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小説家 ウィキペディアから
譲原 昌子(ゆずりはら まさこ、1911年(明治44年)11月14日 - 1949年(昭和24年)1月12日)は、昭和期の小説家。本名は船橋 きよの。
1911年(明治44年)11月14日 、 茨城県東茨城郡沢山村大字阿波山にて、同地生れの父・船橋捨吉と、 神奈川県足柄下郡生れの譲原スヽの間に、長女として生れる。但し出生地は、本人の略年譜では「北海道空知の国」となっている。また、豊原高女の同級生である高木秀子はきよのを「養女」であると述べており、昌子による「抒情歌」「泉」などの自身をモデルとした作品でも「もらい子」となっている[1]。
物心つく頃、父母に連れられ樺太へ移り住む。父・捨吉は富士製紙の製材部に職を得て、落合町に居を定めた。1925年(大正14年)3月、きよの14歳のときに、妹・優美子が生れる。但し右遠俊郎は、この際に母・スヽが44歳であることや、「泉」に登場する姉妹は共にもらい子であることを挙げて、「あまり根拠のない推理」としながらも、優美子もまた養女ではないかと推察している[1]。
1928年(昭和3年)、樺太庁豊原高等女学校を卒業するが、補修科(自筆年譜では師範科)に残る。修了後、樺太庁小学校尋常科訓導の資格を得て、18歳にして落合第二小学校に勤め始める[1]。
1933年(昭和8年)、真岡第二小学校に転任、真岡町に居を移す。既に地元誌に短歌を発表していたが、この年に創刊された『文芸首都』に詩や小説の投稿を始め、掲載される。1934年(昭和9年)5月、父・捨吉が病没。以後、『文芸首都』『樺太(地元誌)』『ポドゾル』などに、詩、小説、随筆などを盛んに執筆する。1938年(昭和13年)、「樺太」で九鬼賞を受賞[1]。
1939年(昭和14年)、『文芸首都』2月号に発表した「朔北の闘ひ」が、昭和14年上半期の第九回芥川賞候補となる[注 1]。2月、母・スヽが死去[1]。
1941年(昭和16年)3月、12年間勤めた小学校訓導の職を辞し、妹・優美子と共に上京する。芝区新橋の四畳半アパートに2人で居を構えた[注 2]。この頃、上京前に「早稲田文学」に発表した「抒情歌」が、昭和16年上半期の第十三回芥川賞候補となる[1]。
1943年(昭和18年)には、『新作家』1月号及び2月号に発表した「故郷の岸」が、上半期の第十七回芥川賞候補となり、「泉」が樋口一葉賞候補となる[1]。
終戦後、社会の混乱で職を失い、困窮の日々を露天商として過ごす中[2]、1946年(昭和21年)の夏より結核を発症する[1]。しかし同人誌『民情通信』に加入して作家活動を続け[2]、同年11月には、生前唯一の著書『朔北の闘ひ・抒情歌』が札幌の篁書房から刊行された[1]。
1947年(昭和22年)2月、『文学の旗』に発表した「死なない蛸」が新日本文学会の新日本文学第一回創作コンクールに入賞[1]。
1948年(昭和23年)1月には、宮本百合子とNHKのラジオで「民主的文学について」という題で対談しており[3]、6月には日本共産党に入党している。しかし病状の悪化により、10月、身辺を整理して清瀬の国立東京療養所に入院[1]。
1949年(昭和24年)1月12日、徒歩で手術室へ向う途中、心臓発作を起し急死。37歳と2ヶ月であった。遺骨は身寄り不明のまま、全て青山霊園の無名戦士の墓へ納められた[3]。
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