶ月間の公休を与えている。また、訪日外国人旅行の増加に対応するため、「英語力育成制度」を設けて英語を勉強する従業員に補助金を支給している。
下記店舗のほかに北海道内の百貨店や総合スーパー・スーパーマーケットなどにもテナント形式で出店している。また、直営店には一部の店舗を除いて「喫茶室」を併設しており、軽食などを提供している。
六花亭のメセナは、1951年(昭和26年)に小田豊四郎が、十勝支庁主催の経済セミナーで講師が語った「お菓子は文化のバロメーター」という言葉に感銘を受け、「帯広の文化を織り込んだお菓子を作り、文化の薫りあふれる食生活づくりに役立ちたい」という責任を感じたことから始まっている[21]。1958年(昭和33年)、小田豊四郎のもとに福島県郡山市にある菓子店「柏屋」が発行した子どもの詩集『青い窓』が届けられた[21]。これに感動した小田豊四郎は「同じような詩誌を創れば、十勝の子どもたちにも役立つのでは」と考え、地元の学校の先生方による賛同と協力もあり、1960年(昭和35年)に文化活動の第一歩となる児童詩誌『サイロ』創刊号を発行した[21][22]。表紙絵は画家・坂本直行によるものであり、小田豊四郎の依頼に坂本は「私は死ぬまで無償で描き続けるから、廃刊しては駄目ですよ」と述べており、亡くなる直前まで毎月の発行のために欠かさず絵を描き続けた[21]。また、翌年から坂本は帯広千秋庵の包装紙のデザインを手掛けるようになり、現在の「六花亭=花柄」というイメージが出来上がった[6]。なお、2010年(平成22年)からは真野正美が表紙絵を描いている。
創業50周年を迎えた1982年(昭和57年)には当時の帯広本店喫茶室にて室内楽の『演奏会』と古典落語の『寄席』が催され、当初は1年間の記念事業とする予定であったが、周りから惜しむ声が多かったため継続することになった。現在、コンサートは帯広本店「はまなしホール」のほかに中札内美術村、真駒内六花亭ホールや札幌本店「ふきのとうホール」で開催している。1999年(平成11年)には帯広で「六花文庫」を開設しており[23]、2004年(平成16年)には「真駒内六花亭ホール」内に開設した[24]。館内には約8,000冊の書籍を保管し、自由に閲覧できるようになっている。
「小田豊四郎記念基金」は小田豊四郎が現役を退く際に、今までの「食を通しての街づくり」と同じく「北海道の食文化の発展」を願って寄与することを目的に、基金を設立した[25]。2003年(平成15年)に北海道から特定非営利活動法人(NPO法人)に認証された。「小田豊四郎賞」は基金会員の推薦を基に北海道の食や食文化の発展に功績のある個人団体を選考し、受賞者には正賞ブロンズ像と副賞を贈呈している[22]。
「六花亭軟式野球部」は2004年(平成16年)の『政府管掌健康保険全国軟式野球大会』で初優勝しているほか、北海道代表として出場した『第69回国民体育大会』で第3位、『第71回天皇賜杯全日本軟式野球大会』でベスト4になっている。2021年からは元法政大学野球部監督の青木久典が監督を務めている[26]。元プロ野球選手が所属することもあり、過去には元東北楽天ゴールデンイーグルスの神保貴宏と加藤正志が選手登録している時期があり、2021年には元福岡ソフトバンクホークスの鈴木駿也が、2022年にはタイトル獲得経験もある元埼玉西武ライオンズの多和田真三郎が選手登録している。
「六花亭ドルチェアンサンブル」は定期演奏会や吹奏楽コンクールなどに参加している。かつては女子アイスホッケーチーム「釧路ベアーズ」のスポンサーとなっていたほか[27]、サッカークラブ「六花亭マルセイズFC」があった。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.